原理としてほとんどありえません。
理由は…
子どもにとって父と母は別種の存在です。単に「桜と梅」のように違うのではなく空と大地のようにちがうのです。(ギリシア神話では天地開闢の神を「父神ウラヌス=天空」と「母神ゲー(ガイア)=大地」としていますね。)もうすこし、現代風・社会心理学的に言うと父性原則と母性原則の体現者としての父母ということになります。
その、内容の一部で「父性原則は垂直な人間関係」「母性原則は水平な人間関係」を基盤としています。
垂直な人間関係とは、支配・服従、責任、補佐、役割分担、などを指します。
水平な人間関係とは、包容、平等、協働、融和などを指します。
友人関係というものは、原則として水平な人間関係ですから母性原則に近いわけです。
また、おおむね父親の役割は社会生活と強く結びついています。(それに対し母親の役割は個人生活をカバーしています。)そこでは感性より知識・経験が重視されますので年齢差、経験差が絶対的に違う場合は上下関係しかありえません。つまり、10代の青少年と30代の壮年とが“友人”であるためには青少年の側に相当の経験が必要となります。(逆に壮年の側が経験不足・未熟であることもありえます)
この場合の「経験」とは、「単に体験しただけではなく体験を対象化することで経験とすることができることをしっている」ことも含みますので、場数を踏んだオトナと青少年で“友人”の関係はやはり難しい。
私個人の場合も20歳~22歳年下の“友人”がいますが、経験・知識・見識が相当にちがうので対等であることは無理です。つまり、対等であるためには本気で喧嘩・論争ができなければならないのですが“友人関係”を維持するためにはどうしても手加減が必要です。
※)ここでの「対等」とは「存在の平等性」を踏まえたものであることを付記しておきます。
もうひとつ、フロイトの心理学では一般に息子は父親を「超えるべき存在」としています。(私個人の意識では「超える」は違和感がありますが…)
「超える」ということは両者に対して同じようにあてはまるモノサシが想定されています。
娘は母親を「超えるべき存在」としているのでしょうか?
お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほど、父と母ではそもそも「型」が違うんですね。 すごく参考になりました!