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人が入ってくるのを許す状態について
- 人が他の人を自分の中に進入するのを許可するのってどういう状態でしょうか。私は人を自分の中にいれた経験がないので感覚が分かりません。
- 人との関係はドライです。深い人間関係を築きたいのですが方法が分からなく、自分を守るためにガード、バリアを張っています。
- 「人に心を開いている」「相手を受け入れてる状態」について、具体的な心理状態や態度、対応が分からず困っています。誰か詳しい方がいらっしゃいましたら教えてください。
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「人に心を開いている」「相手を受け入れている状態」とは、相手を理解したい、共感したいという心理状態が一番重要ではないでしょうか。人に興味を持つこと、また、波長の問題も非常に大きいと思います。 つい最近、おもしろい体験をしました。私には精神的に弱っている人をひきつける友人がいます。その友人に、私の飼い犬がもう死ぬと解っているときに電話したのです。そのときの私の心境と言えば「このまま点滴で命をつないでやるべきか、それとも点滴を止めて逝かせてやるか」で、相当極まっていたのですが、犬の話をしたとたん彼女は泣いてしまいました。それと同時に私の心は明らかに軽くなり、「移してしまった」のが解ったのです。彼女とはスピリチュアル仲間ですが、後日、「あれは、面白かった!」と大うけでした。彼女は特に動物が好きではなく、何故泣けるかも解らず、「あ、拾った!」と感じ、私は私で、「あ、移す気は毛頭無かったのに!・・・そうか、彼女はこういう風に人の気持ちを癒すのだな。」と解ったのでした。そして「だからって、どないせいちゅうねん!」という話なのですが。 人と人との間に、理解と愛と信頼があれば、自ずと通じると思いますよ。これは、テクニックではないのです。あくまで、自分と人の人間関係の話だと思います。彼女はとても、同情深いのです。そのぶん、ゴミ捨て場になっております(笑)。
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こんにちは。 >感覚でつかみにくいので分かりません。 そうでしょうね、そしてまた『言葉や表現でそれを伝える事もそれ以上に難しい事』 ですが、なんとか、『通じるよう、ご理解の参考となるよう』綴ってみたいと思います。 スピリチュアル…これは既成の概念ではなく、 『五感+シックスセンス(第六感)』を自身の持てる最大限に活用した時、 生まれてくるように思います。 大切な事は『気を向ける、注意をする(”ありのまま”に感じ取る)』と言う事です。 ですから、『特別な事』ではありません。 しかし、難しい点は『主観』に左右されてしまい、 『ありのまま』を感じられなくなってしまうと言う事でしょう。 『主観』は、其々個人の『過去(経験、体験、記憶)』に基いた思考です。 従って、『完全な主観、完璧な主観と言うモノは存在し得ない』のです。 主観は『フィルター、バリアに変じ』、『ありのまま捕らえる事の障害』と なってしまうのです。 つまり、主観=偏見と言っても過言ではないでしょう。 『過去(経験、体験、記憶)』に”起因しない反応、心理状態”の一つ例を挙げると、 『感動』があげられると思います。 今まで、『見た事も、聞いた事もない、想像を遥かに絶する大自然の絶景や現象』に遭遇した時、 その瞬間、『思考は活動できない』のです。 そしてそれは同時に『時の流れさえ忘れさせてしまう』…茫然自失の状態になりますが、 『それを感じ取る感性(五感+第六感)』はフル稼働しています。 >「人に心を開いている」 >どういう心理状態でどういう気持ちなんでしょうか? これは”おそらく”共鳴、共感している状態を指すと思います。 その際やはり、『白紙状態(無為無想)』で受け取らなければ、 相手と『同じ感覚を共有する事』はできません。 (* 正確には『白紙ではなく、無色透明=クリアーな状態』です。) 此処で邪魔になるのは前述した『主観』です。 主観によって『白紙状態ではなくなってしまう』のです。 >「相手を受け入れてる状態」 >どういう心理状態でどういう気持ちなんでしょうか? ここでは『自己』と『他者』と言う区別をする事が”してはいけない”重要な事になります。 自己=自我=エゴ…これらの『私』という一人称単数形と、 他者(=あなた)と言う存在を『分離した時点』で、 そこに『明確な境界線ができてしまい』、自己の中に他者を受け入れると言う事は、 その境界線の『内と外を混合してしまう状態』となります。 その状態で生まれるのは、『葛藤、混乱』しかありません。 そこで一人称単数形であった『私』と、二人称単数形であった『あなた』を 一人称複数形の『私たち』と言う感覚を思い出してください。 そして『私たち』が居る、存在するのは『私たちのフィールド』と言う状態を 感じるのです。 私たちのフィールドは、『私のモノでもなく、あなたのモノでもなく』、 『私たちのモノ』なのです。 つまり共有のモノであると同時に、『個人の蔑ろのするものではない』のです。 またこれを進めていくと、『3人称の存在(彼ら、それら)』も、 『私たち”すべて”』と視点を変えるだけで、 『私たち全てのフィールド』を共有できるのです。 >受け入れたいけど受け入れたことがないので分かりません。 『人には必ず”エゴ”』があり、『自己防衛反応』も自然と起こりますから、 『自己に内に他者を受けいれる』ということはできません。 またそれが仮に出来たとしても、その状態は他者から見ると『束縛、拘束』となる為、 成立する事はないのです。 ですから、『個人のテリトリー』を包括する『私たち全てのフィールド』を意識した時、 自ずとそのフィールドからは『何者も排除する事は出来ない』と言う事に気づくと思います。 …私が此処で『使った単語、表現…』これらも、実は既成概念、思考の産物にほかなりません。 ですから『このフィールドで何かを感じ取って頂けたら…』と、願って止みません。 それでは。