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方言の劣等感
- 東京に進学した私は、東京弁が話せなかったことにより、劣等感を抱くようになりました。
- 私の方言と東京弁の乖離が大きく、東京弁に適応することができず、環境の変化に適応障害を引き起こしました。
- 現在は違う場所で生活していますが、東京の人と接するときは緊張します。
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多少似た境遇かも知れません。 ただし、過疎度が違いますし、東京へ来た年齢も違います。 でも、内面的な体験が似ているような気がします。 関西の山間部の村で生まれ、3歳のときに東京近郊に転居しました。 転居しても、両親は同じ村の人間ですから、家庭では関西弁でした。 関西にいた時の自分は、早口でしゃべる子供だったのですが、転居先の幼稚園では、早口の関西弁がほとんど通じなくて、無口な子供になりました。 耳から入ってくる標準語は良くわかるので、それに反応して当時の自分がしゃべろうとすると、早口の関西弁でしか話せなかったので、みんなから浮いてしまい、孤立してしまったのです。 幼稚園の先生たちには、僕のしゃべる関西弁がわかるようで、何かと面倒を見てくれたのですが、子供同士の間で、浮いてしまうと、中々居場所がありませんでした。 だから、結局不登校にならざるをえませんでした。 不登校になってから、半年ほどして、クラスメート全員で家に迎えにきてくれて、幼稚園に再び通い始めましたが、それ以後ほぼ完璧に無口な少年に変わりました。 幼稚園で無口のまま在籍し、通園することは、針のむしろの上に正座しているようで、とても痛かったことを、つい昨日のことのように思い出します。 無口と言っても、当たり障りの無い、ごく普通の会話はたどたどしい標準語で出来るようになり、外では標準語、家庭では関西弁で通しました。 高校生のときの、論文試験でなかなか考えがまとまらないときに、するすると英文が浮かんできました。いつの間にか、英文と和文の両方で考えることができるようになっていたのです。 もしかしたら、標準語と関西弁の両方で何時も考えていたからかもしれないと思います。 だから、考えのまとまらないときには、英語で考える習慣が身につきました。それは多少の武器になりました。 青森秋田など、コアな東北弁地域出身の人とも、心が通じやすいです。何となくですが、二重言語(?)の所為だと思っています。 ある時、標準語でスピーチをする機会があり、それを聞いた関西の従兄弟たちから、「綺麗な標準語をしゃべれるんだ。」と、誉められました。彼らが、僕の標準語を聞いたのは、その時が初めてだったのです。 現在の僕は、相手が関西弁なら関西弁、標準語なら標準語でしかしゃべれません。 豹変はしませんが、そういう言葉遣いが身に付いてしまっているのです。 だから現時点では、上手く東京弁に適応できているような、外見をしています。 しかし、感情的なこと、情緒的な表現を伴うときには、いまでも関西弁が出てきます。押し殺す必要がないと分かったからです。 幼稚園の時の、針のむしろに座っていた時のことは、忘れられない「痛い」思い出です。これも、無理に忘れる必要は無いと思っています。 そう言う体験や経験、不器用さも含めて、今の自分自身。と割り切ると言うか、居直ることができたからです。
お礼
ありがとうございます。 いまだに変えずに、今日にいたってます。 方言の響きがいいのか、仕事柄触れる機会が多い高齢者の方と話すときに、安心してもらえてます。古い方言なのが、余計良いみたいです。 「生物多様性条約」ではありませんが、方言とか文化の多様性もあってほしいですね。ぼくみたいなのが生きていきやすいためにも・・・