まぁ、戦国時代と現代を同じ見かたするのは、どうかと思うけど。
織田家のあった時代には、木曾3川の氾濫がしょっちゅうで、米作りは投機的な意味合いが強く、根付くには難しい土地であり、そのため、証人的な人間が多く、地理的な条件もあって人の往来も多かったし。
信長でさえ、美濃を平定したら、すぐに居城を岐阜に移して、尾張の土地には代官を置いただけ。
蜂須賀家は今の大治町あたりの野武士ですし。
江戸時代になって、尾張徳川家が、治水に力を注ぎ、新田開発も進めたので、住みやすくなりました。現在の熱田神宮の西から一帯は、すべて干拓による新田で、そのため町名も1番町から十一番町とか、〇〇の割りとかになってます。
江戸期以降の土着の人間は投機的なことをやめて、堅実に農業で生計が立ったので、人と人との結びつきが強く、他排的な土地柄となりました。
ただ、第二次大戦のときに三菱を始めとして愛知航空機などの産業が興りましたから、周辺の人間を動員して生産した経緯があります。
名古屋は平地が広く、ほとんど起伏がないので、住みやすいです。
他排的な土地柄からか、移転することを余り好まず、商売で名古屋へ入り込むのは難しいとさえ言われる程です。
新規取引を極端に嫌がるのです。ですから、尾張の中で全てを賄えるような土地ですから、出て行くことも容易ではなく、名古屋では有名でも他では無名という企業が多いですね。ちなみに、トヨタは三河なので、尾張とは大きく違った気質ですよ。もっと他排的ですけど。
東京へ出て行って有名なのは、松坂屋ぐらいかな・・・。
すがきやは失敗したし、ココ壱番屋もようやく出て行った感じですし。
元東海銀行も名古屋以外ではほとんどダメでしたし。
お礼
他から名古屋に入ってくるのは難しいんですか ありがとうございます