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こころ?のやまいとこうこうじゅけん(へんかんこしょうちゅう)
まえもってことわっておきますが、わたしのいまつかっているぱそこんのへんかんきのうがこわれていてけっこうよみにくいぶんしょうになっています。どうかごりょうしょうください。 わたしはいまちゅうがく3ねんせいのこうこうじゅけんせいなのですが、しんがくについてこまっています。そのはいけいにはいろいろなことがあります。まず、わたしはうつびょうでこまっているということです。はっきりいってじぶんからうつびょうだなんてなのりたくはありませんが、いまはそんなこといっているばあいではないのでどうどうとこうげんさせていただきます。そのうつというのもげんみつにいうところ、どちらかといえばびょうりてきなものではなく、ふてきせつなかんきょうにゆらいするものらしいです。(いしからのせつめいがありました。)くわしいことはさておき、わたしはきのやまいをかかえているゆえにしせいかつにししょうがでています。たとえば、あさおきられないこと(さいきんはがんばってすこしおきられるようになりましたが、いぜんはほんとうにひどかったです。)がっこうにいってもいらいらしてじゅぎょうがみにはいらないこと、ねんじゅうきもちわるくてけんたいかんがあること、そのためよくほけんしつへいくこと(さいきんはかいすうがかくだんとへった)きぶんにからだがついていかないこと。じゅくにかよっているけれど、よくがっこうからかえってきてばててしまってそのままねこんでじゅくへいけないこと(これもさいきんはなんとかがんばって、でもきついときはしにそうです。)にんたいりょくがていかして、なにをやるのもおっくうだったりしゅうちゅうりょくがつづかない、とくにべんきょうをするときもちわるくなってしまうなどがおもなしょうじょうです。あまりにもしょうじょうがひどかったときは「まんせいひろうしょうこうぐん」や「はったつしょうがい」をうたがったほどです。でもぜんしゃのかのうせいはいまのところもありそうです。なぜならばふだんからぜんしんけんたいかんがひどいので。くびのきんにくもいたいようなきがするので。(あるほんにまんせいひろうしょうこうぐんのげんいんのたいはんはくびのきんにくのいじょうによるものとかいてありました。)むろん、べんきょうにもかなりおくれをとっています。そんなわたしでもしょうがっこうからちゅうがく2ねんせいのなかごろにかけてはじょういのせいせきをおさめていました。「じょうしゃひっすい」とはすこしちがいますが、かこのえいこうがうそのようです。 わたしはいまはちゅうがくせいだからすこしたいちょうをきくずしてもいえやほけんしつなどでやすみながらなんとかせいかつをいとなむことができますが、ふつうのこうこうにいったらまずそんなことゆるされません。では、ふりーすくーるやていじせいのこうこうがあるというはなしになりましたが、けいざいてきなもんだいからふかのうだったり、しんがくりつがひくいなどのりゆうからおややじゅくからもうはんたいをくらいます。まさにいたばさみじょうたいです。おまけにぼしかていのうえしんせきとはそえんなので、そうだんにのってくれるあいてがいません。ゆいいつぱそこんがたよりなのですが、ゆいいつのおやであるははから「いんたーねっとでかおのみえないひととばかりはなしなんかしてるからそうやっておかしくなるんだ」といわれているので、いつねっとがかいやくされるかわからないじょうきょうです。とりあえず、じぶんとしてはだいいちしぼうのこうりつこうこう(じゅくのせんせいとしてもそれいかのこうこうにはいかせたくないらしい)をめざしてもくひょうのこうこうへうかったあとしばらくようすをみて、もしげんかいをかんじたらほかのこうこうへへんにゅうすることをかんがえています。でももしかしたらそのようにへんにゅうできるようなこうこうがなかったあるいはそのようなじょうきょうではなかくて、いえでなにもせずこごとばかりいわれてせいかつすることをかんがえるととてもおそろしいです。こうこういけなかったらはたらけ、そのかわりやとってくれるところなんてないからとかいわれてもうふあんでふあんでしかたありません。わたしはこのさきどうなってしまうのでしょうか?じぶんのこころがよわすぎてふがいなくてなさけなくてかなしいです。どなたかあどばいすおねがいします。さいごまでおみぐるしいぶんしょうよんでいただきほんとうにありがとうございました。
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No.5~12です。No.12では長文を失礼いたしました。 前回のNo.12の回答で、表現が不充分に思える部分がありましたので、補足・訂正をさせてください。 >脱皮したい。古い自分を脱ぎ捨てたい。 その様に自分を見つめることは、自分の濁りに目を向けることで、真逆の行為の様だけれど、濁りに目を向けようと思う気持ちは純粋だから、 ここで私は「濁り」という表現を使いましたが、「曇り」とした方が適切でした。 気が付けないでいるとか狭い価値観に囚われているのは、濁りと言うよりも無知というか、心を閉ざしている状態と言えましょう。 または、ベールを纏って身を守ることばかり、自分のことばかりに終始している状態だと思います。 その様子は目に鱗が付いた状態であり、「曇り」とした方が私には、しっくりします。 曇りに気が付いても、それを払おうともせずに、自己正当化に走ってばかりいると曇りは濁りになるのでしょう。 辛くても逃げないでいたい、乗り越えて行きたいと思う気持ちは尊いから、貴方は、 >あとでわれにかえってからじぶんのふりかいだったことがみじめにおもえることがたたあります。でも、そういうことのつみかさねで「ああじぶんっていまみがかれてるんだなー」っておもうときもあります。ぎゃくにひとがなにかやさしいことをするよりも、なにかにたいしてはんせいしていることのほうがかがやかしいなーっておもえるんです。なぜでしょうか?? きっと、みがきたてでしんせんだからでしょうか?? と、感じ取ることが出来たんだと思います。 優しさも表面だけだと誤魔化しに利用されることもあるけれど、心から物事を理解したいと思うときって、自分と相手、どちらに対しても深く事実を見つめようとする心が生まれます。 反省する時って、自分を甘やかすのではなくて、ありのままの事実を見つめて更に一歩進みたい――そんな想いが湧いてくるから、曇りが拭えたような爽やかさもまた生まれてくるのでしょうね。 >私は貴方の精神に問題があるとは思えません。 今の主治医が仰っているとおり、多動傾向や自閉傾向が出てしまうのは、環境に不安がある故だと思います。 この表現も語弊があるので、補足させてください。 貴方の主治医は貴方を多動症や自閉症と診断したとは貴方は仰ってはいませんが、貴方はご自身にその様な傾向があると悩んでいらっしゃいましたよね。 貴方が鬱に悩まされるようになってから、多動傾向や自閉傾向が悪化したのではないかと私は推察しているのですが、これらの悪化は環境に起因するのではないかということを述べたかったのです。 元々その様な傾向がある人でも、精神が安定していると、そういった特徴は顕在化し難いと思うのです。 発達障害のある人でも軽度であれば、身近に理解者がいたり、適切な環境に身を置くことが叶えば、精神を病むまでは行かないと思うんです。そして、自他共に障害だと感じないケースもあると思います。 精神状態が良いときは、気力や集中力を振り向けることで補えていても、疲弊状態にあると、コントロールが叶わなくなることがあると私は思うんです。 貴方は御自身でも、これまで一杯一杯の努力をしてこられたのですよね。でも、それが叶わなくなってしまったのは、根っこには発達障害があるのではないかと、孤軍奮闘ではどうしようもない事実があるのではないかと感じて取ったからですよね。 もしも、ご家庭の環境が良ければ、本当に発達障害を持っていても気力が湧いて、応援や理解があれば頑張って行けたかも知れない。 でも、個人の努力だけでは報われない虚しさを貴方はお感じになったんですよね。 私は貴方が言うことはあながち間違いではないと思います。 貴方に発達障害があったとしても、それは、貴方が頑張り屋だったので、誰も気が付かなかった可能性もあると思います。 そして、貴方の頑張りに周りが理解を示していたら、貴方は今、病院に通うこともなかったかもしれません。 これを自分の口から上手く説明できないから、そして、これからも悩まされるのは辛いから、貴方はこれまでも検査を受けたのですよね。 私からは何もしてあげられないけれど、もし、今通っているのが一般の精神科であるのなら、小児精神科もしくは小児神経科に転院なさることを勧めたいと思います(小児精神科も小児神経科もやっている内容は同じです)。 ご家庭の問題が根っこにあるのなら尚更です。 小児精神科の医師は、親に対しても理解が深いので、お母さんも話していて楽になることもあると思うんです。 良い医者に巡り会えると親も変わることがあります。 私の夫が理解を示すようになったように。 そのように、何かきっかけがあれば、貴方とお母さんの溝も埋められると思うんです。 ここで質問しにくかったら、前回の終わりにリンクを貼った発達障害支援センターに直接聞いても良いし、そこでお母さんとのことも相談できるのではないかと思います。 また、余所のサイトを利用して、地元から通える発達障害の専門医を捜すのも良いと思います。
お久しぶりです!!高校合格おめでとうございます!! 何はともあれ、良かったですよね。 その後、どうなさっているのか気掛かりではあったものの、受験生でいらっしゃったので、ここは余念なく机に向かっていらっしゃるのだなと、朗報がくるのを心待ちにしておりました。 本当に良かったです。私も嬉しいです!^^ >あのときあなたからめっせーじをいただいていなかったら、いまのじぶんはおそらくなかったとおもいます。ほんとうにかんしゃのきもちでいっぱいです。 それは、貴方の努力の賜物であって、私の力ではないです。 私がここに書いた言葉で貴方に力が湧いたのだとしたら、それは、貴方の言葉や心に元々力が備わっていたからです。 貴方が真剣に悩んで、乗り越えて行こうと真摯に向き合っていたので、私としては、その想いに応えたのみで、元から貴方の中にある熱い意欲の為せる技だと思います。 >かなりおそくなってしまいました。申し訳無いです。お元気でしょうか?? いえいえ、申し訳ないだなんてとんでもないです。 二月の初めに私は顎関節症?になっていたようで(歯医者さんに以前言われたのですが、私は顎が小さいのでなりやすいとか)、痛くてものを食べるのに苦労していましたが、今月の初旬には ほぼ治りました。 取り敢えず、今は冬場の運動不足がたたって鈍った体を鍛えたいと思います。…ということで、怠けていたので筋力は落ちていますが、病気はしておりません。家族も皆元気です。 風邪などはとくに引くでもなく、でも関節が弱くなったかな? 骨や歯は丈夫だと昔から自信があったのですが、関節がなぁ、ガックリ…。 でも、まだ走ったりするのは出来る方かな。ふふん!!(と、息巻いてみる)。^^ こちらもやっと春めいてきましたので、思いっきり外出も出来ることですし、メリハリを付けた生活を心掛けて、心身共に充電していきたいと思います。 * * * * * この場をお借りして、こちらも近況報告をさせて頂きたいと思います。 二月に今までの主治医から、転勤するというお話を聞いたときのことです。その事がなくとも、主治医には初めから息子について本当のことを聞くつもりでいましたし、いつも息子が同席なので私も気兼ねしていましたが、このときばかりは先生の口からはっきりと事実が聞きたかったので、 「本当のところ、息子は学習障害ですよね?」 と思い切って尋ねました。 すると、主治医も すんなり認めまして、 「はい。息子さんは学習障害です。 でも、これは医学用語ではなく、広い範囲で使われる言葉なので、息子さんに対して適切ではありません。 息子さんの場合は学習障害の中の読字障害、正式な医学用語では読字障害になります。読み書き、言語の面で問題があるということです」 とのことでした。 (本来はもう一度書き起こすべきなのでしょうが、詳細は、こちらの回答にありますので、最後にでも御覧下さい。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5708720.html (No.3~7)) このことは、予想というよりも確信しておりましたので、別に驚きませんでした。 以前の、こちらに越してくる前の主治医も、この時の主治医も、息子は読字障害である可能性をずっと感じていたと思います。 でも、初めに掛かったときも小1と年齢が幼すぎて、なかなか判断に困るところがあったのだと思います。 それに、大病をした後で後遺症である可能性も拭えませんから、あまりショックを与えてもと、こちらの精神状態にも配慮したのだと思います。神経質になって思い詰めても何も良いことはないから、即座に診断を下すことが良いこととは主治医は考えなかったのでしょう。 小5で一旦、学習障害の心配はないと判断されたのも、当時のIQ診断が高得点だったので、余計に判断が付きにくかったんだと思います。 また、その頃は努力次第でどうにか授業に追いつけていたから、あくまでも「その段階では問題ない」ということだったのでしょう。 ネットの情報を鵜呑みにするのも問題があると思いますが、読字障害も現れ方が様々なようですし、息子の場合はアルファベットの順番が覚えられなかったり(ピカソも同じ)、鏡文字を書いたり(レオナルド・ダ・ヴィンチも同じ)と、ピカソもダ・ヴィンチもどう考えても、知性に問題があったり、努力が足りなかったとは思えないので、そのように、寧ろ偉人と言われるような人達まで同様に不得手な分野があったのですから、これは気にし過ぎでも何でもなく、同じ種類の問題だと私は感じていました。 【ディスレクシア/概要】http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%82%A2 以下は上記サイトからの抜粋です 《現在は特に英語圏で問題とされており、アメリカ合衆国では人口のおよそ1割の人が何らかの程度でディスレクシアを抱えているとも言われる[1]。ディスレクシアは言語によっても現れ方が異なることが示唆されており、イタリア語など(文字がほぼ発音通りに綴られる)では英語やフランス語(綴りと発音の間に複雑な関係がある)より顕在化しにくい可能性が指摘されている。また日本語におけるディスレクシアの多くは、このような音韻に関係したディスレクシアとは異なるタイプとの見方もある。海外留学中の人が初めてディスレクシアと診断されたなどの例[1]もあり、英語教育の普及などによりこれから顕在化してくる可能性もある。今のところ日本では、成人のディスレクシアの判定法は確立されていない。》 漢字も苦手な息子ですが、息子には元々文字が記号や暗号の様に見えていた節があり、文字と発音を一致させたり、文字に意味を持たせたり、何らかの関連を付けて覚えることが困難な様です。 漢字も部首や旁をパーツ事に捉えて再構成するのが苦手なので、正しく書くのに苦労している様です。 先ほども少し触れましたように、3月からは主治医が替わりました。その後任の医師は、読字障害を大学で専門に研究している先生に師事しているとのことで、前任の主治医も息子がIQの数値そのままの力を出し切れないのを気に掛けて下さり、今の主治医を推して下さいました。 読字障害については、日本では研究がまだ 立ち後れていて、専門医も少ないそうです。そんな中で今の主治医を紹介して貰えたことは、非常に幸運です。 私自身が不勉強であったり、努力を怠りがちな人間ですが、何故か出会いの運だけは強いように思えます。 だから、生きて来られたのかも知れませんね。 やはり、出会いは大切です。 以前の主治医も信頼の置ける良い先生でしたが、今度の先生は更に専門に研究している先生だと言うことで、まだまだ不安はありますが、展望が開けてきたように思えます。 以前は学習障害には、まるで関心がなかった夫も、今は読字障害について書かれた本を買って読むまでになり、先日帰省した際に私にも読むようにと本を置いて行きました。その本とは、 『怠けてなんかいない!ディスレクシア――読む・書く・記憶するのが困難なLDの子どもたち』品川裕香・著/岩崎書店 ――です。 前半は、自分がディスレクシアでないかと悩む子供のために、後半はその親のために書かれた本です。 まだ読んでいないので、じっくり読みたいと思います。 夫とは以前ほど口論することもなくなり、お互い変わったな、 「聞く耳を二人とも持つようになったな」と思います。 個人個人ものの考え方感じ方は違うのだから、衝突はあって仕方のないものだと思いますが、聞く耳がからきしないのでは、何も生まれないので、聞く耳を持つことは本当に必要なことだと思います。 たくさんの意見の中から大切なことを見極める。 最初に結論ありきではなく、ジグザグと悩む過程も大切なんだと思います。 >あとでわれにかえってからじぶんのふりかいだったことがみじめにおもえることがたたあります。でも、そういうことのつみかさねで「ああじぶんっていまみがかれてるんだなー」っておもうときもあります。ぎゃくにひとがなにかやさしいことをするよりも、なにかにたいしてはんせいしていることのほうがかがやかしいなーっておもえるんです。なぜでしょうか?? きっと、みがきたてでしんせんだからでしょうか?? 優しくしているときって、実は見返りを期待している部分もありますよね。 いつもがいつもではないけれど、自然とそう(優しく)なるときもあるものだと思うけれど、優しさを自分で意識してしまうと、お返しも期待してしまうものだと思います。 「こんなに尽くしているんだから、こんなに理解しようとしているんだから、貴方もそうしてよ!!」 と言わんばかりに。何処か被害者意識が湧いてしまうものなんでしょうね。 でも、反省しているときは、見返りなど期待していませんよね。 脱皮したい。古い自分を脱ぎ捨てたい。 その様に自分を見つめることは、自分の濁りに目を向けることで、真逆の行為の様だけれど、濁りに目を向けようと思う気持ちは純粋だから、 「ひとがなにかやさしいことをするよりも、なにかにたいしてはんせいしていることのほうがかがやかしいなーって」 貴方はお感じになったんじゃないでしょうか。 何かすれ違いがあって誰かを傷つけたとしても、ただ繰り返し優しくすれば良い、もっと優しくすれば良い。 ――それだけでは済まされないですよね。事実から目を背けても。 辛くても、事実は事実。 事実は変えられないけれど、目を背けずに対峙して弱い自分と向き合えたら、この次は何か変わるかもしれない。 ゆらゆらと彷徨っているように見えたとしても、ブレは小さくなって、何が大切なのか見えてくるかもしれない。 かもしれないは、「かも」ではなくて、目標としてしっかりと「見えてくる」そんな感情や発見が反省の中にはあります。 「気付き」から「築ける」ものがあると思います。 本当に、日本語って素晴らしい。 上手く人に伝えきれないこともあるけれど、響きの良く似た言葉は意味も通じ合っている。 上手く伝わらないときは悲しいけれど、伝わったときは、心が通い合ったときは本当に嬉しいものだし、輝かしいですよね。 * * * * * 今回も長文回答になってしまったけれど、私は貴方の精神に問題があるとは思えません。 今の主治医が仰っているとおり、多動傾向や自閉傾向が出てしまうのは、環境に不安がある故だと思います。 No.8のお礼欄で、貴方は私が貴方のことを境界性パーソナリティー障害だと示唆しているようにお感じになった旨を書かれていらっしゃいますが、私は貴方からその様なイメージは受けません。 その点はご心配なさらぬように。 元々の貴方には、不健全な程の激しい思い込みというものはないと思います。 でも、ご両親が不仲であったり、お母さん(お母さんも貴方と同じ様に悩んで来られたんですよね)から否定されることが多かったりと、自信が喪失気味になりがちだったので、疲弊してしまったんだと思います。 子供は親に期待したいものだし、また、その権利があると思いたいものだけれど、取り敢えずお母さんは貴方を病院に通わせてくれるのだし、ご飯も用意してくださるのでしょう? お母さんには衣食のお世話になり、心は自分で育てるぐらいに割り切ってしまった方が楽だと思います。 心さえ潰れなければ、幾らだって輝かしい未来は築けるし、出会いも待っています。 発達障害の面できちんとした指導を受けたいとお考えなら、やはり 「小児神経科もしくは小児精神科」に掛かる必要があると思います。 今の主治医にも訊いたのですが、精神科医は精神疾患を主に診ているので、発達障害(これは精神疾患ではないので専門が別なんです)の診断を受けたり、疑わしい状態で指導を受けたいと思うなら「小児神経科もしくは小児精神科」に掛かるのが一番良いということです。 そして、これも直ぐに診断できるものではありません。 このことは、今回の近況報告の参考リンクの私の回答に詳細を書いていますので、是非お読みになってください。 また、病院を探すのが難しかったら、ご近所の発達障害者支援センターにも相談してみては如何でしょう。 【発達障害者支援センター一覧】 http://www.autism.or.jp/relation05/siencenter2008.htm
お礼
それにしても、きたいできるしゅじいさんがみつかって、ほんとうによかったですね!!わたしまでうれしです。でも、そこまでたどりつくのってとてもたいへんだったとおもいます。(もちろんそうぞうにすぎませんが)まさに、あなたとむすこさんがたのどりょくの報酬ですね。むすこさんにとどまらず、わたしまでにもこんなにごていねいにかいとうをくださるのでまことにきょうしゅくです。>心さえつぶれなければ、いくらだってみらいはきづけるし、であいもまってるとおもいます。そうですよね。そのみらいというのはいまげんざいにもあたいします。しりょうやアドバイスをさんこうにして、これからどうすべきかをかんがえてまいりたいとおもいます。それではおやすみなさい。
補足
たくさんのお返事有難うございます。お元気でなによりです。しかし、顎関節症とうかがって、少しビックリしました。ストレスが原因でなるそうなので、結構おつかれになってたのではないでしょうか?高校へ合格したことをお伝えすることは失礼にあたるのではと思いながらも、喜びをおさえきれず、つい口にしてしまいましたことをどうかお許しください。高校受験という一つの登龍門をのりこえたのは他でもない貴方じしんですよと貴方はおっしゃるかもしれませんが、私としては、こうして良い結果を収めることができたのは周りの方々の支えがあったという事実がとても大きいので、感謝せずにはいられないのです。私が全く高校受験を怠ってがんばらなかったといったら嘘になりますが、努力をすることができた背景にはやはり、貴方を含んだたくさんの人のはげましがあって、だからこそ険しい道を進んでいけたのです。ある人曰く、「飛行機が空をとべるのは人類の知せいによる賜物だといったらそれは傲慢だ。空気や燃料が無かったら空はとべないし、材料も無かったら飛行機さえもつくれないじゃないか。自然の恩恵をうけてこそ、すぐれたぶんかがさかえたことをわすれてはいけない。」正確なばすいではないですが、おおよそのないようはあっていると思います。ようするに、どんなにすぐれた能力を持ちあわせていてもやはり好条件な恵みなくしてはなにかをなしとげることができないということがいいたかったのです。この場合、飛行機とは言うまでもなく、私じしんのメタフアーです。私は貴方からたくさんの恩をうけてこそ、空高く舞うことができたのです。結果とは色いろな条件の集積によってうまれます。したがって、これだからこうなったって一言でかたづけてしまえるものなんて、皆無ですよね。もしあるというならばそれは偏見が産んだむこんきょな解にすぎないとわたしはおもうのです。最近至る所でコミュニケーションのしつのていかが目立ちますが、その原因の一つにこれがあるのではとおもえてなりません。でたらめでもいいからと答えをはやく出すことだけに熱を入れるばかりで、ほんしつとなる肝心なことをみおとしているようなきがしてなりません。たとえば鬱症状があるかんじゃにたいして、只たんにうつ病という診断名を施した後、機械的に薬を処方するだけで、そのひとが病気になった根本原因を追究しようとしない。(尤もこの場合はおいつかないのでしょうがね。)テレビのマスコミなんかを例にとっても、げいのうじんの言動にたいしてあげあしをとるばかりで行動の裏に潜んだ心をよみとろうとしなけい。結果というめにみえるものだけをみてみんないきているんです。そんなたよりない世の中のいちいんとして僕は存在しているんだなーと思うと、なんだかどうしよもなく惨めになってしまいます。とはいえ私もまさか達観しきったわけではなく、私自身にもおなじようなことがいえるところもある故にこれいじょうの世にたいする酷評ははばかられますが、おおきくいえば、精神疾患とやらのかんじゃに薬を出す前にまず、そういうしゃかいの有り方にたいしてこそ適切な処方箋を出すべきじゃないのかなってつくづく考えてしまいます。そのようにしてもし、理想的なしゃかいが実現できたら、今まで精神・発達障害者と呼ばれたひとたちもおのづと活力をとりもどし、其々のこせいをいかしていけるし、あまり上品でないいかたをすれば国全体の経済力も上がると思のです。即ち、全ての人にとってゆうえきなしゃかいを構築することこそ、現代につきつけられた最大かつ急務となる課題です。こうやっていろいろ考えをめぐらすと障害ということばがいかにこのよがいきづらいせかいであるかをものがたっているかがよくわかります。しかし、いざ現実レベルに引き下げて考えた時、それではいったいなにを模範としていきていったらいいのかがわからず、じぶんがほんとうに望むような世界の有り方を模索しては途方にくれる毎日です。私のせんぱくなのうみそではもはや、とても処理しきれる問題ではないです。こうしてほらをふくだけでじっさいにはなにもできないじぶんがとてもなさけないです。なんだか話がやたらと脱線してすいません。デイスレクシア。実はわたしもある時期悩みました。ほんがすらすらよめないことがきになってしかたなく、ほんしかよまないせいかつをしたほどです。もちろんそれにかんする文献も読んだことがあり、よくしっています。(というかこうはんせいはったつしょうがいはおおよそもうらしてしまいました。)>私自身が不勉強であったり、努力を怠りがちな人間ですが、何故か出会いの運だけは強いように思えます。いえいえ、そんなことはないですよ。これほどにむすこさんのしょうがいにたいしてねっしんにけんきゅうしていらっしゃるおやごさんはこれまでみたことがありません。
No.10の続きです。 その様に色々と葛藤はありましたが、多動症の方は小学校中学年になる前に、一般の男の子と変わらないので心配はないという主治医からの言葉もあり、学習障害の方も小学校高学年に進んだ頃に問題ないとされ、IQも130という結果も出て、数値が凄すぎで信じ難くはあったけれど、慣れや偶然があったとしても、専門医での診断でしたから100は越えているのには間違いないだろうと安堵していました。 しかし中学に進むと、またもや多動症や学習障害の心配が出てきました。 元々、人の動きを真似るのが下手で、運動会の団体のダンスなども からきし駄目だったのですが、その様な事とも関連があるのかもしれません。 遅刻や提出物の出し忘れも非常に困りものですが、いつまで経っても蝶々結びが出来ず、ローマ字も書けないのが、致命的に思えたのです。 少なくとも小学校在学中にマスターしていれば、そこまで心配しなかったのですが、これが出来ないと何かと苦労するのが目に見えていたからです。 靴紐も結べず、英語の授業も分からずでは先行きが不安です。 先輩の立場になったら、尚更です。 そういった経緯から、今度は地元から通える今の専門医に診て貰うことになったのですが、臨床心理士からは問題ないと診断され、作業療法士と医師からは、言語性IQも動作性IQもそれぞれ110、108と、検査結果としては問題がないけれど、本人にやる気があるなら指導を受けて欲しいということでした。 息子の場合は、障害であるとは言い切れないのですが、障害が全くないとも言い切れない、微妙なラインなのだと思います。 通常の指導の仕方では難しいけれど、適切な指導を受けて、本人にやる気があれば、まだまだ伸び代があるのだと言うことなのです。 夫は、私が息子に対して発達障害を気に掛けることを神経質すぎると機嫌を損ねていましたが、今の主治医は、その事に関しては私と同意見で、気に掛けないで良い程度の問題ではないとの判断でした。 息子は頭は確かに悪くないのです。 親ばかですが、物事の本質を上手く言い当てていて、勘の冴えに驚かされるときも多いのです。 しかし、もうちょっと、空気を読んで欲しいと思うことも多いので、この差の謎が不思議であったりします。 その様に良い面も確かにあるのですが、通常の人が習得できることに手間取っている事実と、そのままで良いという年齢でないことも確かだし、IQの数字そのままの力を学習面で出し切れていないのも事実なのです。 人より発達は遅いけれど、でも病院に通っていて息子は自分なりに工夫の仕方や文字の形の捉え方のコツが掴めてきたようです。 思考の仕方もジグザグ思考であったり、焦点を絞り込むのが苦手でしたが、この頃はブレが小さくなってきたと思います。 また、物事を順序よく話すこともかなり上達しました。 焦っていたり興奮気味であっても、落ち着く様に促せば、きちんと話せるようになったのです。 大病をした過去があっても、一見、脳天気で何も悩みがないように見える息子ですが、臨床心理士も作業療法士も、息子は非常に傷つきやすいので、その点が気になると言っていたと今の主治医が教えてくれました。 息子が病気をした頃は、夫婦仲があまり良くなかったし、私も息子が病気をしたことをいつまでも気に病んでいたので、そのことで息子は傷ついていたのだと思います。 息子は人から何か訂正や注意されることを非常に嫌います。 そのことで、自分が否定されたと思ってしまうようです。 だからと言って、攻撃的になるわけではありませんが、以前はパニックの様になってしまっていました。 今は、その様にならない様、息子も自分でも気をつけて頑張っています。 息子は早くから自分自身が人よりいろんな面で遅れを感じていたので、間違いを指摘されると、責められているようで辛いのだと思います。 遅れを取り戻させようと、私が躍起になっていたことの影響もあると思います。 失敗をすると、私ががっかりするから、それが怖くて消極的な子になってしまったのでは?と思ったりします。 人間は、ロボットではないから、検査結果の数字だけでは計り知れない領域があるのではないかと思います。 数値そのものは問題なくとも、傷つきやすさとか、失敗回避だとか、思考の仕方の癖だとか、細かな部分で躓いて、少しずつ方向性がそれていって、結果が出せないときもあるのだと思うのです。 私は貴方の気持ちも、お母さんの気持ちもどちらも解る気がします。 思っていることは、的外れなこともあると思いますが、立場的には近いと思います。 うちの場合は、たまたま息子が脳炎という大病をし、てんかんの治療を受けていたので、その流れから自然に作業療法まで漕ぎ着けました。 また、私自身が息子を産んで間もなくに、人間関係を含めた様々な環境変化に対応できず、ストレスから鬱病の様になり、長く苦しんでいたので、少しずつではありますが、鬱病やそれに類似した症例の文献を読んで学ぶ機会を持っていたので、以前のようには病院に掛かることには抵抗がなかったことも、今の息子の通院に結びついています。 貴方のお母さんが貴方にきついことを言ってしまうのは、分からなくもありません。 人は自分が経験のないことは、なかなか理解しがたいものです。 私も昔は鬱病は、やる気がない人や心の弱い人の言い訳のように思っていました。 発達障害も、息子の病気がなければ、ここまで関心は持たなかったと思います。唯の不器用な子だとか、怠け者と考えていたかもしれません。 息子が中々まともに文字の読み書きが出来なかった頃、私も罵ってしまったことがあります。 「将来、詐欺に引っ掛かって一文無しになる」だの、 「ローマ字も読めないんじゃ、郵便局のバイトも出来ないよ」だの、 「このままじゃ、何処にも就職できなくてニートになっちゃうよ」とまで言ってしまいました。 自分が不老不死なら、その様なきついことは言わないと思うけれど、順当に行けば、親の方が先にこの世を去るので将来を案じてしまうのです。 子供が何とか生きる術の最低条件はクリアできていないと、親としては心配なのです。 貴方のお母さんも、貴方にきついことを言ってスッキリだ何て事は無いと思います。 親だから心配から酷いことを言ってしまい、親だから落ち込むの繰り返しではないかと思います。 でも、お母さんにそんな思いをさせて済まないと、悩まなくて良いと思います。何故なら、貴方は充分頑張っているからです。 お母さんは、貴方に反省して欲しいから言っているというよりも、ストレスを発散させたくて爆発しているだけだと思います。 あまり、酷いことを言われたときは、泣きたいときは泣いて良いし、怒りたいときは怒って良いと思います。 私の場合は、子供に悲しそうな顔をされると、何も言えなくなってしまいます。 そして、普段は小さな事で良いから、お母さんに感謝の言葉を掛けてあげてください。 お母さんは、きっと疲れていて、自信が無くなって怒りやすくなってしまっているのだと思います。 感謝の言葉って、掛けられると元気が出るものですし、掛けた自分も元気になれる気がしませんか? >りっぱなかうんせらーになって、わたしとおなじくるしみをあじわったひとをたすけてあげたい。これからのひとのためにも。いままでのじぶんのためにも。 私もステキなお仕事だと思います。 心理療法士や作業療法士といった、人の目には見え難い病気を治す手助けが出来る人たちは素晴らしいと思います。 優しくて、苦しみを知っている貴方なら目指す資格があります。 夢を忘れないでください。 私も、貴方に励まされた一人です。
補足
かなりおそくなってしまいました。申し訳無いです。お元気でしょうか??昨年お世話になった発達障害もどきことfenix7001です。おかげさまで、この春なんとかがんばって、こうりつのふつうかのこうこうをごうかくすることができました。あのときあなたからめっせーじをいただいていなかったら、いまのじぶんはおそらくなかったとおもいます。ほんとうにかんしゃのきもちでいっぱいです。 >臨床心理士からは問題ないと診断され、作業療法士と医師からは、言語性IQも動作性IQもそれぞれ>110、108と、検査結果としては問題がないけれど本人にやる気があるなら指導を受けて欲しいと>いうことでした。 >息子の場合は、障害であるとは言い切れないのですが、障害が全くないとも言い切れない、微妙なライ>ンなのだと思います。 私の場合もそうです。いしゃからはなにももんだいがないといわれて、ぎゃくにしんだんされないからまわりからのりかいもえられなくてとてもくるしいじょうきょうです。でも、さいきんすぺくとらむというがいねんがとりいれられたのをごぞんじですか??じへいしょうなどでなくても、あるていどじへいけいこうをしめすばあいにつかわれるしひょうのことです。 >夫は、私が息子に対して発達障害を気に掛けることを神経質すぎると機嫌を損ねていましたが、今の主>治医は、その事に関しては私と同意見で、気に掛けないで良い程度の問題ではないとの判断でした。 ひとによってりかいにさがあるので、わたしもかきこみしているとあなたはねがていぶすぎだとかいわれます。わたしはあくまでじぶんをみつめるためのけんせつてきてつづきをしているというのに・・・。 「しんてきげんじつせい」ということばがあります。はたからみればNOであったこたえがとうじしゃにとってはYESだってこともあります。ようするにみんな、ゆうづうのきかないことをむしするふうちょうがあるといいたいです。なんでもかたにあてはめようとすると、かならず「れいがい」というものがうまれます。わたしとあなたのむすこさんがまさにそれだとおもうのです。そうやってかんがえていくと、こせいをみとめないよのなかのありかたこそさいだいのしょうがいにおもえてなりませんというのはかなりしんらつでしょうか。(はなしだっせんぎみですいません。)でも、あなたはむすこさんのおきもちをとてもよくりかいしていらっしゃるとおもいます。 >人は自分が経験のないことは、なかなか理解しがたいものです。 そのとうりだとわたしもつくづくおもいます。あとでわれにかえってからじぶんのふりかいだったことがみじめにおもえることがたたあります。でも、そういうことのつみかさねで「ああじぶんっていまみがかれてるんだなー」っておもうときもあります。ぎゃくにひとがなにかやさしいことをするよりも、なにかにたいしてはんせいしていることのほうがかがやかしいなーっておもえるんです。なぜでしょうか?? きっと、みがきたてでしんせんだからでしょうか?? あなたのようにたくさんくろうされたかたとめぐりあうことができて、ほんとうにしあわせでした。 わたしはわたしなりにがんばっていることもありますが、まだまだはんせいすべきこともおおいとおもいます。あなたのようにはんせいできるにんげんになりたいです。 じんせいいつとなくつらいことばかりですが、わたしのばあいはげましのことばがひとつでもあれば、いろんなことにがんばろうというゆうきがわいてきます。 わたしはそのたくさんのゆうきを、あなたからいただきました。 いただいたものをありがとうといってしまうのはたやすいことですが、それいじょうにむだにしないでいかすことのほうがかんしゃしていることになるし、むずかしいことだとおもいます。 でもわたしはいつかきっと、あなたからうけたおんをだれかにたいしてそそぐことができたらなとおもいます。くちではなんとでもいえてしまいますが、じぶんけっこうかんしゃのきもちがたりないとか、やさしくないとかいわれるので、そういういまげんざいのじぶんをふりはらうつもりでかいてみました。 ことばたらずですいません。やっぱりありがとうというしかないです。
No.9の続きです。 幼稚園では、先生達が ひらがなの勉強に力を注いで下さり、どの子も自分の名前を書けるように指導して下さったのですが、息子は卒園まで自分の名前をまともに書けませんでした。 家で練習させても書き写す側から間違えます。 そして、良く鏡文字を書いていました。 ひらがなの「け」や「い」なら誰でもありがちだと思いますが、「ね」のような複雑な文字も鏡文字を書いていました。 これは、左利き(生まれつきです。病気の影響ではありません)の所為で鏡文字になってしまうのだろうか?とか、文字そのものが右利き用に開発されたものだから、左利きの子供だと一旦、頭の中で文字の形を反転して読み込み、一手間掛けないと、正しい形に書き起こせないようになっているのだろうか?などと、どうしてこうも鏡文字ばかりになってしまうのだろうと、傍らで見ていて悩みました。 いっそのこと、鏡文字を先に見せたら正しく書くのかと思って、それを書き写させてみても、やはり鏡文字のままでした。 息子には、正しく文字を書き写すことが非常に困難で苦痛のようでした。 こちらが、どんなに工夫しても正しく書けないのです。 私の姉も左利きで、父親に文字を習うときに下手な字を書いて叱られていたという話を聴かされていたので、怒らないように教えようとしましたが、ここまで出来ないとなると、こちらもついムキになってしまうし、息子は自信を無くして余計に勉強したがらないし、ほとほと困り果てました。 そして、小学校の入学までに平仮名の読み書きの修得は間に合いませんでした。自分の名前すら、まともに書けず、怪しい文字しか書けなかったのです。 入学直後に学校に用事があり、教室に立ち寄ったときも、自己紹介の紙は息子だけが真っ白でした。 当然、宿題も一人では、まともに出来ませんでした。 側について、優しく丁寧に教えても出来ませんでした。 文字を正しく書き写すことが出来ないというのは、常識的には謎ですが、息子にはとても苦痛を伴うことなのです。 息子に物語を読み聞かせても、一緒にアニメを見ていても、ストーリーは追えるし、会話をしていても反応は極自然だし 、人を思いやれる優しい子なので、感情の働かせ方には大きな問題はないと感じていました。 神経衰弱なども得意だし、ポケモンのキャラクターの名前も良く覚えていたので知能そのものが劣っているようには思えませんでした。 しかし、物事を順序立てて説明したり、学校の用意や後片付けなどは時間が凄く掛かりますし、手に大きな荷物を持ったまま靴を履こうとしたり、バックを収納場所に運んでから中身をしまえばいいのに、バックを遠くにおいて、一々中身を取り出しては仕舞う様な子でした。 効率の良いやり方を何度教えても、その様にはしないのです。 行き当たりばったりな感じです。 これは学習障害ではないか?と心配になり、当時の掛かり付けの病院で見て貰いましたが、知能は平均値なのですが、やはり学習障害だろうと言うことになりました(この時の主治医も今の主治医も、息子が病前から左利きであることに注目するので、何かあるのではないかと引っかかりを感じていましたが、右利きより左利きだと学習障害になる確率が高いというデータがあります。これは息子も側にいて気にしそうなので聞きづらく、医師からは直接確かめてはいませんけれど)。 http://www.onecandlepower.com/?cat=3 学習障害も多動症も、同時に症状が現れる子供は多く、これはてんかんの所為なのか、生来のものなのか、息子の場合は幼くして病気をしてしまったので、その因果関係は、はっきりしません。 私の父方には発達障害の傾向を感じさせられる人が多く、私も姉も娘も傾向はあると思いますが、息子のは放っておいて良いレベルには思えません。 息子が言葉を話せるようになったのも遅かったので、多弁になったのは、もしかすると入園したことで、言葉の能力が開花されてのことであったのかもしれませんが、そのことはさておき、やはり病気が学習面や行動に影響を及ぼしているのではないかと思えてしまいます。 けれども、こういったことに拘ることを、以前の主治医も今の主治医も良くないことだと仰っていました。 私が息子のことを気に病むと息子も気に病むのです。 私が悲しむと、息子も悲しむのです。 結局の処、息子は息子に変わりないのです。今も昔もないのです。 病気をする前も後も、私を母親だと思ってくれていて、頼りにしてくれているのです。 脳炎になったことや後遺症が残ったことに責任を感じて、その事ばかりに拘っていては、結局息子を傷つけるだけだと分かったのです。 息子の通院に付き添うことは、私がカウンセリングを受けることと同じ事でもあったのです。 学習障害を意識してから、息子には塾通いをしてもらうことにし、一定の効果も出て、暗算力は早くから身に付きました。 しかし、国語は漢字が苦手で平仮名の促音表記もよく間違えており、文章問題も苦手で、その為、算数でもつまらないミスをしていました。 また、対象により数の表現が変わること(二十日、六つなど)を覚えることも困難でした(今も少し怪しいです)。 本人も頑張っていたのですが、塾通いの辛さから以前よりも勉強嫌いになってしまい、段々と休み勝ちになり、進んでやっていた宿題さえも嫌がるようになり、親子間での根比べの結果、塾はやめることになりました。
お礼
それだけでもきもちがかわってきます。ことばのちからというのはぜつだいです。ですからこんかいあなたがかうんせりんぐをうけたことはだいせいかいだったとおもいます。>私が息子のことを気に病むと息子も気に病むのです。>私が悲しむと、息子も悲しむのです。>結局の処、息子は息子に変わりないのです。今も昔もないのです。>病気をする前も後も、私を母親だと思ってくれていて、頼りにしてくれているのです。>脳炎になったことや後遺症が残ったことに責任を感じて、その事ばかりに拘っていては、結局息子を傷つけるだけだと分かったのです。 >息子の通院に付き添うことは、私がカウンセリングを受けることと同じ事でもあったのです。でも、ここまであなたがはんせいしていらっしゃることからさっするにいぜんからあなたはこういうことはいけないなあときづいていなかったわけではないとおもいますよ。きっとこころのどこかでひっかかっていて、だからこそうつびょうになってしまったのですよね。こんかいもかいとうするにあたって、いろいろときょうかんできること、まなぶことがあってわたしじしんがとてもはげまされました。さいごのぶんしょうにたいしてはよりていねいにかきたいのでもうすこしじかんをください。では、しつれいします。
補足
こんばんは。またまたおそくなってしまいましたもうしわけない。ぜんかいのつづきです。>小学校の入学までに平仮名の読み書きの修得は間に合いませんでした。自分の名前すら、まともに書けず、怪しい文字しか書けなかったのです。>入学直後に学校に用事があり、教室に立ち寄ったときも、自己紹介の紙は息子だけが真っ白でした。>当然、宿題も一人では、まともに出来ませんでした。>側について、優しく丁寧に教えても出来ませんでした。そうですか・・・・・。まわりのひとがふつうにできるのに、じぶんだけできないとなれば、それにたいするこんぷれっくすやくつうをあじあわざるをえないでしょうね。わたしはがくしゅうしょうがいではなかったけれど、じぶんだけできないことがたくさんあるのでおもわずきょうかんしたくなります。>息子に物語を読み聞かせても、一緒にアニメを見ていても、ストーリーは追えるし、会話をしていても反応は極自然だし 、人を思いやれる優しい子なので、>感情の働かせ方には大きな問題はないと感じていました。そのいっぽうで、すぐれているてんもたくさんあるのですね。わたしなんてあにめをみているとはなしのないようがときどきぬけおちてわからなくなることがあります。また、ひとにやさしくできるということは、あたまのよしあしなんかよりもずっとたいせつなことだとおもいます。というか、これだけむすこさんのすぐれたてんをあげられるひともなかなかいないとおもいます。ほんとうにすばらしいごかぞくですね。>しかし、物事を順序立てて説明したり、学校の用意や後片付けなどは時間が凄く掛かりますし、手に大きな荷物を持ったまま靴を履こうとしたり、バック>を収納場所に運んでから中身をしまえばいいのに、バックを遠くにおいて、一々中身を取り出しては仕舞う様な子でした。>効率の良いやり方を何度教えても、その様にはしないのです。>行き当たりばったりな感じです。じつはこれぜんぶ、わたしもそうです。ちいさいころからいまにいたるまでさんざんいわれつづけて、いまだまったくなおりません。まず、ぶんしょうでものごとをせつめいするのはとくいなのですが、かいわというたいむりーなどうさにおいてものごとをじゅんじょだててせつめいすることがひじょうににがてです。わたしもIQけんさのけっかせつめいでいわれたのですが、のうないでじょうほうをせいりしてそれをあうとぷっとすることがにがてらしいです。たんらくてきではありますが、たぶんあなたのむすこさんもじっしつてきにいじょうがあるというよりかはおもいをことばにへんかんするぷろせすのほうにもんだいがあるのではないでしょうか。ですから、こんぽんてきなのうりょくがひくいのだとひかんするひつようはないようにおもえます。とはいえわたしもけんさでそういわれるまえはおなじようになやんでいました。だんどりについてもわたしととてもにているのでびっくりしました。たとえば、かていかのちょうりじっしゅうなどのときにいつもなにからやったらいいのかわからずおろおろして、むだなうごきばかりでなにもすすまず、はんのひとのあしをひっぱってしまいます。また、ぶかつでもだんどりのわるさゆえにあたまがわるいとおこられつづけてきました。>右利きより左利きだと学習障害になる確率が高いというデータがあります。はい。たしかにそのけいこうはでーたとしてあります。わたしもいちじきがくしゅうしょうがいについてほんやいんたーねっとなどからしらべました。なにせずっとじぶんはこれだろうとうたがっていたので。なんでもないといわれたときはぎゃくにとてもしょっくでした。はったつしょうがいやこころのやまいをかかえると、どうしてもひかんてきになりがちです。きもちはいたいほどわかるのですが、せんせいがおっしゃったようにひかんてきになりすぎるのはだめではないけれどいいこととはいえないかもしれません。わたしはじぶんがすこしそのことにねがていぶになったときにはびょうきのおもうつぼになるまいとじぶんにいいきかせます。でも、ひとりきりではせおいきれないおおきなもんだいもあります。そんなときはやはりひとのちからをかりるのもたいせつですよね。じぶんでいやなことにおしつぶされそうになったときにはそれをはきだして、あいてからぼじていぶなことばをもらう。
No.8です。また、お邪魔しますね。 昨日回答を投稿したばかりだし、あまり負担を掛けてもと思い、このことを書くことには、とまどいを感じて避けていました。 この回答も、別の質問に投稿しようと思っていたものなのですが、書き進めるうちに、これはやはり、貴方に当てたいと思い書き直しました。 貴方のことも、お母さんのことも、私たち親子に重なる部分があるように思えたからです。 では、果てしない、手紙のような長文ですが、よろしければお付き合い下さい。 申し遅れましたが、私は中学生の息子と高校生の娘を持つ二児の母です。 昨年から私たち家族は娘の高校進学に合わせて地元に戻り、夫だけは、それまで家族が住んでいた勤務地に残って現在は単身赴任中です。 また、実家の父は既に無くなっていて、母も脳梗塞を患ってからは軽度ですが認知症で、あまり体調も良くありませんので、父が存命中の頃のように気軽に実家は頼れず、普段は私と子供二人の生活です。 といっても、普段、姉たちが母を見ていますので、私に何か負担が掛かっているわけではありませんが、いざというときに頼れないのは心細くもあります。 親になっても、子供に戻りたいときもあるものなのです。 そして、現在中学生の息子は発達障害の指導をしている専門病院で、作業療法の指導を定期的に受けています。 息子は幼いときに髄膜脳炎を患い、その後遺症で、てんかんになてっしまいました(病から側頭葉に傷ができ、てんかんになってしまったのです。ここしばらくは脳波が安定しているので、薬物療法は半年以上中止しており、今は経過を見ているところです)。 息子は元々言葉が遅い子ではありましたが、その代わりと言っては何ですが、人の気持ちを察するのが敏感というか、その場の空気が読める子だと思っていたのですが、退院した直後から落ち着きが無く多弁になり、ある日の外来でも、脳波を取るときに検査技師を困らせていました。 入院中も外来で初回の脳波検査の時も、大人しくて聞き分けが良くて褒められていた程だったのに、その変わりようが少し気に掛かり、このことを技師に話すと、てんかんになると性格が変わる事があるので主治医に相談することを勧められました。 そして、このときの主治医の説明は、てんかんになると多動症を引き起こすことがあり、その為に性格が変わることがあるというものでした。 ――つい最近知ったのですが、てんかんの脳波と多動症の脳波は似ているそうです。 【 注意欠陥・多動性障害 3.4 てんかんとの関わり 】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A8%E6%84%8F%E6%AC%A0%E9%99%A5%E3%83%BB%E5%A4%9A%E5%8B%95%E6%80%A7%E9%9A%9C%E5%AE%B3 当時は、幼稚園に入園して環境が変わった時期でもあり、近所には同性の子供がいなかったのに、急に沢山の交流を持つことになった影響から、自然にそうなったのだとばかり思っていたので、大変ショックでした。 医者の説明では、てんかんは精神病ではないし、多動症もその子の個性と言うことでしたが、生まれつきなら何も引っ掛かりはなかったのですが、自分の不注意から病気になり、適切な治療も遅れ、元の人格も人生も失われてしまったのではないかと思うと複雑な気持ちでした。 どんなことになっても、我が子は我が子には変わらず可愛いのだけれど、良く似た別人になってしまったようで、 「あの子は何処へ行ってしまったのだろう?」と思ったり、その様なことを考えること自体が母親失格のように思えたり、変化が環境によるものではないという可能性を示唆されたことそのものが、受け入れ難く思えました。 入院の手続きが遅れてしまったのも、その頃の私が鬱状態で、病気もしていたので、自分自身に余裕がなかった所為だと思えてならなかったからです。 十代の頃の病気は、親から幾ら言われても、「病は気から」だとは自分でも思っていませんでしたし、不安や焦りはあっても、生きる意欲を失っていたなどということはありませんでした。 しかし、この時の病気は、大人に成り切れない精神の弱さが引き起こしたのだと思います。 大人になってもというよりも、親になってから余計に要領よく物事をこなす必要性を感じ、夫の仕事柄多い引っ越しも、その度に変化する環境になれることも子育ても、私には荷が重く感じられました。 当時は自分が思っていたよりも、自分は能力が低い人間だと思い知らされることばかりで、今よりも疲れ果てていました。 だから、息子が大病をしただけではなく、後遺症で苦しめられるという現実は受け入れ難かったのです。 息子の入院が決まったときは、体も硬直して殆ど意識がない状態でしたので、命さえ助かってくれればと願うのみでしたが、一命を取り留め、以前と同じ笑顔が戻り、自由に手を動かすことも歩くことも出来るようになり、無事入園も済ますことが出来ると、これからは良くなっていくばかりだと希望を膨らませていただけにショックだったのです。 命が助かったことを感謝し喜ぶべきで、ショックを受けることは、息子や治療に当たってくれた医師や看護師に対して尊厳を欠く事に思えても、何か釈然としないものがあったのです。
補足
しょじじょうにより、へんじがおそくなってしまってたいへんもうしわけないです。 >昨日回答を投稿したばかりだし、あまり負担を掛けてもと思い、このことを書くことには、とまどいを感じて避けていました。 >この回答も、別の質問に投稿しようと思っていたものなのですが、書き進めるうちに、これはやはり、貴方に当てたいと思い書き直しました。 いえいえ、おきづかいなく。むしろ、わたしごときものにこのようなことをおはなしいただきまことにうれしく、こうえいにおもいます。なお、ほんぶんをはいどくして、こうしたたくさんのくるしみをのりこえてこられたからこそあなたはわたしにりかいをよせ、こんなにもやさしくしてくださるのだなとあらためてなっとくいたしました。あなたのあじわったそのくるしみのかずかずは、わたしのそうぞうをはるかにこえています。もはやてきとうにかいとうすることははばかられるほどです。ふだんからてきとうというわけではけっしてないですが、そうとしかいいあらわしようのないくらいにきょうしゅくするおもいでいっぱいです。しょうじきなところ、なんともうしあげたらいいのかわかりません。それゆえにふてきせつなかいとうでかいとうしゃさまのけいいをそこねたり、ふかいにさせてしまったりするかもしれません。でも、わたしとしてもできるかぎりのことはしてみたいです。せんえつながら、あなたのわたしにたいするごこういにちゃんとおこたえしたいのです。ですから、わたしなりにかいたどくだんとへんけんにみちたかいとうをどうかおゆるしください。 ほんぶんにまいります。まず、だんなさんがたんしんふにんのなか、かていをささえるためにがんばっていらっしゃるのですね。そんななかこのようなかいとうをいただきますますありがたいかぎりです。わたしはこどものみなのでまだまだわからないことがたくさんですが、すくなくともたいへんだということだけはわかります。 ぶんしょうをぜんたいてきによんでおもったのですが、とてもあたたかいかぞくだなとおみうけいたしました。あなたじしんもつらかったにもかかわらず、びょうきのとうじしゃであるむすこさん?(ねんれいがあまりかわらないのでなんといったらいいかわかりません。)のきもちをりかいしようとつとめられたことにふかいかんめいをうけました。 >どんなことになっても、我が子は我が子には変わらず可愛いのだけれど、良く似た別人になってしまったようで、 >「あの子は何処へ行ってしまったのだろう?」と思ったり、その様なことを考えること自体が母親失格のように思えたり、変化が環境によるものではない>という可能性を示唆されたことそのものが、受け入れ難く思えました。 たくさんのかっとうがあったなか、あなたはむすこさんをむじょうけんにあいされていたのですね。けっしてははおやしっかくだなんておもえません。むしろりそうてきといってもいいすぎではないです。なにしろ、さいきんせけんでは、あなたのようにりょうしんがとがめることもなく、べんきょうができるからとか、ゆうこときくからなど、じょうけんつきのあいがあたりまえのようにびまんしています。そんななか、あなたはそういったあいにおいてのむだなじょうけんをはいじょしようとつとめたのですよね。 >入院の手続きが遅れてしまったのも、その頃の私が鬱状態で、病気もしていたので、自分自身に余裕がなかった所為だと思えてならなかったからです。 でも、めのまえのむすこさんがべつじんのようになってしまったこころぼそさははかりしれないとおもいます。べんきょうができるかとか、いいこにしているかとか、そんなのもはやひになりませんよね。こころがおれてしまってもむりなかったとおもいます。あなたもだれもなにもわるくないです。 >しかし、この時の病気は、大人に成り切れない精神の弱さが引き起こしたのだと思います。 おとなになりきれないせいしんのよわさがひきおこしたのではなく、ぜんりょうなせいしんがつかれはてたあげくひめいをあげたのではないですか?? >命が助かったことを感謝し喜ぶべきで、ショックを受けることは、息子や治療に当たってくれた医師や看護師に対して尊厳を欠く事に思えても、何か釈然>としないものがあったのです。 そのしょうこに、もしあなたのせいしんがおとなになりきれてなかったとしたら、こんなことをおっしゃるはずがないとおもいます。 しつれいですが、きょうはとりあえずここまでとさせていただきます。またじかんがあきしだいじゅんじかきすすめておきます。
No.7の続きです。 >「おまえはこのままいったらはいじんになるぞ。びょうきのせいにするな。」「じゅけんでいっしょうをだいなしにしようとしているんだよ。それにきづけよ。」「うちはかねがないからしりつはいかせられない。こうこういけなかったらはたらきな。そのかわりどこもやとってくんないから。」「なにもしないひとはうちにいなくてもいいからどっかでのたれじにするんだね。」 貴方のことを心配しているのは親心からだと思うけれど、お母さん自身が不安定なので、病気を認めたくないのだと思います。 お母さんは、貴方が病気だと認めると、自分のこれまでが否定されると思い込んでいるのだと思います。 自分が否定されることを非常に恐れる人は、人を酷く罵るものです。 否定されているのではないのに、少し状況が悪くなった様に感じると、否定されたと確信して攻撃的になるのです。 お母さん自身が、人から否定され続けた過去があるので、自分にとってマイナスな出来事が起きると、不安を追い払おうと強迫的に思い詰めてしまうのでしょう。 過去は過去なのだから、戻れない以上は今の貴方を否定するよりも、これからをより良く生きる方に目を向けたらいいのに、お母さんは今までの自分を捨てられないので、貴方が病気になる前の過去にすがってしまうのだと思います。 「こんな筈じゃなかったのに…」 そればっかりになってしまうので、貴方のお尻を叩こうとして、行きすぎた言動を取ってしまうのでしょう。 けれど、そんな呪いのような言葉を向けられては辛いですよね。 お母さんとしては貴方が、 「何くそ」と、奮起してくれないかと思っているのでしょうけれど、これじゃお互いが辛いです。 また、お母さんが主治医の前で愚痴を言うのは、お母さんこそがカウンセラーを必要としているからだと思います。 お母さんは、不安で一杯一杯になってしまうと辛くなって、自分の悩みを貴方に背負わせてしまうのだと思います。 そして、頂いた返信を読んで思ったのですが、貴方がお母さんにあれこれ働きかけると裏目に出てしまうのなら、お母さん自身が積極的にカウンセリングを受ける気持ちに持って行けるように、主治医に相談してみては如何でしょうか。 幸い、お母さんと主治医が二人きりで話す時間があるのですよね。 これを取っかかりに出来ないものでしょうか。 お母さんが自分と似た考えの人(仲間)と話をしていても、何も進展はなさそうですよね。 主治医に限らず、良いカウンセラーは偏見を取り除く手伝いが出来る人ではないかと思うんですが、先生の力量はどうなのでしょう? 話が変わりますが、機能不全家庭で育った子供は、多動傾向を示しやすいそうです。その時々の親の顔色を窺って暮らしているので、何を基準にして良いのか良く解らず、自分が無くなる感じを多く経験するから、自尊心が奪われやすくなってしまうことも要因になっていると思います。 また、普段から不安の多い生活を強いられているので、情緒が不安定になりやすい為、集中力も途切れがちになってしまうのだと思います。 あまりにも不安が多いと自分自身にも懐疑的になってしまい、自信を喪失することから自尊心が欠如し、意志決定も弱くなってしまいます。 普段から発達障害を疑うようなケースで、検査では結果が微妙な人、または問題がないと診断された人も、鬱状態や鬱病であるときは、どうしても多動傾向が強く出てしまうと思います。 元々、多動症(注意欠陥・多動性障害=ADHD)でない人も鬱病になると多動症の症状が出る事が知られていますし、アスペルガーにも類似した症状があります。 もしかすると貴方の鬱病の裏には、本当に発達障害があるのかもしれませんが(再検査で改めて診断される人もいるそうです)、あったとしても、それは小さなもので、自尊心を取り戻せたら自分を引っ張り上げることが出来るのではないかと思います。 自尊心を取り戻して情緒が安定してくると、お悩みの症状は自分でコントロール出来るようになると思います。 普段も嬉しかったこと、楽しかったことを良く思い出すようにすると良いと思います。 メモでも写真でも、プラスイメージに繋がることは、直ぐに視界に飛び込むように貼っておくのも良いかも知れないですね。
お礼
>あまりにも不安が多いと自分自身にも懐疑的になってしまい、自信を喪失することから自尊心が欠如し、意志決定も弱くなってしまいます。そうですか。たしかにおもいあたるふしはたくさんあります。きょうかいせいぱーそなりていーしょうがいのしさでしょうか?じつはわたしもそれをうたがったことがあるのですが、しんだんきじゅんをみたさなかったのでちがうとおもいます。まああくまで「けいこう」ということですね。>自尊心を取り戻して情緒が安定してくると、お悩みの症状は自分でコントロール出来るようになると思います。>普段も嬉しかったこと、楽しかったことを良く思い出すようにすると良いと思います。>メモでも写真でも、プラスイメージに繋がることは、直ぐに視界に飛び込むように貼っておくのも良いかも知れないですね。そうですね。やはりわたしはいまじぶんのこころにふりまわされているのだとおもいます。ぷらすいめーじをそうきできないのであれば、ぷらすいめーじのもととなるものをせっきょくてきにつくるようにくふうし、じゅどうてきにそれをとりいれられるようにするとは、とてもかっきてきアイデアです。もちろんそのぷろせすにはくふうやどりょくというのうどうてきこうどうがひつようですが、あとをかんがえればたいへんこうりつはいいとおもいます。
補足
あと、きいたはなしによると、ははのそだったかていかんきょうもれつあくなもの(りょうしんがしょっちゅうけんか・ほんにんいわくきびしかったなど)で、げんざいのじんかくしょうがいてきなこうどうのいちいんになっているのではないかなとかんがえます。わたしのいまおかれたかんきょうもことばのうえではまったくおなじなので、これからさきのじぶんがおかしくならないかどうかしんぱいです。じっさいおかしくなりかけました。>お母さんは将来に不安は感じているけれど、貴方が離れていくのは恐れていると思います。はい。しょうらいいっしょにすまないとゆるさないなんてことをわたしのあにへいっていました。はははわたしよりもあにのほうをしんらいしているみたいです。(あにとのほうがうまくいってますし、ゆうめいだいがくもいっているのでわたしはよくくらべられているようないんしょうをうけます。つまりはははがわたしをさくひんとしてみているからくちうるさくなるのではなくて、しっぱいさくだからもんくをたれているようにきこえてならないのです。)それもまた「かぞくみんなできょうりょくしていきていくべきだ。」というこじつけたりゆうで。>お母さんは、ご親戚とは あまり上手くは行っていないのですよね。>このことがあるから、お母さんは余計に貴方に執着するのだと思います。>病院での出来事からも感じましたが、お母さんは貴方の話を向き合って聞いてはくれないけれど、何でも知っておきたいのですよね。>これまでも、お母さんは自分自身のことで何かをやり遂げるよりも、貴方を自慢の子供に育てることでプライドを保って来られたのだと思います。>片親なので、意地もあるのでしょうね。>母親であることがステータスそのものになっているので、過干渉になっているのだと思います。 >お母さんは、貴方に酷いことを言うけれど、貴方やご親戚に後ろめたさを持っているので、不安を払拭しようとし、その様な態度を取ってしまうのでしょ>う。お母さんは、誰にも弱みを見せたくなくて攻撃的になってしまうのだと思います。>上から押さえつけていて、自己中心的な人の様にも思えるけれど、お母さんの中では、世界は貴方が中心で回っているような印象を私は受けました。>お母さんは自分を中心に添えてドンと構えて、もっと自分自身のことも見つめた方が良いのに、自分の現実を見つめることが怖くて、貴方のことを思い詰>めることで、自分のことを深く考えないようにしている様に思えます。 >それこそ、お母さんが貴方から自立出来ていないのだと思います。>自分自身に問題を感じても、それを貴方のことに置き換えて、心の安定を得ている様に私には感じられました。>貴方の幸せと自分の幸せを同じものだと考えているのでしょう。>お母さんは、一生懸命になりすぎて、貴方と自分の境が良く分からなくなってしまったのだと思います。>まるで、お母さんは自分の人生を模索することよりも、貴方が主演で自分が監督総指揮の映画を作りたがっているようです。>貴方の幸せを自分の幸せとすり替えてしまっているように思えます。おそろしいほどにかくしんをついています。かんぜんむけつ、まさにそのとおりです。さて、いまはそんなははとふたりっきりでくらしているのですが、びょういんのかうんせらーのせんせいが「このままでいったらふたりともはいじんになってしまう。」といったそうです。かうんせらーのせんせいがほんにんめのまえにしてそんなこというはずがありませんからもちろん、わたしたちはちょくせつそれをきいたわけではありません。じつをいいますと、ははのしゅじいのもとへこっそりそふぼがおしかけて、じっさいのははのきんきょうをはなしたそうです。そうしたところ、ははのいっていることはうそがとてもおおいというじじつがわかったみたいです。さらに、またまたやっかいなことにそふぼがびょういんへきたことがそふぼへばれてしまったのですね。そのことをきっかけにとうぜんながら、いぜんにもましてりょうしゃのみぞはふかまりました。そのときのははのしんてきだめーじはかなりおおきかったとおもいます。また、かうんせらーのせんせいは「ははがじりつできないのは、あなたたちがかかんしょうになりすぎたせいですよ。」といったそうです。もちろんはははそれをしりません。
No.5,6です。ご返信ありがとうございます。 受験勉強でお忙しいところ、長文に付き合わせてしまい申し訳ございません。 今回も、投稿を二回に分けた長文の上、大した情報もございませんので、お時間があるときや気分転換に読んで頂ければ私はそれで充分です。 お礼は、時間も掛かって大変でしょう。 充分、真心を頂けたので、私はもう満足です。 ですから、どうぞお気遣いなさらぬようお願います。 私が十代の終わりに入院したときは、友達に手紙を一枚書いただけで気分が悪くなってしまい、横になって休まねば続きが掛けなかったことを、今、思い出しました。 貴方は思いやりのある優しい方ですね。 私が中学や高校に通っていたときよりも、貴方は、ずっとしっかりしています。その年頃の私なら、ここまで礼儀正しいお礼は、きっと出来なかったと思います。 貴方が、ここでポジティブに振る舞う姿と、とても苦しい現実が横たわっている葛藤が、書かれた文章からは良く伝わってきました。 けれど、戦い抜こうとする強い意志も見えました。 元々の心は強い方なのだとお見受けしました。 貴方の心は全然弱くありませんよ。 辛いときでも、人を思いやる優しさを持っていらっしゃるのだから。 思いやりは、人が持っている感情の中で一番強い心だと思います。 けれども、自分にも向けることを忘れないでくださいね。 人のことばかりで、自分のことを後回しにしているのは良くないですから。 自分への思いやりを忘れると、体を壊したり、心が壊れてしまいます。 貴方の言葉の中に何度も「自尊心」と言う言葉が出てきますが、これは自分を大切にすることに繋がる気持ちです。 そして、ありのままの自分を認めることであり、自分を取り巻く世界を認める気持ちです。 前回、病気に罹るのは誰も悪くないと書きましたが、悪いとしたら、それは私に自尊心が足りなかったからだと思います。 自分の心と体の限界が良く分からず、無理をし過ぎてしまったのです。 追い込むばかりで、自尊心が足りず、力の加減が解らなくなっていたのだと思います。 自分の体を労れるのは自分なのに、焦燥感が強く、無茶をしてしまったのだと思います。 限界を意識してしまう今は無茶はしなくなりましたが、それはそれで良い経験だと思う反面、情熱が足り無くなった自分を淋しくも思います。 だから、あの時は自尊心が足りなかったのだと思うけれど、あの頃の自分が馬鹿なだけだったとは思えません。 今はない直向きさを持っていた、あの頃の自分も大切な自分です。 また、ひょっこり無茶をする自分が顔を出せば良いのにと思ったりもします。 貴方のお母さんが、貴方が病気だと思いたくない気持ちは少し解る気がします。お母さんは、貴方が思っているよりもずっと貴方のことを頼りにしているのでしょう。子供の貴方からしてみれば、あまり嬉しいとは言い難いと思いますが、親は子供が思っているよりも、子供に支えられているものなんです。 口では疎ましいようなことを言いながら、子供が離れていくことを恐れている人もいます。お母さんは、貴方が自分の理解できる、許容できる世界から飛び出していくのが怖いのだと思います。 「何もしない人は家にいなくても良いから、どっかで野垂れ死にするんだね」 は、お母さんの嘘だと思います。 お母さんは将来に不安は感じているけれど、貴方が離れていくのは恐れていると思います。 憶測ですが、お母さんが貴方を頼りにしている節を感じたからです。 お母さんは、ご親戚とは あまり上手くは行っていないのですよね。 このことがあるから、お母さんは余計に貴方に執着するのだと思います。 病院での出来事からも感じましたが、お母さんは貴方の話を向き合って聞いてはくれないけれど、何でも知っておきたいのですよね。 これまでも、お母さんは自分自身のことで何かをやり遂げるよりも、貴方を自慢の子供に育てることでプライドを保って来られたのだと思います。 片親なので、意地もあるのでしょうね。 母親であることがステータスそのものになっているので、過干渉になっているのだと思います。 お母さんは、貴方に酷いことを言うけれど、貴方やご親戚に後ろめたさを持っているので、不安を払拭しようとし、その様な態度を取ってしまうのでしょう。お母さんは、誰にも弱みを見せたくなくて攻撃的になってしまうのだと思います。 上から押さえつけていて、自己中心的な人の様にも思えるけれど、お母さんの中では、世界は貴方が中心で回っているような印象を私は受けました。 お母さんは自分を中心に添えてドンと構えて、もっと自分自身のことも見つめた方が良いのに、自分の現実を見つめることが怖くて、貴方のことを思い詰めることで、自分のことを深く考えないようにしている様に思えます。 それこそ、お母さんが貴方から自立出来ていないのだと思います。 自分自身に問題を感じても、それを貴方のことに置き換えて、心の安定を得ている様に私には感じられました。 貴方の幸せと自分の幸せを同じものだと考えているのでしょう。 お母さんは、一生懸命になりすぎて、貴方と自分の境が良く分からなくなってしまったのだと思います。 まるで、お母さんは自分の人生を模索することよりも、貴方が主演で自分が監督総指揮の映画を作りたがっているようです。 貴方の幸せを自分の幸せとすり替えてしまっているように思えます。
お礼
>貴方がお母さんにあれこれ働きかけると裏目に出てしまうのなら、お母さん自身が積極的にカウンセリングを受ける気持ちに持って行けるように、主治医>に相談してみては如何でしょうか。そうですね。そのほうがははのためでもありますし、けっかてきにはわたしのためでもあります。じつにけんせつてきないけんです。おっしゃるとおりにしてみます。じつはいぜんわたしも「かうんせりんぐうけてみたら?」といってみたことがあるのですが、よやくがあとをたたないのとおかねがないからというりゆうでだめといっていました。いしからせっとくしてもらったほうがはやいですね。いまはははのともだちがははのせいしんのあんていをはかっている(しょっちゅうめーるをしてほぼいぞんてきになっている)わけですが、そのおかげでへんにじぶんのかんがえにじしんをもってしまっています。せんせいのりきりょうがどうであれ、これからがいよいよちょうきせんのまくあけだとおもいます。>話が変わりますが、機能不全家庭で育った子供は、多動傾向を示しやすいそうです。その時々の親の顔色を窺って暮らしているので、何を基準にして良い。>のか良く解らず、自分が無くなる感じを多く経験するから、自尊心が奪われやすくなってしまうことも要因になっていると思います。>また、普段から不安の多い生活を強いられているので、情緒が不安定になりやすい為、集中力も途切れがちになってしまうのだと思います。
補足
>受験勉強でお忙しいところ、長文に付き合わせてしまい申し訳ございません。いえいえ、とんでもないです。こちらこそこんなつまらないしつもんにたくさんのおこたえいただきまことにきょうしゅくです。それに、べんきょうはめりはりをつけてやっているのでだいじょうぶです。そこらへんはおきづかいなさらぬようおねがいします。むしろわたしとしてはこみゅにけーしょんがこかつしていることもあって、こうやってひととはなせる(このばあいはひつだんですが)ことはたいへんよろこばしく、おおいにかんげいすることであります。それに、もしこれがきづかいだけのぶんしょうでしたらこんなにながくはつづかないでしょう。ふきんしんながら、かたちはどうであれ、ひととはなしをすることはわたしにとってしふくなのです。ですからわたしなんかよりもかいとうしゃさまのほうがたいへんきをつかわれているようにおみうけします。たのしくてやるぶんにはけっこうですが、わたしのためにやってくださっているのであればもうじゅうぶんです。あなたのごこういならびにはげましのおことばはしっかりとこのむねにやきつけましたから。あなたはひとのなんばいもわたしにつくしてくださいました。あまったぶんはほかのおこまりのかたにでもおあげになってください。いや、みたされたわたしこそあたえるべきですね。 >貴方は思いやりのある優しい方ですね。ありがたいおことばとしてすなおにおうけとりいたします。>貴方が、ここでポジティブに振る舞う姿と、とても苦しい現実が横たわっている葛藤が、書かれた文章からは良く伝わってきました。>けれど、戦い抜こうとする強い意志も見えました。いずれもあなたのそうぞうされるほどではありません。こころがつよいかよわいかはともかくとして、わたしはきほん、ねがていぶしこうです。これはひくつになっているわけでもけんそんしているわけでもなく、じじつです。しかし、あなたがわたしのことをぽじていぶだとおもったのはまちがいではありません。そのときにあなたがよまれたぶんしょうをかいたわたしがげんきだったからです。そもそもこころはつよさだけできまるともおもいません。もんだいなのは、どれだけせんれんされているか。ひとはめのまえにたちはだかるくなんにどれだけたえるかよりも、どれだけうまくそれをしょりできるか。けしてずるがしこいということではなく、かといってぐちょくになりすぎず、つねにれいせいをたもちつづけてなおかつじょうねつをたやさない。このばらんすがじんせいにおいてたいせつだとわたしはかんがえます。あくまでわたしのじんせいかんなので、ぜったいてきなしんりだともおもいません。したがいまして、ひとへおしつけるつもりもさらさらありません。でもこれらをりょうりつするのはしなんのわざであることまちがいないとおもいます。ちょうほんにんのわたしがばらんすをとれていないのですから、ひとへしゅちょうするいぜんにもんだいですよね。>追い込むばかりで、自尊心が足りず、力の加減が解らなくなっていたのだと思います。>自分の体を労れるのは自分なのに、焦燥感が強く、無茶をしてしまったのだと思います。わたしはまだちゅうがくせいですからすぎたことはいえませんが、とてもくろうされたようですね。>限界を意識してしまう今は無茶はしなくなりましたが、それはそれで良い経験だと思う反面、情熱が足り無くなった自分を淋しくも思います。わたしのけんかいでは、じょうねつがたりなくなったじぶんをさびしくおもうとおっしゃるじてんでれっきとしたじょうねつがうかがえます。>お母さんは、貴方が思っているよりもずっと貴方のことを頼りにしているのでしょう。それははんぶんあたっているとおもいます。さいきんよくこばなれができないおやなんていうことばをみみにします。それにわたしだけでなく、ははのりょうしん(わたしからすればそふぼにあたりますが)がすぐちかくにすんでいるのですが、りょうしゃのなかはけんあくでありながら、はははどこかたよっているところもあります。(たとえば、いまでこそなくなりましたがすこしまえまではどんなにきらいでもかいものだけはたよっていました。もしかいものをしないとわたしのことなんだとおもってるんだよなどどなりちらします。)それと、わたしのちちがせいぜん「おれがしんだらたぶんおかあさんはひとりでいきていけないとおもう。」なんてこといっていました。じっさいそういってからしばらくたたないうちにわたしのちちはたかいしました。ちちとははのなかもけんあくで(ねんじゅうけんかばかりでした。)したがやはりはははかなしみにくれました。
No.5です。長くなったので投稿を二回に分けました。 突然ですが、貴方のお母さんは真面目すぎるのだと思います。 というよりも、完璧主義者なのではないかと思います。 貴方の経歴を気にするけれど、経歴よりも何よりも、先に体を治すことが大切なのにね。 心も体も同じなんですよ。 精神科に掛かっているから心が弱いのではなく、体が悲鳴を上げていて、気力が付いていかないときもあるんですよね。 お母さんがそこを分かってくれるかどうかが鍵だと思います。 今の病院には一人で掛かっているのですか? 診察室には一人で入っているのでしょうか? 主治医は、お母さんに病気のことをきちんと説明してくださいましたか? 自分の体を自分の意志でコントロールできない今、お母さんが治療に協力的でなければ、貴方のこれから先のこと、進路に不安が出てきてしまいます。 お母さんが貴方が病気であることを認めなければ、病気に偏見を持っていては、これから先の道のりは厳しいです。 そのことを今の主治医に相談して、主治医の口から病気のことをお母さんに説明して貰ってください。 貴方は自分がただの鬱病ではなく、慢性疲労症候群ではないかと疑問を持っていますが、このことも主治医に相談してください。 もしも、見当違いの治療をしていたとしたらという不安があるのなら、子供の貴方の口からは言いづらいでしょうが主治医に話して下さい。 受験だなんだと言うけれど、病気が治らないと、仮に試験に受かっても通学できなくなってしまいます。 治療方針が固まっていた方が、貴方も安心して行動しやすいのではありませんか? 病院で受けたい検査はきちんと受けて、学校は生活リズムを取り戻すために無理のない範囲で午前中保健室登校で良いのではないですか? 受験をしたいのなら、ともかく朝はきちんと起きて登校時間に間に合う。目標はこれだけで良いと思います。 鬱の精神状態にあるのに、あれこれ頑張っても失敗体験が積み重なって、辛い思いが募るばかりです。 今貴方に一番必要なのは、小さな成功体験の積み重ねです。 これは、お母さんが怒ろうが笑おうが、真剣に話して聞いて貰って下さい。 どんな病気だって、小さな成功体験を積み重ねて自信を取り戻すことが、完治への近道なんですから。 体が言うことを聞かないのに、学校でエネルギーを使い果たしては、塾に通う意味がありません。 授業の遅れは塾通いでカバーが目的なのですよね。 学校は朝顔を出すこととテストを受けるために通う程度で良いと思います。 姪は鬱ではなかったけれど不登校で、中3の夏から学校にはテストの日だけ保健室登校をしていました。塾には通わず母親が勉強を見ていました。 いろんな人がいる中、貴方は充分頑張っています。とても偉いです。 あまりにも体がきついのなら、塾に拘らずに、苦手教科だけ家庭教師に見て貰うということも検討してはどうですか? 後は友達のノートを写させて貰ったり、独学でやれませんか? 体力を出来るだけ消耗しないで、気力に回せるよう工夫の余地はありませんか? 教科によってはお母さんから教えて頂けるものはありませんか? * * * * * * * * 進路は定時制で良いのではないですか。 私の中学の同級生で、中三の時に体をこわして出席が叶わなくなり、定時制に進んだ人がいます。 私より成績が良かったので以外でしたが、でも、大変だったんだなと思うだけで、別にどうこう穿鑿はしませんでした。 仕方ないことですよね。病気になりたくてなったんじゃないのだから。 高校の時の先生で、高校時代に定時制から普通科に編入した方もいました。 健康になれば何だって出来ます。 定時制に通学中に体調が良くなれば、バイトだって出来ます。 貴方に大切なことは、お母さんに今の病状を理解してもらうこと、出来ること出来ないことを理解して貰うこと、適切な治療を受けられれば健康を取り戻せること、未来が開けることを分かって貰うことです。 お母さんとのコミュニケーションに、主治医にも一役買って貰って下さい。
お礼
でも、いまのわたしはそんなゆめからほどとおい。ひとのつらさをわかるどころか、じぶんがひめいをあげている。どんなにかっこつけていってはみてもしょせんゆめはゆめ。それいじょうにもそれいかにもならないのだ。そうやって、わたしのちからやそんざいのあまりにちいさいことにがっかりします。>受験だなんだと言うけれど、病気が治らないと、仮に試験に受かっても通学できなくなってしまいます。>治療方針が固まっていた方が、貴方も安心して行動しやすいのではありませんか?>病院で受けたい検査はきちんと受けて、学校は生活リズムを取り戻すために無理のない範囲で午前中保健室登校で良>いのではないですか?>受験をしたいのなら、ともかく朝はきちんと起きて登校時間に間に合う。目標はこれだけで良いと思います。>鬱の精神状態にあるのに、あれこれ頑張っても失敗体験が積み重なって、辛い思いが募るばかりです。>今貴方に一番必要なのは、小さな成功体験の積み重ねです。>これは、お母さんが怒ろうが笑おうが、真剣に話して聞いて貰って下さい。>どんな病気だって、小さな成功体験を積み重ねて自信を取り戻すことが、完治への近道なんですから。>体が言うことを聞かないのに、学校でエネルギーを使い果たしては、塾に通う意味がありません。>授業の遅れは塾通いでカバーが目的なのですよね。>学校は朝顔を出すこととテストを受けるために通う程度で良いと思います。いままでだれもこんなこといってくれるひとはだれひとりとしていませんでした。ほんとうにありがたいです。そういっていただけるだけでもじゅうぶんです。なんかいおれいしてもたりないです。
補足
>貴方の経歴を気にするけれど、経歴よりも何よりも、先に体を治すことが大切なのにね。 >心も体も同じなんですよ。 >精神科に掛かっているから心が弱いのではなく、体が悲鳴を上げていて、気力が付いていかないときもあるんですよ>ね。 >お母さんがそこを分かってくれるかどうかが鍵だと思います。 すなおにいってありがたいことばです。ただ、おやからのりかいをえられないでがんばっているひともわたしいがいにたくさんいるとおもいます。ですからかならずしもおやのりかいがひつようだとはおもいません。むしろ、どれだけくるしみにたえられるかがかぎになってくることとおもいます。くるしみとひきかえにえるものだってあります。けれど、つらいときは「つらいっ」てちゃんといっているのでだいじょうぶです。ほんらいならばよわねをはかないほどつよくあるべきなのですが、よわさゆえについこうやってむねのうちをひれきしてしまいます。 >今の病院には一人で掛かっているのですか? >診察室には一人で入っているのでしょうか? いいえ、ほんとうはひとりでかかりたいのですが、おやが「かねはらってやってんだから。」と、それをゆるしてくれません。それと、いまでこそしんさつしつへはひとりではいっていますけれどもすこしまえまでにはおやだからとめちゃくちゃにこじつけたりゆうでいっしょにしんさつしつへおしかけてきました。あのひとはこどものしんさつにくびをつっこむことはおやのとっけんであるとかんちがいしているようです。しかもしんさつしつにはいってからのたいどにはもううんざりしました。というのも、わたしのことよりもじぶんのぐちをべらべらととりとめもなくしゃべりだすからです。あまりにみかねたのでとうとうしゅじいへそうだんして、わたしがしんさつをおわったらははがはいってせんせいのはなしをきくというかたちをとることにしています。しかしそのごもどこかふにおちないようすでした。ほかにもろーるしゃっはてすとのけんさをうけたあと、けんさけっかのしょるいをどくせんしてわたしににみせてくれなかったことがあります。ただひとこと、「おまえにはがっかりしたよ。」といわれました。そのごうけたIQけんさにいたってはわたしのほうからせんてをうって、けんさけっかをおやにみせないようにしていましたが、「みせろ、みせろ」うるさかったです。しまいには「びょういんにいってきけけばどうせわかるんだから。」とおどされたのでしゃべってしまいました。こうはんせいはったつしょうがいをうたがってのけんさで、いじょうがみられなかったのでわたしはなんでもないただのなまけをびょうきやしょうがいのせいにしたおろかものとしておややそのともだち、じゅくのせんせいなどからしろいめでみられています。けっきょくこんかいのけんさはぼけつをほったにすぎなかったのです。~「おまえはこのままいったらはいじんになるぞ。びょうきのせいにするな。」「じゅけんでいっしょうをだいなしにしようとしているんだよ。それにきづけよ。」「うちはかねがないからしりつはいかせられない。こうこういけなかったらはたらきな。そのかわりどこもやとってくんないから。」「なにもしないひとはうちにいなくてもいいからどっかでのたれじにするんだね。」~
はじめまして。 慢性疲労症候群について色々とお調べになっているのでご存じかもしれませんが、「大阪市立大学 医学付属病院」のホームページはご覧になりましたか? まだご覧になったことがないのなら、一度検索してみて下さい。 ホームページから順を追ってご覧になるのも良いのですが、「大阪市立大学 医学付属病院 (診療科編)」でグーグル検索してみて下さい。 良くある質問の中でも、診療科についての説明が為されたページを見ることが出来ます。 ここでは、慢性疲労外来の受診の仕方の説明が載っていますが、まずは掛かり付けの医療機関に相談することとありますので、現在の主治医に相談なさることをお勧めします。 また、全国の慢性疲労症候群(CFS)の診療を行っている医療機関のリンクも、ここでは紹介されています。 リンク先では、北海道、東北、関東、中部、近畿、九州の診療の出来る医師の名前と病院が紹介されています。 直リンクが可能かどうか分からないので、リンクは避けましたが、参考になると思います。是非一度ご覧になって下さい。 鬱病に似た病気は他にもあります。 脳脊髄液減少症(低髄液圧症候群)がそれで、この病気も頭痛、肩凝り、目眩、咽の痛み、頸部の痛み、集中力、思考力の低下、全身倦怠感があり、慢性疲労症候群との診断を受けた人の中にも、実は脳脊髄液減少症出会ったという人もいるそうです。 スポーツ事故や交通事故でなると言うことも知られていますが、日常でも激しいしりもちをついたり、出産をきっかけに罹る人もいます(産後鬱になった人の中には、脳脊髄液減少症を患っている人も多いかもしれません)。 特に頭部や頸部を打ち付けなくとも、掛かることがあるので、知らず知らずのうちに患っている方は多いのではないかと思います。 ttp://.hatachan.com/sekizuiro.htm ↑個人サイトですので直リンクは避けました。 頭に「h」を、“//”の後には、「www」を付けて再検索してみてください。 かなり詳しく書かれているので、参考になると思います。 * * * * * * * * 私自身が鬱病を疑うほどの体調不良と精神状態の悪化に悩まされた過去があり、身内が脳梗塞、脳炎と、脳の病気の後遺症に苦しんだので、脳の病気については自分とは無関係には思えず気に掛かり、普段も何か記事を目にしたら読むようにしています。 そこで、これは知っている範囲、聞きかじった程度の回答ではありますが、何か参考になれば幸いです。 ご質問を読んでいて感じたのですが、典型的な鬱病の人が書いた文章だと、心配の仕方が妄想と思えるぐらい取り乱していたり、自分や周りを責め過ぎていたりで、パニック気味な印象のものが多い中、貴方が書いた内容は理路整然としていて、推理思考する能力には何も問題がないように思えます。 文章の内容も筋が通っていて、破綻のないものですよね。 主治医が仰るとおり、貴方は典型的な鬱病とは違うような感じがします。 環境から来るものなら、少なくとも適応障害であるとは言えそうですが、適応障害から鬱病になる人もいますので、その間を行ったり来たりという感じなのでしょうか…。 現状として、貴方自身のものの考え方や感じ方よりも、体調不良の原因が特定できないので、その点で体調に現れるタイプの鬱病と主治医は診断したのではないかと思います。 精神科の病気でなくとも、どの病気でも言えることなのですが、医師が病気に対しての豊富な知識と治療の経験があり、見当も正しく付けられていて、かつ、正しい検査が為されなければ本当の病名は分からないものです。 私自身、病気から手術や処置を受けることが多かったのですが、やはり、いつも原因を特定するには検査の繰り返しでした。 本来は外科と内科の病気だったのに、整形外科に掛かったばかりに、原因が中々特定されなかった病気もありました。 早くから原因が特定できれば、痛みに苦しんだり、手術しないで済んだのではないかと思いますが、掛かった病院に検査技術がなかったり医者も知らない病気であったりと病気の完治には運もあります。 私が罹った病気で手術する必要があった病気は過去に三つありますが、いきなり生死に関わるほどではないけれど、あまりメジャーな病気ではなかったので、特定に時間が掛かりました。 どれも痛くて、痛みが酷いときは気が狂いそうでしたし、二つめの手術迄は成人前で親の保護下にいましたから、散々、 「病は気から」だの、「病気のフリをしている」だの言われました。 私の両親は、血液などの検体検査の結果と医師からの説明がなければ、手術をしなければならない様な病気だとは思わなかったようです。 特に父親は病気とは無縁の人でしたから、一つ目の病気は手術の日が決まるまで、二つめの病気は入院が決まるまで詐病だと疑っていました。 精神科でなくとも、親とは子供が大病しているとは思いたくないものなのかもしれません。 普段の生活が苦しくて一杯一杯なので、これ以上責任を負うのは嫌だったのかもしれないですし、子供が理想像から離れるのが嫌だったのかもしれないです。 少なくとも、私の両親は子供が病気になると自分たちの所為の様に思え、認めたくなかったのではないかと思います。 親と子は心も体も同じではないし、養育を放棄していたのでもないのだから、病気になったことに関して責任を感じなくても良いのに、一緒に暮らしていると過干渉になってしまうのでしょう。 病気になった方にしてみれば、なりたくてなったのでも油断していてなったのでもないです。 強いて言えば、たまたま体調が悪いときに頑張りすぎたり、運悪く風邪を拗らせたと言うぐらいで、病気はいつもと特別違うことをして罹るものでもありません。 闘病中は自分を責めてしまいますが、冷静に考えると、タイミング悪く色々重なった結果であって、誰の所為でもないのです。
お礼
>成人前で親の保護下にいましたから、散々、>「病は気から」だの、「病気のフリをしている」だの言われました。ていどこそちがいますが、まさにこのじょうきょうかにいまいるわけです。>主治医は、お母さんに病気のことをきちんと説明してくださいましたか?>自分の体を自分の意志でコントロールできない今、お母さんが治療に協力的でなければ、貴方のこれから先のこと、>進路に不安が出てきてしまいます。>お母さんが貴方が病気であることを認めなければ、病気に偏見を持っていては、これから先の道のりは厳しいです。>そのことを今の主治医に相談して、主治医の口から病気のことをお母さんに説明して貰ってください。しゅだんはつくしました。どれもむだです。あのひとはひとのいうことをききません。それだけではなくて、しんせきどうしでもいろいろなもんだいをかかえているほどです。なかにはぬれぎをきせられたひともいます。どんなにばっくをつけてこちらのいけんをしゅちょうしてもおなじいけんのともだちにちくっていっしょにはんろんしてくるだけです。そういうひきょうなおやなんです。さいていです。ただむなしくぼけつをほるだけだということにきづいてしまいました。でもいつかはそんなきたないれんちゅうをみかえしてやりたい。りっぱなかうんせらーになって、わたしとおなじくるしみをあじわったひとをたすけてあげたい。これからのひとのためにも。いままでのじぶんのためにも。
補足
おそくなってすいません。こちらこそはじめまして。こんなにくわしいじょうほう・あどばいすをのせてくださるひとがいるなんてゆめにもおもいませんでした。 >脳脊髄液減少症(低髄液圧症候群)がそれで、この病気も頭痛、肩凝り、目眩、咽の痛み、頸部の痛み、集中力、思考力の低下、全身倦怠感があり、 おどろくことにこれらほとんどあてはまっています。ただ、まだけんさをうけていないのではやがってんはきんもつですがね。もしかしたらたんなるじりつしんけいしっちょうしょうのせいかもしれません。 >私自身が鬱病を疑うほどの体調不良と精神状態の悪化に悩まされた過去があり、身内が脳梗塞、脳炎と、脳の病気の後遺症に苦しんだので、脳の病気につ>いては自分とは無関係には思えず気に掛かり、普段も何か記事を目にしたら読むようにしています。 かいとうしゃさまもそのことでとてもくろうされたのですね。なんといったらいいのかわからないですが、わたしなんかあなたにくらべたらまだまだめぐまれているほうだとおもえてきました。あなたじしんのけいけんだんや、とてもしんせつでやさしいことばのかずかずからとうじあじわったいくらことばをつくしてもたりないほどのつらいきおくとそのときのおもいをわたしのできるかぎりでしんしゃくいたします。どおりでなかなかこういうしんせつなかたはいらっしゃらないはずです。じっさいにつらかったにもかかわらず、びょうきをみとめられないどころかそれをひていされた、そんなにじゅうのくるしみはしごくのものにひってきするとおもいます。そもそもしんしんとわず、びょうきからしょうじるとくゆうのつらさというのはそれをあじわったひとにしかわからないですからあたかもすべてりかいしたといってしまうわけにはいきません。ですからかわりにといってはなんですがそんなつらいたいけんをしたあなたをこころからそんけいしたいです。これぐらいのつまらないことしかかけずにもうしわけないです。 >典型的な鬱病の人が書いた文章だと、心配の仕方が妄想と思えるぐらい取り乱していたり、自分や周りを責め過ぎていたりで、パニック気味な印象のもの>が多い中、貴方が書いた内容は理路整然としていて、推理思考する能力には何も問題がないように思えます。 >文章の内容も筋が通っていて、破綻のないものですよね。 はい。いくらうつびょうだからといって、みだれたぶんしょうをかくことはかいとうしゃさまへのけいいをそこねるとともにじぶんのうったえをりかいしてもらえないので。それにわたしはぶんしょうをかくのがすきだっていうのもあります。つねにじょうずといわれるぶんしょうをきょくりょくめざすようにしています。でもほんしんはというとそれらとはうらはらにたくさんのじゃねんがはびこっていてまるでこうはいしきったくらやみせかいのようです。しんじられないかもしれませんが、ときどきかじょうなじこけんおからふさぎこんでしまったり、へんにがいばつてきになってどなりちらしたりいじょうこうどうにでてしまったりすることがあります。 ですのでじっしつてきにはすこしおちついているほんのうてきなじぶんをきわめてりせいてきなじぶんがかろうじてとうぎょしているといったていです。それもけっしてじぶんひとりでおこなっているわけではなく、たくさんのひとからのささえをうけてこそなりたっているのです。 >環境から来るものなら、少なくとも適応障害であるとは言えそうですが、適応障害から鬱病になる人もいますので、>その間を行ったり来たりという感じなのでしょうか…。 そうなのかもしれません。いっぱんてきなせいかつにものすごいすとれすをかんじるので。わたしのばあい、じへいけいこうがあるのでなおさらです。いずれにしろ、けんこうではないのはたしかです。 >精神科でなくとも、親とは子供が大病しているとは思いたくないものなのかもしれません。 そういうけいこがあるということはみうけられますね。ただ、せいしんかいはたんにむちなだけのばあいがおおいとおもうのですが。 >闘病中は自分を責めてしまいますが、冷静に考えると、タイミング悪く色々重なった結果であって、誰の所為でもな>いのです。。 あなたのばあいはもっともだとおもいます。ただ、わたしのばあいにあてはまるかどうかはわかりません。
- salad3f
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fenix7001さん、こんにちは。 うつ病歴4年半くらいの29歳の者です。 私は専門家ではなくて単なる経験者だから、必ずしも同じことがfenix7001さんにも当てはまるというわけではないと思いますが、参考になる部分もあるかと思って回答することにしました。 まず、ちょっとわからないところがあるのですが、 環境に由来するうつであると医師からの説明があったと言うことですが、現在も病院に通ってらっしゃいますか? それと、うつに関係ある環境には今もあるということでしょうか。 あと、慢性疲労症候群のことですが、自己判断だけで疑ってらっしゃるのですか? もしそうなら、病院に行って心配を減らしたほうがいと思います。 行ってもわからないかもしれませんが、勝手に心配してるとそれもうつを悪化させそう。 慢性疲労はうつの症状でもあるので、うつと診断されているのになぜ慢性疲労症候群を疑ってらっしゃるのかわからないですが。 受験期にうつになってしまうと、心配ですね。 でもね、私ね、自分の経験だけで言っちゃうんですけど、先のことを心配していると、うつはなかなかよくならないと思うんです。 私は発症したとき25歳で、仕事がきっかけでなってしまったんですけど、大学院を出たてで始めた仕事で半年でかかってしまったので、仕事をやめたら次に就ける仕事なんてほとんどないって思って(職歴なしで就職するとしたら第二新卒扱いをされるのは25歳までなので)、悩みました。 でも悩んでるうちは、そのマイナスの気持ちがどんどん自分自身を下へ下へとひっぱっていってしまっていました。 病気も悪化するし、気持ちがくじけたら体調もよくならないし、そんな状態でよい未来を思い描きようもなかったです。 一番大事なのは、まずうつを治すことを考えることだと思います。 完治じゃなくてもね、よくなれば、そこから開ける道もあると思うんです。 現在うつなら、その立ち位置から考えたって、いい案が浮かぶわけないです。 だって、頭も体も動かないんだもん。病気のせいなんだもん。仕方ないです。 いい案が浮かばないような状態でいろいろ考えて心配するのは、単にマイナスのスパイラルを招くだけで、いいことなんにもないと思います。 もちろん、まったく心配するなっていうのは無理だっていうのもわかっています。 だって、自分で勝手に悩んでるだけじゃなくて、進路を決めなきゃいけなくて、どの道に進んでも明るい未来が想像つかないんだものね。 けど大事なのは、正しい選択肢を選ぶことよりも、どの選択肢を選んでもその後どうするかだと思いますよ。 今と同じ体調が続くとは思い込まないでください。 「過去の栄光」なんて言わないで、今だけたまたま病気のせいでよくないんだ、また治ったらがんばろって思えばいと思います。 (治る前にがんばっちゃだめですよ) 病院にかかっているのなら、ちょっとずついいほうに向かっていくんだって思ってください。 要らぬ心配はかえって心配している方向に自分を引きずり込むだけだって思ってください。 高校の勉強なんて、推薦でも取りたいんじゃない限り、内申書も関係ないんですから、 3年間の勉強を3年くらいの間にやればいいやって思っちゃったらどうでしょうか。 1年生のうちは病気をよい方向に向かわせられたらそれだけでめっけもん、3年生になったら勉強がんばろって、そんなことでもいいんじゃないかなぁ。 うつは、病気を治そうって思う過程でいろいろなことを考えるし、大事なことを学べる病気だと思いますよ。 私も体調最悪の日もまだあるから、そういう日はそんなこと言ってられないし、原因となった物を恨むけど、今では「学ばせてもらってるなぁ」って感謝してるくらいです。 学校の勉強だけじゃなくて、いろんなことを学んでください!
補足
けいけんしゃのかたからもかいとうをいただけてほんとうにこころづよいです。 >環境に由来するうつであると医師からの説明があったと言うことですが、現在も病院に通ってらっしゃいますか? はいもちろんそうです。かんきょうというよりも、かていないでのかっとうといったほうがよりぐたいてきかもしれません。びょういんはちかくにせいしんかがあるのでそこへいっています。まえにくらべてかくだんとよくなったようなきがしますが、またいきなりおちこんでしまうことがあるのであなどることはできません。それもよそくがつけばいいのですがとつぜんふあんかんとしょうそうかんにかられるのでこまっています。 >慢性疲労はうつの症状でもあるので、うつと診断されているのになぜ慢性疲労症候群を疑ってらっしゃるのかわからないですが。 やはり、まんせいひろうしょうこうぐんはなんびょうにしていされているわりにあまりせけんにしんとうしてないみたいですね。じつはこのびょうき、いしゃのなかでもみちのりょういき(いっぱんてきにはなおせないびょうき。でもいまはほんのいちぶのいしゃにとってなおせる。このびょうきをとくていすることができなくでじさつしてしまったひとがたくさんいる。)んですね。かくとながくなりますけれど、いませけんでさわがれているぞくに「うつ」といわれるびょうきのなかのおおくはじつはじゅんすいなうつびょうではないのだそうです。ではなにかといいますと、くびのきんにくのこうちょくによってあっぱくさせられたちゅうすうしんけいがひきおこすうつにおそろしいほどにたしょうじょうというのがやまいのしょうたいらしいのです。まだいっぱんてきでないゆえにしんじがたいじじつかとおもいますが、じっさいにまんせいひろうしょうこうぐん(とよばれていたが、せいかくにはけいせいきんしんしょうこうぐんだったかな??)だったひとがうつびょうとしんだんされてくすりをじょほうされ、それでもなおらなくてくすりのりょうをふやされたり、びょういんをつぎからつぎへかえてみたりするけどなんでもないといわれたり、(ふていしゅうそ)うつびょうといわれたりしたひとがいます。くすりをたいりょうにしょほうされてのんだかたのなかにはぎゃくにくすりによってとうごうしっちょうしょうのようなしょうじょうをひきおこしてびょうじょうがあっかしたひとがいます。なんでもないのにしょうじょうだけがあって、かぞくもりかいをしめさなくなります。なかにはぎゃくたいにあったひともいるそうです。そうやってまわりからどんどんおいつめられていって、とうとうじさつにふみこんでしまう。そんなおそろしいびょうき「だった」のです。しかしさいわいにそのかたはじさつにふみこむまえにそのびょうきをみつけることができて、もちろん(いままでふかのうとされていた)ちりょうをうけたけっか、もとのけんこうなからだをとりもどせたそうです。わたしもそのしょうじょうのなかであてはまるこうもくがたくさんあったのでもしかしたら?とおもっているわけです。しかし、しんだんおよびちりょうできるびょういんがほんとうにかぎられているので、びょういんへいくのはむずかしいです。くわしいことはきんねんしゅっぱんされた「まんせいひろう」はくびでなおるというほんにのっています。 >だって、頭も体も動かないんだもん。病気のせいなんだもん。仕方ないです。(治る前にがんばっちゃだめですよ) そうおっしゃるひとはけっこうすくないとおもいます。じゅけんきでどうしよもないこともあるのでしょうが、とにかくわたしのばあいまわりからのかぜあたりがきびしいです。 >うつは、病気を治そうって思う過程でいろいろなことを考えるし、大事なことを学べる病気だと思いますよ。 すばらしいいけんです。わたしもそのようにおもいます。 ここまでしんみにながいぶんしょうをかきあげてくださったということは、かいとうしゃさまもとてもうつびょうでくろうなさったんだなとごはいさついたします。
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お礼
御無沙汰してます。私自身の悩みのことで色々と的確なアドバイスを頂いたにもかかわらず、諸事情があって(PCの慢性的な不調)長い間返事を入力することができなくて、申し訳ございませんでした。お陰様で今私は毎日公立高校に普通に通っています。また、今までの自分を情け無く思っています。しかし、私は今日も生きています。