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道路を走行していると、ここ数年前から見られる光景として、交差点での歩行
道路を走行していると、ここ数年前から見られる光景として、交差点での歩行者の信号待ちが気になります。 なぜ、車道へ出ていられるんだろう。 車両の内輪差で巻き込まれるとは思わないんかな。・・・と。 人、自転車、ベビーカーは車道で親は歩道内にいるとかの光景はあたり前になっている気もします。 これは、なにか考えがあってのこと?あたり屋とか。 交通弱者云々ではなく、歩行者と車でもお互いを尊重し合うものと思います。 心理なのかさっぱりわからないので、こういった人達の心境を知ってみたいと思います。なんとなくでもわかる、わかりそうなことを教えてください。
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自分で車の運転をして自転車や歩行者の怖さを知ってる人でないとわからないんですよ。 これは仕方ないと思います。 例えば暗い道で相手の車がライトをつけていれば歩行者の自分を見えてると思い込んでいたり、雨の日の夜に黒い服を来てライトもつけない自転車とか。。 いざ自分が運転をしてヒヤッとしないと意識しないですね。 私はベビーカーを押していて信号待ちになったら交差点の端には立ちません。 出来る事なら電信柱の裏に立ちます(笑 そこまで車やバイクを信用していないからです。 また、仕事柄たま~にトラックの運転をする様になったのですが、交差点を左折しようとする時に左から来る歩行者&自転車の怖さを何回も体感しましたので、自分が自転車の時は気をつけるようにしています。 ドラックは左後ろに窓がないのでシートベルトが相当体を乗り出さないと気ている人が見えないんですよ。 まあ、結論としては、「危険性を何も意識していないから」ですね。
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危ない云々は別として… 自転車は軽車両なので、車道にいても不思議ではないと思います。 法律上は、自転車・リヤカー・馬も車道でしたよね、たしか… (ヨーロッパ諸国等は車道を自転車が堂々と走行しています) 本題ですが、ただ単に、深く考えていないだけだと思います。 一方、安易に歩道に(歩行者の動線を塞ぐ形で)駐車する車もいますから、どっちもどっちではないでしょうか? ちなみに、当たり屋は微妙なタイミングでいきなり出てきます。 第三者の証言が鍵になりますので、目撃者の確保が重要です。
お礼
>深く考えていないだけ・・・。 そんなもんなんでしょうね。 ただ、自転車は車と同一方向への進行であるとした事ではありません。 横断しようと交差点で信号待ちをしている自転車です。 例えば、交差点(大小にかかわらず)に差し掛かると左側横断歩道部分の歩車道ブロックに右足を乗せて、自転車にまたいだまま車道側に身を置き、右方向への横断を待つという光景や前輪をまるまる歩道から車道側へ出して信号待ちをする光景です。 また、ベビーカーというだけに車道へ出していたなんてのもおかしなもんですけどね。 自転車は歩道内走行可の標識は増えていますがそれとは別なことと思います。 今日、狭いながらも県道で、自転車に子供を乗せたお母さんが右側通行で、一心不乱にブロック塀と車両の隙間をこじ開けるように突き進もうとする光景を見ました。左側の方が進行方向であって当然広いスペースは出来ているんですけどね。それを見たら、深く考えていないだけというのも頷けます。 ま・、当たり屋としたのは皮肉をこめて記載しただけなんですけどね。 ありがとうございました。
- Mokuzo100nenn
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歩行者個人個人の行動様式やその背景を考えるのも必要と思いますが、それ以前に日本の道路の物理的な幅を考えておく必要もあるでしょう。 車道は中央線で分離され、片道3メートル以上、路上駐車を誘発しそうなぐらいの余裕があるのに、歩道は狭くて、しかも、歩道の内部に電柱とか、交通標識の柱とかが設置されていたりするのを見た事ありますよね。 そして、放置自転車は、ほとんどの場合、車道側ではなく、歩道内部におかれている。 歩道が十分広くて、また交差点周辺では建物が後退するなどして、十分なスペースが取ってあるところでは、質問者さんが観察されるような現象はあまりないのでは?と思います。 私自身は、車と人が共存するためには、ドイツやフランスの古い市街みたいに、路肩の駐車を認めるべきと考えていますし、車に乗る人は、歩行者を最優先にして譲る(譲り合いではなく、一方的に車が譲る)社会が良いと思っています。 途上国に行くと、横断歩道でさえ、車がつっこんでくる「車優先思想」が見られますが、先進国では、歩車完全分離の余裕がないところでは、自然に「歩行者優先」になっているような気がします。 日本が、世界の先進国になる日が、はやくこないかなあ。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >十分なスペースがとってあると・・・現象はあまりないのでは。 ところがあるんだな。駅前、国道、バイパス交差点のいたるところで日常茶飯事です。待機スペースとしては十分です。 年齢的には高校生以上の男性に多いでしょうか。駅前でのノロノロ運転時には女子高生だって目の前を横切ります。 怖いと思わないのかが不思議でしょうがない。平然と歩車ブロックをまたいで立っています。 何か意味があるのか興味があります。 最近は、スクーターが魚雷のごとく隙間を狙って突っ込んでいく光景が多いし、そして浮遊機雷のごとく寄ってくる。私も1100クラスのオートバイに乗りますが、見ているこっちも怖くなります。そういう環境が増えるなかでの歩行者心理がよく理解できない。 そうなると、その歩行者も視認できる地雷のようです。 狭い道路では、事故は起きにくいという見聞はあります。しかし、狭くてもセンターラインを作ると事故が起きているそうです。電柱があっても、歩行者、車両ともお互いに注意しているということと思います。なかには、おかしな車両も見ますけどね。
- tomban
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青信号になったら、少しでも早く横断したいと言うことからの行動だと思っています。 最近考えているのは 「損得の理論が異常に強く作用した行動をとる人が多くなってる」 ことです。 つまり「早く渡る→先んじる→得」ということでしょうか?。 そればかりではない気がしますが、いわゆる「自己中」というものは、いろいろな感情が織り交ざって構成されているようですので複雑です。 他にも「早く自身の行動を終結させたい」ということ。 要するに「交差点で待つ」と言う行為は 「自分のしたいこと(この場合は早く目的地につきたい)を阻害してる」行動なわけです。 他者によって自身の欲求が阻害されることが「ストレス」として記録されていっているのです。 そこから早く逃げ出したい、と言う「自己保身」が、こういった行動を招いているんだと、私は推測しています。 あとはもっと愚かしくて「自分は平気」という、いわれのない「確信」でしょうか?。 「危機感」というのは「経験値」からはじき出されるものですから、元々危機感を感じるような環境に育ってこなかったんでしょう。 また、それゆえに「脳そのもの」にも変化が起きてるんじゃないか?と私は勘ぐっています。 人間がここまで急激に「変化する」時代を私は知らないです。 経済とか、高齢化とか、色々問題はあるにせよ、そればかりじゃないな!と感じさせる「何か」が確かにあります。 ですから「勘ぐって見る」ことは、交通に限らずいろいろな場面で必要な手段になったのかもしれないですね。
お礼
>早く渡る。 うわあ、せっかちな大阪の文化だ。いつしか関東地方にもウイルスのごとく押し寄せてきていたのかな。 でも、見ている方でもおっかないですよ。駅前の大きな交差点で歩車がきっちりわかれいる広い横断歩道ででもベビーカーを半分は車道に出していたりして、・・・。?ベビーカーはくるまか? >自分は平気 確かに対岸の火事的なもの思いの人は多いと感じます。 この「自分は平気」という根拠をその人なりにどうやって導きだしているのか頭の中を見てみたい気もしますね。 >何か これは共感します。流行もそうですが、その発端があってしかるべきと思っています。「風潮」的な行動もほぼ全国一斉に発生していることもあるでしょうしね。 数年前のこと、しばらくバイク雑誌の購読から遠ざかっていたら、若い世代でスーパーカブがもてはやされていたのにはビックリしました。あれは、新聞や出前の領分だと思っていたのに。雑誌が発端らしいですがね。 ありがとうございました。
- szsc5m
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風潮と言ってしまえば何にも議論が進みませんが、 東京や神奈川でも歩行者が直接交通事故に遭遇する事が 以前より無い様に思えます、交通事故自体減っています。 歩行者は油断も有るし、当たる分けない、危機意識が 非常に希薄で、携帯しながら平気で車道を歩きますから、 正に当たってください状態です。 実際近くの交差点で信号待ちの列に車が突っ込んで 数人が病院送りになりました、幸い死者無しです。 こんな世の中全体的にせっかちで自分以外に全く無関心です。 それが老いも若きも性別に関係なく、人が増えすぎたのか 何処にいてもマナーを期待するのがはばかれます。 景気も後退して殺伐とした世の中に何も期待せず、 ただひたすら自己中心的な行動だけが目立つ世の中です。 もっと心の豊かさも欲しい時です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >危機意識がない 他力本願の極みなんでしょうかね。 携帯片手に自転車もそうですが、子が子ならその親もってなもんでしょうか。 そういった連中は「他人に迷惑をかけていない」と言うのかもしれませんが、 その行為自体が迷惑に発展しかねない事がわかっていないのは、何か寂しいものを感じます。
あたり屋でない限り、相手が避けてくれるという意識だと思います。 >交通弱者云々ではなく、歩行者と車でもお互いを尊重し合う >ものと思います。 ごもっともな意見なのですが、交通弱者とされている者達の意識が 変わっていくようには思えません。 かといってそれら全てを交通弱者から除外すると、本当の交通弱者が 事故にあった時に必要以上の過失を取られてしまいます。 自分の大切な人に置き換えたらそれも怖いですよね。 解決策にはなりませんが、都度クラクションなどで危険を知らせる しかないのが現状です。 ですがこんな世の中、下手に注意して逆上でもされたら・・・・・・。 どちらの立場になったとしても、自分達からキチンとしていくしか ないんでしょうね。 我が家では身の回りで感じた危険を話し合う事で加害者・被害者に ならないよう注意を呼びかけています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 意外と交通弱者という意識は無いのではないかとさえ思います。言われてみればとか事故に遭遇した時に自覚して主張してみたりしそうな人が多い気さえ起きます。 でもクラクションを鳴らそうかと思う時はさすがに考えちゃうこの頃ですよね。 歩行者は、「なんだ?」「私に鳴らしてんの?」「なにかあったのか?」とした様々な反応が見て取れるんですよね。当事者意識が全くない。 自転車に乗っているお年寄りには、さすがに躊躇します。転倒でもされて「びっくりしたから転んだ」なんて言われそうでね。 子供にも、口がすっぱくなるどころじゃないくらいに執拗に注意しています。 昭和の終わりころまでは、こんなことは無かったと思います。なんか、嫌な世の中になっちゃいました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >自分を見えていると思い込んでいたり 何かの番組で、日本人は道を歩いていてもすれ違う人を人と思わずに「石」として見ているんだそうですね。そうしても自分は自分で「他人を意識したくないけど、君たちは私に気付いてね」っていう身勝手な思いがあるんですかね。 私も、交差点では子供の手を引いている時などは物影に隠れるようにして信号を待ちます。大きな交差点ではガードレールの歩道内はあたり前でいざという時に電柱などでガードされる位置を見定めていたりします。最近の免許制度では緩和が多すぎて≪腕や交通道徳≫がまるでゆとり教育でのように低下しているに違いないと思っています。 だいたい、二輪免許にオートマ?どうかしています。腕もへったくれもない。 >危険性を何も意識していない 小さい頃から何が危ないかという事をだれも教えてくれなかったんでしょうかね。