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臓器提供の賛否両論
- 臓器提供についての賛否両論について考えてみましょう。賛成派は、自身が脳死になった場合や助かる見込みがない場合には、他の人がその臓器を使って助かれることを望むという考え方です。一方、反対派は、自分の臓器を他者に提供することで天国に行く道が見えなくなることや、家族など身近な人が必要になった場合に困るという意見があります。
- 臓器提供は一人が助かる一方で、他の人が困るというジレンマがあります。例えば、自分の子供が心臓が必要で助かる場合には、多くの人が提供しないという選択をするでしょうか?一方で、脳死とされている人が実際に死んでいるのかどうかは議論の余地があります。
- 提供しないと思われる理由としては、自身や身近な人が必要になった際に困ることや、脳死に関する疑問を持つ人が多いことが挙げられます。また、臓器提供による延命治療を望む人もいます。しかし、テレビなどで臓器移植のドキュメントなどを見ると、胸が痛む気持ちになる人もいるでしょう。
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質問者が選んだベストアンサー
「自分」の臓器を提供することには意義はありません。個人的には角膜以外は全て提供してもいいと思います。※目はちょっと抵抗がありますが。 エジプトのミイラだって内蔵はからっぽですからね。火葬して灰になるなら、有効利用してもらおうと思います。 しかし、「自分の家族」がいざそういうことになった場合、本人の意思に素直に従う・・・といえるほど自分は大きな人間ではないです。たとえ本人の意思だと分かっていても、躊躇するし、迷いに迷う決断となるでしょう。 亡くなった本人には切り刻む必要がないのに、遺体にメスを入れることに強い抵抗を覚える人も多いと思います。死してなお、さらなる痛みは与えたくないと・・・。 臓器提供について、頭ではその方が「人のためになる」と分かっているとは思います。 TVのドキュメントは自分が当事者ではないので、冷静に受け取ることが出来ます。たとえ当事者であっても、じっくり検討する余地があるなら気持ちの整理もつくでしょう。 でも、実際は家族が「死」を受け入れる前に臓器提供の決断を迫られる場合が多いと思うので、そこまで気持ちがついていかないのではないでしょうか。
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臓器提供を受けて延命されながら我が子が亡くなった時には、臓器提供しなかった親は、多分旦那さんと同じ考えだったのかもしれません。 しかし自分の子供が臓器提供されて何日かでも助かったにも関わらず、自分の家族は提供しないと言うのはムシが良すぎると思いましたね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 そうですよね。なぜなんでしょう…。疑問ばかりが残りますが、そういう方もいるんだと頭に置きたいと思います。度々すみませんでした。ありがとうございました。
初めまして。 既婚女性です。 私はご主人のお考えと同じです。 親からもらった体は自分のものであり、死んでもそのまま荼毘に付してほしいです。 たとえ死んでも、心(魂) と体は切り離せず、同じものだと思うからです。 >仮に我が子が心臓が必要だ、心臓があれば助かる、と言われたなら、人様の死を待つのはイヤでも、それでも我が子が助かって欲しいと思いませんか? 私は思いません。 臓器提供には反対なので、他人には提供しませんし、よその子の心臓をもらってまで助かってほしいとは思いません。 >テレビで臓器移植をした子供のドキュメントを見て、胸が痛まないのでしょうか。 胸が痛まないことはありません。 でも、それよりももっと胸が痛む事故や事件が山ほどあります。 病気なら、それも運命です。 仕方がないと思いますし、もし子どもが命に関わる重病になったら、それはそれとして受け止めて精一杯生きてほしいです。 親としては、そのサポートをすることがべストだと思っています。 サポート=臓器提供ではないと思っています。 現行の日本の法律では、本人の意思があれば(15歳以上)、臓器提供しても良いのですよね? 本人が提供したいという意思があれば、たとえ家族であっても反対はしません。 こういう表現は不適切かもしれませんが、需要と供給の問題ですから、それはそれで問題ないと思います。 問題になるのは、15歳未満の子どもの場合です。 あまり公にされていませんが、ドナーとして最適なのは交通事故の被害者です。 理由は、下記のとおりです。 1.事故に遭う前は、健康体である。 2.事故によって、脳に致命傷となるダメージを受けるが、それ以外の外傷はないことが多い。 臓器の損傷もない場合が多い。 脳挫傷などにより脳死状態になりますが、そのほかは健康なのでドナーとしては最適なのです。 15歳未満の子どもに判断力はありません。 たとえ我が子であっても、親が本人の代わりに臓器提供することも反対です。 本人の意思を尊重することが、何よりも重要だと思うからです。 もしも、ある日突然、子どもが脳死状態で運ばれてきたら…? 何の罪もないのにベッドに横たわっている姿を見て、不憫で可哀相で、できれば代わってやりたいです。 心臓以外の臓器でも、心臓が動いている状態で取り出します。 そのような状態で体にメスを入れるなんて、あまりにもむごすぎます。 死を宣告されたのなら、心停止まで待ちます。 せめて、もう苦しまないように、そのまま荼毘に付してあげたいと思います。 アンケートのようなご質問なので、自分の考えを書き連ねましたが、不快に思われたらすみません。 いずれにしても、本人の意思が尊重されるべきだと思います。
お礼
貴重なご意見ありがとうございます。もちろん私も同じく、主人にも子供にも、また皆様にも提供を求めている訳ではありません。また、提供しないと思われる方を否定する訳でもなく、それぞれの意見があるのは当然で、否定的になぜしないのか、という考えなのではなく、そのお気持ちを知りたく今回質問しました。ありがとうございました。
- teruteru_jo_chan
- ベストアンサー率45% (475/1051)
NO.5です。漢字を間違えました! >「自分」の臓器を提供することには意義はありません。 意義→異議です。すみません! 異なる意味になってしまうので、訂正いたします。
- nabe710
- ベストアンサー率66% (2683/4030)
様々な考え、価値観があり、個々の意志に任せる以外にないからこそ、法を整備しての「全国民への義務」とせず、「臓器提供意思カード」なのですよ? あなたの考えは立派な物と敬意を表しますが、だからといって他を否定しないでください。 人それぞれが人それぞれでいられる。 素敵な国だと思いませんか? こう生きていくしかない、食べ物がない、毎日銃弾が飛び交う。 何を望むか、自分の意志・希望などなど二の次、といった国がまだまだ多くあります。
お礼
ご意見ありがとうございます。誤解を招く表現をしまして申し訳ありませんでした。質問欄からも申した通り、私は主人の意見を尊重しますし、同様にそれぞれのご意見があっての、賛否両論があると思うので、否定はしていません。ただ、自分に必要でなくなった、しかしよそ様では必要とされる臓器をなぜ提供しないのか、しない理由で私も納得できれば、私もまた改めてそれぞれの命や提供について考える事ができるのではないか、と思い、質問させていただきました。
質問者様のご意思は、素晴らしいものだと思います。 でも、臓器提供って、一種の「ボランティア」ですよね。 世の中、100円の寄付をすることにすら目を向けない人がいるのに、 臓器提供というボランティアまで手を伸ばそうとしない人がいるのは、 そう不思議なことではないと思います。 自然と「私の臓器を使ってほしい」と思える人はそれでいいでしょうけれど、 なんとなく、漠然と「取られるの、いやだな」と思ってしまう人を 責めることはできないですよね。 実際に失明するとか、四肢を失うとか、そういった体験をすれば 「目が見えなくても、手足がなくても自分は自分だ」 と実感できるかもしれません。 ですが、今は確かに自分にとって必要なもので、ちゃんと機能しているものが 「必要なくなった状態」がイマイチ想像できないのではないかと。 だから、「いま視力がなくなったら嫌だな」「心臓がなくなったら嫌だな」 という感覚で、なんだか臓器提供に抵抗があるのかなぁと思いました。 つまり、「自分の死後の自分」を考えること自体に抵抗感がある可能性です。 「だって今は生きてるもん。 死んだ後のことなんて経験してないから分からない!」 という感じでしょうか。 あとは、やはり、「脳死は人の死か」という論点になるのでしょうか。 数ヵ月前に、10年以上植物状態と思われていた人が回復した なんてニュースもありましたから、希望を捨てきれません。 次に、自分のことではなく、大切な人が亡くなったら…と想像してみましたが、 「まだ死んでいないのに」という思いのほかに、 「どうして持っていっちゃうの?」と思ってしまう気がしました。 臓器のひとつだって、私の大切な人の一部なのにって。 非常に利己的ですが、想像してみて感じた素直な印象です。 「あの人の中で生き続けるんだわ」とは、思えそうにありません。 ほかにも、「どうせ臓器を買えるくらいのお金持ちしか助からないんでしょ」 なんて捻くれた感情も、ないことはないです。 (もちろん、募金で手術を受ける人がいることも理解していますが) 「胸が痛むなら何かしろ」という理屈も、なかなか乱暴だと思いますよ。 最初に申し上げたよおに、あくまで「ボランティア」ですから、 胸が痛んだことを理由に何かする人もいれば、 何もしない人がいるのも自然なことです。 なお、私は「提供してもいいかな、でもちょっと抵抗あるな」というところです。
お礼
貴重なご意見ありがとうございました。100円の募金でさえ…そうですね!なるほど、と思いました。 確かに私だって、例えば地震の被災地にてテレビで胸が傷んでも、何をどうすれば良いかも、たった一枚の雑巾でも良いのかもわかりません。 痛んだなら何かをしろ、というのではなく、何かしたい、自分の身に起こったらどうかなって想像したりしないのかなって思ったんです。 でもご意見で、募金の例もそうですがあくまでボランティアと聞き、ちょっと納得しました。 ありがとうございました。
臓器移植のニュースで胸は痛んでも日本国内では小児の臓器提供は許可されていませんから。 そもそも『臓器移植』という技術が無かった時はみんな仕方ないと思ってた訳ですし、他人の死を待ち望むと言うのが嫌と感じる人もいるのではないでしょうか? まぁあの世に行くのは魂だけだというのもあるので、角膜がなくても見えるだろうし、肝臓や心臓がなくても苦しくはないんじゃないですかね? 亡くなった体にまでメスを入れられるのを嫌ったりする人の感覚はわからないでもないですし、心臓移植されて暫くは延命された子供が亡くなった時に、その親はその子の臓器を何一つ提供しなかったなんて話もありましたので提供された人でさえ賛否があるのだと思いますよ。
お礼
貴重なご意見ありがとうございました。最後の文章に衝撃が走りました。なぜその親御さんは、他の方に提供をしなかったと思われますか?
- mojitto
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臓器提供意思カードは持っています。 全ての臓器の提供の意思も示しています。 その上で… この質問は個人の経験や宗教などに基づく価値観によるものです。 例え質問者さまと同様な考えの持ち主でも、それを上回る宗教上場合によっては倫理上などの理由があれば、臓器の提供は同意しないでしょう。 質問者さまのご主人の主張も、特異なものとは思えず、むしろ自然すぎる感情だと思います。 僕も質問者さまのような崇高な考えを持って、カードを持っているわけではありません。 自分が臓器が必要になったら、臓器がほしい。 その代償、責任として持っているに過ぎません。 胸が痛むから、臓器提供が当たり前だと思わないほうがいいと思いますよ。 ちなみに僕は他のドキュメント(飢餓や戦争など)と比べて、心臓移植のドキュメントはあまり胸が痛みません。
お礼
貴重なご意見ありがとうございました。 私も、例えば餓死の子供を見て胸が傷んだからと、多額の募金などできる訳がありません。しかし、食べ物って大切だな、なんでも物は粗末にしちゃいけないなって、心が洗われるのも事実で、(日本は裕福な国とかを掲げる訳ではないですよ)募金はできなくてもじゃあ、ペットボトルのフタを集めてワクチンを作るのに協力しようと思い集めたりしています。傷むなら何かしろと思うのではなく、自分のできる範囲で何かできないかなって考えたりしないのかなと思ったりします。
お礼
貴重なご意見ありがとうございました。そうですね…。残された側の事を考えると、やはり酷な話しですね…。そう言われると残された子供に、いらぬ辛さを味わわせ、可哀想な思いをさせてしまい、私も死んでも死にきれないかもしれません。だから、反対!と逆に言われれば、うん納得!な意見でした。とても参考になりました。