戦後から高度経済成長期までの間、わが国では、金融政策は主として日本銀行と大蔵省(現財務省)が担当していた。金融政策の目標は歴史的に見るとかなり変化している。例えば戦前の金本位制時代には、金本位制の維持、つまり銀行券と金の兌換を保証することが最大の目標であった。しかし戦後の高度経済成長時代には、国際収支の均衡を維持するため、しばしば金融政策が発動された。また二度の石油ショックでインフレが発生すると、物価上昇の抑制が金融政策の最大の目標となった。
このように金融政策の目標は時代によってその重点の置き方が違ってくるが、基本的には金融政策の目標として(1)物価の安定、(2)国際収支の均衡、(3)完全雇用の実現、(4)資源配分の効率化、が挙げられ、この4つの全部または一部がその時々で目標となる。
さて金融政策には色々な種類があるが、大別すると質的政策と量的制策になる。質的政策とは、直接金利を変動させてお金の流れを調整する方法で、その代表的なものが日本銀行による公定歩合操作である。第1次石油ショックの時、物価上昇を抑制するために、公定歩合は73年12月に一気に2%引き上げられ、史上最高の9%に達した。また第2次石油ショックの時も、79年4月から公定歩合は徐々に引き上げられ、80年3月から8月にかけてやはり9%水準にまで達した。このような大幅な引き上げの効果もあって、二度の石油ショックがもたらした2桁インフレは鎮静したが、一方で深刻な景気後退を招いた。
一方、量的政策というのはお金の流れる量を直接コントロールする方法で、日本銀行が実施する公開市場操作、準備預金制度の準備率変更、それに一般に窓口指導と呼ばれる貸出増加額規制などが代表的な手段である。
以上の金融政策手段のうち、当時、日本銀行が最も重視していたのは公定歩合操作と窓口規制の2つであった。欧米で最もポピューラーな公開市場操作は、わが国の公開市場がまだ充分に発達していなかったことや、規制金利体系がどっしりと根を張っていたために、戦後の日本経済の金融政策手段としては主役を演じきれていなかった。また準備率操作も、準備率の水準があまり高くなかったこと、さらに変更の際の変更幅も小さかったことなどから、実際には引き締め気の補助的手段として利用されたに過ぎなかった。
以上、ご参考まで。