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変奏曲、フーガと長い演奏時間の作品の多作性。
変奏曲、フーガと長い演奏時間の作品の多作性。 変奏曲やフーガという技法を使用すると、演奏時間の長い作品を数多く作曲できるように見えるのですが、なぜでしょうか? Max Reger(レーガー) / Kaikhosru Shapurji Sorabji (ソラブジ)は長時間の作品をかなり数多く作曲していますが、それらの作品の中に占める変奏曲やフーガの割合が大きいように見受けられ、この疑問を持ちました。 どなたか理由をご存知でしたら、教えてください。
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- gldfish
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一般論というよりも、個人的見解でいいですか? 表現物・・‘表現する事’で一番難しいというのは、元ネタも型も無い、ゼロの状態から生み出すということです。 つまり裏を返すと、形式がある、参考対象がある、主題が用意されている・・等、ある種の制約が課されている場合の方が、作品を構築していくことが比較的ラクということはあります。 で、クラシック音楽に例えるなら、その一つの典型例が、変奏曲、フーガ・・といった、始めに用意された主題を、発展させたり、あるいはそこから派生したインスピレーションを形にするという形式。 用意された主題に、既存のパターンを組み合わせて別物に発展させる等、無いアイデアを絞らなくても比較的事務的に簡単に新曲が導けるという性質はあるかと思います。 一方、特定の主題にあまり縛られない‘自由’な音楽の場合。曲のその瞬間瞬間でゼロ(に近い状態)から音楽を形にするようなものなので、アイデアが生まれな(あるいは用意されていな)ければ、それまでとなってしまうと思います。限られた手数や引き出しの中から一曲仕上げようとすると、どうしても曲の総時間も限られてしまうというのもあるのかもしれません。 あくまで個人的見解ですが、ご参考までに。
お礼
ありがとうございます。 なかなか深みのあるご見解だと思います。特にフーガのような多声音楽は、楽譜をみたり演奏を聴きますとかなり複雑に聞こえるのですが、分析してみると作曲上の決まりごとのようなものも多く、書法をマスターすると、そうした決まりごと(形式)にのっとって、ある程度一種「機械的」に曲を作っていける、そうなのかもしれません。そういえば、バロックから古典派までの作曲家はかなりの多作の人が多かったですが、そうした共通の形式や書法に乗っかって何十曲も作曲した、いわば作曲というよりも「変形」に近い、とこう書いていた音楽評論家もいました。