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他人を「かわいそう」と思う気持ち
こんにちは。お世話になります。 とても悩んでいる事なので、長文になってしまいました。 アドバイスや人生観などをお聞かせいただければ幸いです。 私は現在、沢山の友人がおります。たぶん人気者なのだと思います。 それはとてもありがたいことですし、私も嬉しく思っております。 しかし、その中には、どうも「つきあいにくい」人が居るのです。 もちろん、気の合わない人や、 私の事をあまり好きではない人も存在することも解っています。 問題なのは、私の事をとても好きでいてくれて、 そして、縁があり、 私もその人と気が合わないわけではないと思っているのに、 どうしても避けてしまう気持ちがあるのです。 何が他のお友達と違うのだろう?と考えたところ、 私が、その人の事をこころのどこかで「かわいそう」と思っているのが、その他の友人との違いという事が解りました。 この「かわいそう」という気持ちには思い当たる節があります。 幼少時代に、一緒に過ごした幼馴染のAちゃんという友人の事です。 Aちゃんは恵まれた容姿の持ち主な上にはきはきと明るい性格でした。 ただ少し性格に問題がありました。エピソードとしては、 Aちゃんがウンチを漏らした事があった時、 ずっと私のそばを離れず、 誰かが「臭い」と言った時に、 私のせいにしようとした。 という面白いエピソードがあります。 私以外の人にも このような責任のなすりつけや嘘を良くついていたため、 Aちゃんはあまり好かれていませんでした。 またちょっと素行が悪くて、 小学校の低学年の時点でタバコや万引きなど 周りの友人を巻き込んでやっていました。 私はタバコや万引きなどの犯罪はやりたくなかったので、 ちゃんと断っていましたが、 ウンコ漏らしの犯人にされるなどのくだらないことは、 Aちゃんのやりたいようににさせておりましたので、 私の母親は「Aちゃんに振り回されるんじゃないよ」 といつも私に注意していました。 私がなぜ、Aちゃんのやりたいようにさせていたかというと、 心のどこかでAちゃんを「かわいそう」と思っていたからです。 容姿も綺麗で明るくリーダーシップもあったAちゃんではなく、 いつも隣にいた、さえない私が結局人気者で男子にもモテていました。 それに対してAちゃんが 気に食わないと思っているのを知っていた私は、 「それなら、私は人気者にはなりたくない」と思いました。 実際に地味な部活をあえて選び、 目立つ事を避けるような幼少期を過ごしました。 ここから想像できるように、 私とAちゃんと関係は対等ではありませんでした。 他の友達と接するのとは違う関係性でした。 現在、Aちゃんに対しては「かわいそう」とは思いません。 なぜなら、彼女は今とても満ち足りた生活を送っているからです。 私とも、とても対等な関係性になっております。 しかし、冒頭で書いたとおり、 現在幼少期のAちゃんに対してのように「かわいそう」と思うお友達がいます。 「かわいそう」と思う気持ちを抱いているお友達に対しては、 うまく自分を表現することができません。 サポートする気持ちに回ってしまうのです (相手はむしろこちらをサポートしたいと思っているのだが) また、客観的にみて、悲惨な立場にいる友達もたくさんいますが、 その人たちすべてを「かわいそう」と思うわけではないのです。 私が「かわいそう」と思う時のポイントとしては、 ・その人の評判がいまいち良くない (その人は人に好かれる事をすごく望んでいるにもかかわらず) ・その人は私の事をとても評価してくれている。 というのが共通しています。 この「かわいそう」という気持ちは一体なんなのでしょうか? そして、これを解決するにはどうすればいいのでしょうか? お友達の問題ではなく、私の問題だという事も解っております。 アドバイスや体験などありましたら、教えてください。 よろしくお願いします。
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- postscript
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こんばんは30代男です。 年齢がわかりませんが、多分10代かなって思いました。 この質問文の書き方だとあなたの真意がわかりにくいですね。 誤解して解釈してしまうかもしてません。 自分は人気者、自分はもてていたなど、自分の事を凄く誉めて相手を可哀想と言ってると思いっきり上から目線で、自分とは今対等な立場とか人を自分との比較物のように考える人みたいな悪いイメージを受けます。 気の会わない人が縁があって避けたいとも書いて、その上で「かわいそう」と言われても自分で他人を「かわいそう」と思う事で自分に酔っているのでは?とも思えます。 NO1、NO2の方のような反対な回答がその結果です。 なので、少し気をつけた方がいいですよ。 とおっちゃんのお節介はここまでで 「かわいそう」でしたよね。 おっちゃんは大きく3つぐらい意味があると思います。 1、優しさからくる感情。 2、自分より各下と思う事からくる哀れみ、同情。 3、自分でなくて良かったという安堵感からくる感情。 1の人はその人の為に何かしてあげたり助けたりするはずです。 2の人は何もしません。たた「かわいそう」と思うだけで、その言葉から自己評価を「やさしい人」と勘違いし自己陶酔するだけです。 3の人も何もしません。ただの傍観者です。 例えばよく発展途上国で飢餓に苦しむ人の番組がありますよね、カメラの前で飢餓に苦しんでいる人を見て「かわいそう」と涙流すが居酒屋では食事を殆ど残す等、広い視野で見ると殆どの人が2,3だと思います。 ただ友人・知人と狭い範囲になると1の人が多いでしょうね。 さてあなたはどれでしょうか? 解決する方法は行動するか思っているだけかで方法違うのわかりますよね。
- kikiroro
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「かわいそう」いわゆる同情などは自分より下と思った者にしか抱きません。一つの見下している感情です。 だからこそ可哀想と同情されたりすると激怒する人もいますよね、武者も情けをかけるなら殺せ、なんてよくいっています。 「かわいそう」というのはとても残酷なものなのではないでしょうか。「かわいそう」と思った時点で相手を哀れむ、見下すという事なのですから。 ・私はとても好かれているのに、その人ががんばって好かれようとしているのを知っていて上手く行かないから可哀想。私より上手く作れなくて。 ・その人は私がとても好かれているから評価してくれている、私の方が上だと教えてくれているようなもの。 結局「かわいそう」と思うときは自分の方が優れている、優越感を感じるということでもあると思います。人間てのは対面した人より自分の方が少しだけ優れている、と理屈も根拠も無く思いこむらしいです。 よく何かをしている人がいて、自分もできそう~なんて思っちゃうのもあの人ができるんだから自分にできないわけはない、みたいなものですね。 解消法は無いんじゃないでしょうか、その友人が成長してかわいそうと思わなくさせることもあるでしょうが、世の中人だらけ。必ずまた別の「かわいそう」と思う人がでてくると思いますよ。 ただ優越感をえたりすることは悪い事じゃないと思います。自分を尊重できることって、今の時代とても大切なんじゃないでしょうか。
- umanomimi2
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心の広い人ですねぇ~。 幼少時のエピソードといい、小さいときからのあなたの人としての器の大きさに感心します。 さて、その「かわいそう」という気持ちは、あなたのような思いやりのある人なら持って当然かなと思います。 耳の聴こえない人が音楽を楽しめなくてかわいそう…と思う気持ちと同じだと思います。(私は、耳の聴こえない友だちもいるので、彼をかわいそうという気持ちは全くありませんが、初めはそういう気持ちを持つことも当たり前と考えています) あなたからすれば、その人は人間関係を上手に築くことができなくてかわいそうと感じているのだと思います。その人は人に好かれたいと思っているのに、うまく人と付き合えず、周りからの評価が低い。したがって、その人の気持ちを思い測って、かわいそうという気持ちが表れてくるのだと思います。 私にも友人の中には、そういう人がいます。周囲の人に相手にされないことが多くて、私もかわいそうにと思ってしまいます。でもお互いに大人ですし、機会があればアドバイスもしますが、それを活かすかどうかはその人次第だと考えています。できるだけ友人仲間に入れて、結婚や仕事など上手く行ったときは一緒に喜びたいとは思っていますが、なかなか上手く行くことが少ないです。 かわいそうと思うのは、仕方ないことだと思います。あなたがその人にしてあげられることは、せめてあなたが友人の仲間に入れてあげることと、少しずつでも人間関係のアドバイスなどをしてあげることくらいでしょう。あとはその人自身が解決していかなくてはいけない問題だと思いますよ。
補足
おっしゃる通りで、「見下している」のは自分でもわかっております。 この「かわいそう」といって見下している気持ちが 一体どういうことなのか?が気になって質問しています。 1、優しさからくる感情。 2、自分より各下と思う事からくる哀れみ、同情。 3、自分でなくて良かったという安堵感からくる感情。 1では無いことは確実です。 もしかしたら、 2なのかもしれませんね。 できれば、 あまり「かわいそう」と思ったりするのをやめたいんです。 そうした時にじゃあ、 解決するためにする行動ってなんでしょうか? それは私が自分自身を受容できてないから、 そうやって優越感を感じる相手を必要としているのでしょうか。 そうであるならば、 私は彼女たちを見下す事ではない、 自己受容することが大切なのでしょうね。