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お時間があれば読んでみて下さい。
わたしの話をします。誰かには、下らないかも知れないし、誰かには意味を見つけて貰えるかも知れません。 その意味にかけて話をさせて下さい。 わたしが、はじめて「死にたい」と思ったのは、小学5年生でした。カッターナイフで、手を切ろうとしました。でも、止めました。誰かが言う通り死にたくなかったし、母や父が悲しむことを出来なかったからです。 次は、中学生でした。わたしは、その時、3階から花壇を見下ろしていました。「ここから、あそこへ飛んだら、皆、わたしのこと解ってくれるかな」と思い、とっさに手すりに登ろうとしたのを、同級生に見つかって、止められました。 それから、今まで、楽しい時もあったけど、何度も「死のう」としました。 今でも、病気の症状として、「死」が頭を過ります。 しかし、何度も「死のう」としたわたしは、気づきました。 「もしも、必ず幸せになることが約束されているなら、本当は、わたしは、生きたいのだ」ということに、「死にたい」というのは、本心ではないのだということに、気づいたのです。 そして、わたしが「死にたがった」時、必ず、わたしは、何かに守られてきました。それは、家族の思い出だったり、偶然の通りすがりの人であったり、憧れの人の存在であったり、はたまた自尊心であったり。 先日も、久しぶりに「死にたい」と格闘した夜があります。わたしは、「死にたい」の代わりに、「本当は、生きたい」と繰り返しながら、こちらに書き込みをして助けを求めました。膨らんでいく恐れの中、「本当は、生きたい」と言っていたら、ある人がふっとあっという間に、わたしの恐れを鎮める回答を下さったのです。 わたしの鬱は、ごく軽いです。わたしより、ずっと苦しい気持ちと闘っている方が沢山いらっしゃる中で、わたしのこの話に、何の意味があるかわかりません。 けれども、今までわたしが、命を絶とうとした時に守ってもらったこの命で、わたしは、これからも「本当は、生きたい」と繰り返して、その本心を忘れないようにしたいです。 皆さんは、幸せになれると約束されたら、生きたいですか?
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別に普通に生きたいです。多少のストレスにはさらされても不治の病等どうしようもないような状態にならなければ。 死になくなるのは悩みがあったからですよね?死に対する興味が強すぎて「死んだらどうなる?」と言ったことからではないですよね? ご自身どう思うかわかりませんが文章を読んでると貴方は沢山ではないのかも知れないけど恵まれてる人だと思います。必ず何かに守られているという事に気付いている。 守られているという事も幸せとなってるんじゃないかなと思います。 私の事を言えば、死を考えたことは何回かあります。でも私も親の存在が死に至らせないというのは大きいです。 ネガティブな理由ですが去年親戚(私の2個上)が自殺しました。それが死んではならないという理由の1つにもなってしまいました。 親御さんが本当に悲痛でした。 これは非常にラッキーな事なんですが私は痛いのが嫌いなんです。手首をカッターで切るとか、自傷に走るのはできません。それと飽きやすい。悩んで辛い状態ですがどう考えても答えは出ないし何が出来るわけじゃない。死を考えても結局はおなかはすくし眠くなるしトイレには行きたくなるし…体は生きているんです。辛いことの逃げだろうと丸投げだろうと部屋で伏せってそのままの状態でいたって何にもならないのでとりあえず本能の思うままに動きます。 悩むことに飽きる。それが私がうつ病とならない理由かと思います。 考え込んでも答えがでないなら考えることをやめるのも1つの手ですね。 不眠症とか拒食症の人だって体は生きてるはずなんですがそのコントロールが難しい状態となってるんでしょうね。 「死にたい」というのは本当は「逃げたい」なんじゃないかなと思います。当てはまるのは私ぐらいかもしれませんが。 恐れを鎮める回答、どんな回答が知りたいです。
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- kokunomi
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kayoppe88さんの「死にたい理由」が分かりませんし、本当に鬱なのかもハッキリ申し上げて分かりません。(鬱状態なのは考えられますが) 少なくともkayoppe88さんは「自尊心」というものをお持ちでらっしゃいますね。 ご家族にも恵まれ、周りの方にも助けられ…。 >「ここから、あそこへ飛んだら、皆、わたしのこと解ってくれるかな」 もしかして、ヒロイン願望がお強いのではないですか? 本当の鬱病患者は「死にたい」ではなく、「消えたい」「この世から自分の存在を消したい」と考えるものです。 そして「幸せになれる約束」など無いのですよ。 よく「人の人生の中で、良い事も悪い事も同じ数だけある」や「人間は皆、平等である」等の言葉がありますが、これらを全て信じる事ができますか? 残念ながら、人間は不平等な人生を送ります。 kayoppe88さんは「死にたい」とおっしゃっていますが、「死」というもの(ここでは、自死と言う意味です)を身近に感じられた事がないのではないでしょうか? kayoppe88さんがあまり深刻でらっしゃらないようですので、お話しますが、私の3つ上の姉は3年ほど前、東京の公団住宅でひとり亡くなっていました。(病名は統合失調症です。) 発見が遅れ(死後2ヶ月)腐乱状態のあまりの酷さに、警察の方も本人確認を躊躇されたほどです。(きちんと目に収めて来ましたが) 彼女は幻聴・過度の被害者妄想・対人恐怖等の症状にかなり苦んだようですので、私は死んで楽になって良かったのだ、と思っています。(実際に私自身も、生き地獄にいるようなものなのです。) 私の病名はまた違いますが、遺伝性等の懸念、そしてもうすぐ姉が亡くなった年齢を迎えます。 私が何よりも怖いのは「自分が自分でなくなってしまう事」「自制心も何もかもがコントロールできなくなり、もしかしたら犯罪さえ犯してしまう危険性がある事」。 この不安がお分かりになりますか? ところで、kayoppe88さんが本当にお困りなのかも疑問に思います。
お礼
ご回答、ありがとう存じました。 わたしは、「うつ病」では、ありません。ただ周期的に「うつ状態」になりますく、パニック障害を持っています。(恐れ入りますが、理由は、前の方のお礼をご参照下さい。) わたしの叔父は、自殺しています。 最も、それ以前にわたしは、「自分では死なない」と自分に誓っていたのですが、人が命を絶つことには、少なからず触れています。 自分が自分では無くなりそうになったこともあります。 咄嗟に母を刺しそうになったこともあります。 しかし、わたしが、そんな経験あります、と並べても何にもならないのですが、kokunomiさんは、(推測しか出来ず、実感ではないのが申し訳ないのです)おそらく、その時のわたしよりお辛い筈です。 何故なら、わたしには理由がありましたから。自分を見失う理由があって、それを自己完結すれば良かったので。 それから、小学生の時は「消えたかった」ですが、少なくとも中学生の時は、「訴え」であったと思います。 それから、大人になってからは、自分の価値が全く失われたという強い思い込みが理由です。 確かに、過去長い間無視をされたので「こっちを向いて欲しい」気持ちは、人より強いと自分でも認めています。 そして、わたしが困っているかというと、肯定も否定もありません。ある面では、困っていますが、ある面では、困っていることも含めて恵まれています。 しかし、人は、幸せになれると、わたしは、思っています。 自分に幸せになると誓って、物事をくるくる回しながら、見方を変えれば、わたしは、幸せになれました。 今は、重い病気ではありませんが、医師に止められ、ほとんど家から出られません。 でも、こんなに家にいて長い間休めることは無かったので、これもお恵みと思います。 病気を理由に仕事をおわれましたが、わたしには、志があるので、良い勉強時間を貰ったと思います。 苛めにあったことも、世の中を外から観察する良い機会で、また人として沢山を学べた、かけがえのない経験です。わたしが、物書きを出来るのも彼等のお陰であることは、確かです。 困ったことも、皆、わたしには有難いことです。 わたしが、このスレッドを立てたのは、不幸自慢をしたかったからでも、幸せ自慢をしたかったからでも、はたまた、お説教をしたかったからでもありません。 ただ、わたしの話は、ただの資料に過ぎないのです。 ありがとう存じました。
お礼
おっしゃいる通り、わたしは、とても恵まれていると思います。かなり幸せな人なのだと思います。 (これは、あくまでも説明の為で、当時の相手を責めるものではありません。) だだ、まず小学~中学生の間、学年全体で苛めにあった為に、精神的に潔癖症なところがあり、また小さい頃「大人」を無理矢理やって来たのと、友人が全く居なかった為、人との関わりが苦手で、大人になって、不具合が生じているのは 確かです。後、遺伝的にセロトニンが造られにくい脳であるようです。 そういうわたしは、周期的にうつ状態になりやすく、パニック障害で、「うつ病」とは、違います。 それに自分なりに、自分の気持ちをコントロールすることを、少しづつ覚えました。ですから、今は、1番パニック障害が酷かった時とは違って、悲しみに飲み込まれないようになってきました。 沢山本も読んで、考え方が変わり、自分の状況を受け入れているつもりです。 (先日は、姉とけんかになって、突発的に感情が噴き出してしまった為に、ネガティブな方へ自分を引っ張ってしまいましたが。) だから、わたしは01901759さんの気持ちは、理解できます。 ただ、前述した理由から「そう出来ないこと」がありますが、理屈は解ります。 ちなみに、わたしの恐れを鎮めてくれたお話は、わたしも好きだけど、感情的になって忘れていた「万事、有り難し」のお話です。