そもそも動物には「死」という概念がありません。死(単純に言えば心臓の停止)の概念、「死んだら生き返らない」、「そこでその個体の生涯が終わってしまう」、「死んだものはもう食事したり考えたりすることはできない」、「その個体はいずれ腐敗して原形はなくなり、残されたものたちからは視覚的にも消滅する」などの事実は、人間だけが言語や記述、自考などで個々が理解しているのであって、動物が同じ概念をもっていると考えるのは無理があります。動物は、嫌がることをすれば不快に感じ、逃げたり攻撃したりし、またそれを学習して警戒行動をとったりはしますが、その延長線上に「死」というものがあることは想像できていません。もちろん痛覚のある動物は怪我をすれば痛いですし、痛いことがおきないように事故から学習したり、敵から逃げたり攻撃したりはしますが、外敵に襲われて、「これ以上に痛い思いをするかもしれない恐怖」はあっても、「これ以上攻撃をされつづければ死んでしまう、いわゆる[死の恐怖]」は概念そのものがないのです。肉食動物がエサとなる動物をとらえて食べているときも、「コイツは死んだな」とは思わず「コイツは動かなくなった。あ~食べやすい」に近い感覚で、さらにそこから「動物(エサ)は攻撃を続ければ動かなくなる。そして動かなくなったエサは再び動き出すことはないからゆっくり食べられる」ということまでは学習します。でもそこまでです。
人間は一般的に個体識別を視覚とコミニュケーションのみで行いますが、動物は他にも体温、体臭その他いろいろなファクターを総合し、個体識別を行っています。ですから生前と視覚的には変化がなくても他のファクターに大きな変化が出れば、(他の回答者様も書いておられますが)「アイツがいない!」となり、人間から見て視覚的に生前と同じ形の物体が転がっていても、それは「今まで一緒にいたアイツ」とは思わず、さらには「同じ種類の動物」という認識すらないことも多いと思います。
昔、ゴリラか何かの母親が死んだ子を何週間も抱き続け、なかばミイラ化したその個体に母乳を飲ませようとしたというニュースがあり、それに同情的なコメントをする報道も多く見られました。しかしそれは、人間と同じレベルで死を理解しているという前提のもとでの、人間側の一方的な考えであり、ゴリラはただ「死」が理解できていなかったからにすぎません。知能が高くなればなるほど、個体識別を視覚とコミニュケーションにウエートを置く傾向にありますから、こういう勘違いも起きるのでしょう。
それを集約すれば、たしかに「生きていくことに関係ないから」という考えはあながち間違えではないような気もしますが、、。
お礼
みなさま興味深いご見解をどうもありがとうございました。 腑に落ちました。