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霊感力って何の役にたつのでしょう?鍛えることができるのでしょうか?
私の血縁者は、霊的な力がある人が多いです。 ほとんど役に立たないのですが、いったい何のためにある力なんでしょう。もしくは鍛えることができるものなのでしょうか? 曽祖父は霊媒師でしたので役にたっていた唯一人です。 父は墓地の空気(?)と幼少のころは遊んでいたそうです。 母は霊道では霊にまとわりつかれてあまりいい思いをしません。 弟は霊が見えます。霊的なものも見えますが、何かとつれてきたり誘われたり、メリットはありません。 私は15歳から10年ほどタロット占いを趣味でやっていましたが、占ってもらう人の話を聞かなくても、「ああそうか」とわかってしまう時期がありました。 つい先日猫がいなくなったとき、家族が何時間も探しまわっていたのに、家に帰ったらなんとなく「ああ、あそこにいる」と猫の居場所を確信し、そのとおりでした。このようなことは日常よくあります。 はじめての道の先に何があるかがわかることもあります。 (でも地図が読めないすごい方向音痴ですが) 霊関係はなんとなくくらいしか感じません。 鍛えることができるのか?と聞いておきながら何なんですが、 鍛えたいか?といわれると、う~ん、どうかな、わりとどちらでもいいという気持ちです。 こういう方は少なくないと思いますが、何故このような役に立たない力(?)があると思いますか? また、同じような方はその力に対してどう感じていますか?素朴な疑問なのです。
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こんにちは。 >私の血縁者は、霊的な力がある人が多いです。 ご質問者さんの家系や家族は、本当に、それだけで済んでいるのですか? 理由は、そういう霊感の持つ人がいる家系というのは、常に、精神疾患が深まる不安を抱えていかなくてはならないと思うからです。ある程度の年齢(30代前半)になるまでに統合失調症の発症や、中年以降は、うつ病や若年性痴呆の問題があります。 心理学者のユングの伝記にも出てきますが、彼も彼の母や母方の人間は霊能力者であったと聞きますが、中には精神病を病んでいた者もいたそうです。ユング自身も精神疾患を持っていたといわれます。 精神疾患と霊能力は表裏一体であることを忘れてはならないと思います。家族や家系に霊感がある傾向があれば、あまり楽観的にはなれません。私は、多少でも精神医学に知識がありますから、薬物も使わないのに、何かがみえたり聞こえたりすれば、心の病を疑います。また、低周波振動が脳に与える影響も考えます。これは、科学雑誌の『Quark』にも昔掲載されていたと思います。私自身は、そうした感覚を仮に自分の上におきても、それを全面的に肯定しません。さしずめユングなら、仮に幻視や夢であっても、現実とのシンクロシニシティ(共時性)*や必然性を問うことだろうとは思います。 *「シンクロシニシティ……偶然に起きた事象から、必然的な要素や意味が見出させれるもの」 日本では、いくつか新興宗教団体の教祖たちで、精神疾患の症状に悩まされていた人たちがいますが、あまり表ざたにはなっていません。 一応、そういう能力を高めるには、外界(がいかい)との遮断という方法が一般的です。山の中に入るとか、古くは六角堂にこもるとか、瞑想もあります。禅、気功、ヨガなどもありますが、きちんとした指導者がいればよいのですが、あまり一人ですべきではないと思います。そのまま、調子が悪くなって、精神科に通う人もいるようです。 ただ、私は、人は死んだら、一応、それはそれで終わりだと思っています。人類の歴史は、4~500万年の中で、日本の縄文時代から、長くて1~2万年、弥生時代になってから、3,000年です。私たちの歴史は、精神文化は弥生時代からの延長だそうですが、霊に対する感覚も、その精神文化に含まれるそうです。仏教が入っても、日本人の本質的な精神文化は変わらなかったとも聞きます。 しかし、霊があったとしても、私たちの文明が終わったら、それまでだと思います。つまり、私たち自身を含めて「流転輪廻の幻影」でしかないと思います。ブラッドベリの『火星年代記』に出てくる、火星人の幽霊のようなもので、幽霊が出てきても、次の文明や人々には何の意味もなくなってしまいます。ホーキングという科学者が言うには、私たち人類(homo sapiens)は、後1,000年程度しか寿命がないともいいます。また、私たちの人類とは別の人類も数万年前まで生きていたといわれます。彼らの魂はどこに行ってしまったのでしょうか。私たちの前に、すでに種の終わりを経験している人たちもいるわけです。私たちは、彼らを感ずることはできません。残るものは、その骨だけしかありません。しかし、彼らと、私たちとどれほど違うのでしょうか。 「人の死は一定(いちじょう)」だと思います。「生」はかけがいのない価値を持ったもので、肉体がなくなった後の死後の意味を見出す必要があるとも思いません。単に、そう信じるだけなのだと思います。私たちが、残せられるものは、次の子孫の継続と幸福を願い、生きている間に、あれこれとするだけです。仮に、霊界の世界があったとしても、本質的に、どんな結びつきがあるでしょうか。霊の助力があったとしても、それは、生きている私たちの中にあるものでしかないと思います。メディアで語られる特殊な力は、私たちの記憶に残る幻影のかけらにしか過ぎないのではないでしょうか。霊感があったとしても、なかったとしても、本質的な人間の「生」に対し、ほとんど関係ないような気がします。 ところで、私は、能力がある・なしに関わらず、霊性(Inwardness)そのものを養うことをお勧めしたいです。世界的に有名な小説や古典を読んだり、名画や名曲を親しんだらどうかと思います。人類の残した芸術こそは、私たちの霊性を高めることになるのだろうと思うのです。それが、私たちの文明の一部だからです。日本では、鎌倉時代は、日本的な霊性が開花した時代だといわれます。確かに、傑出した芸術品や思想家などが出ています。しかし、それだけではありません。現代でも、霊性自身を高めるものは一杯あります。お金を払って、偉い先生の講演や難しい霊界の理論を聞かなくても、大いなる自然に触れるだけでも、私たちの世界の無常観と、自分の「生」を感ずることができるのではないでしょうか。そして、「わたし」は、その無常の中で生きている瞬間の喜びを感じられるのではないでしょうか。芸術との出会いも、それと同様な感覚なのだと思います。そういうもので十分なような気がしてなりません。
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- koudoukun
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霊感というのはその字の示すように「霊を感じる」ということです。霊感があるというのは霊を感じることができるということです。 余談ですが、霊をみる能力を「霊視」能力といい、霊を呼び寄せる能力を「召霊」能力などといいます。ですから、単に「霊能力がある」といってもどのような霊能力なのかを見極める必要があります。 曽祖父の方が霊媒師だったということですので、霊を呼び寄せることのできる「召霊」の力を持っていたのでしょう。 霊能力があるというのと直観力が鋭いというのとは全く別のことです。また、透視能力などの謂わゆる超能力とも異なるものです。霊能力というのは実際に霊の姿を見、霊の声を聞き、更には霊を呼び寄せて周囲の人にも見せることのできる能力です。直観力というのは、思考を介することなく答えを見つけ出す能力です。直観力も超能力の一つです。 また、「霊」といってもいろいろあります。神霊などの謂わゆる霊格の高い霊、冥土の人霊(謂わゆる成仏した霊)、亡者のような不成仏霊、動物霊等々です。他にも種々ありますがよく知られているのはこれらの四つでしょう。 ここで重要なのは、どのレベルの霊を見たりすることができるのかということです。高いレベルの霊を見たりするには能力者自身が高いレベルの能力を持っていなければならないと言うことです。霊能力者のレベルに応じた霊しか見たりすることができないからです。例えば、背の低い人は背丈よりも少し高い台の上にあるものは見えませんが、その台よりも目線が上に出る人は台の上にあるものを見ることができるのと同じなのです。 霊能力が役に立たないことはありません。能力の使い方を知らすに充分に使いこなせていないだけのことです。 霊能力を鍛えるというかトレーニングをして強め高めることができますし、適宜の方法で別の霊能力を持つこともできます。 世間には霊能力を金銭と引き替えにして使うのは間違っているとか邪道であるとか言う人もいるようですが、その力を使って生業とする限りは能力を使う代価として金銭をとるのは当然です。 ただ、世の中には多くの人が見えないのをいいことに、その能力もないのにさも霊が見えたりするような詐言を言って金銭を得ている人がいますが、そうした人には神罰仏罰が下されるでしょう。 霊能力と謂わゆる超能力との違いを認識して、自分はどの能力なのかということを弁えることが大切です。その上で霊能力なり超能力なりの能力を高めたり強くしたりするトレーニングをすればいいでしょう。そして、その能力を必要としている人々の為に正当な代価を以て使えばいいのです。 霊能力や超能力を使うことを卑屈に感じる必要はないのです。人々から感謝をされ喜ばれ尊敬される人格者となり、その上で霊能力なりの力を体現することが望まれます。
お礼
回答ありがとうございます。 >「曽祖父の方が霊媒師だったということですので、霊を呼び寄せることのできる「召霊」の力を持っていたのでしょう」 はい、そうみたいです。人形に降霊させて何かをしていたようです。 >「霊をみる能力を「霊視」能力といい」 両親と弟はこれですね。 >「直観力というのは、思考を介することなく答えを見つけ出す能力です。直観力も超能力の一つです。」 私の場合は超能力の方なんですね。 >「霊能力や超能力を使うことを卑屈に感じる必要はないのです。」 ありがとうございます。自分で自分を気持ち悪いなと感じることがあるのですが、気にしなくて良いんですね。 とても肯定的に理解できました。ありがとうございます。
- s_daiho
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●霊感がある理由 利益優先の物質経済主義、人間死んだら終わりという考えが蔓延した中にあって、あなたは、<それは違いますよ>と言うことができます。霊感があるのは、それが言えるためだけではないでしょうか。霊は存在する、つまりあの世があり、死はすべてのおわりではないと言えること。そのためにあるのだと思います。霊感を使って占いや、その関係のお仕事は、自分はよくないと思います。 ●霊感の主導権を持っているのは霊です。 霊でも、きちんとした霊は、その人間の利益になることを与えません。社会全体の利益になるために、霊感は与えられるものです。また、霊もそのような人間に霊感を与えようとされていると思います。自分の利益、金儲けなどに霊感を使うのは、とても低い霊と通じると思います。 ●霊感を鍛える方法。 ご自分が本当にしたい仕事の専門的な知識や経験を積むこと。知らない間にそこに霊感が降ります。霊感とわからないくらい自然に降りるものだと思います。古今東西、偉人といわれる方々の人生は霊感は満ちています。 それがとても自然なカタチで与えられるようです。 自分の人生のお仕事(使命)を見つけれることが何よりの霊感であり、その道を歩むことが霊感を鍛える道。世のため、人のためにどうか私をお使いください。と、祈ることが最高の霊感であり、そう祈り続け、周囲の人々の心の声を聞き、仕事をすることが霊感を鍛える道だと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 とても納得がいきましたし、なんだか回答に感動しました。 使命とは、なんて考えたことがありませんが、 私が出会う人たちが、喜び多い人生であるように、 できる限りの形の無い贈り物ができたら、素敵だなぁと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 現代の社会現象といわれるレベルのことは多少あっても、 精神疾患といわれるほどの問題はなく、良かったです。 すべての物事を、人は個人の精神世界というフィルターを通してしか感じ取ることができないので、そのフィルターが個人の経験だけでなく、その経験値をためる記憶装置(脳)自体が、遺伝子によって受け継がれているので、 霊を実在とする考え方を否定する言い方をするなら、幻影を見ているといえるかもしれません。 私は輪廻転生を信じている方なので、大昔からの人のつながりを意識してしまうのですが、生物学的には人以前とも、無生物ともつながっているのですから、輪廻転生という考え方は文化の一つですよね。 霊性を高めるというのはすばらしい考えです。 私たちの世界の無常観と、自分の「生」を感ずるという感覚はなんとなくわかる気がします。 私は自然に対してものすごく感慨を覚える人なので、四季の移ろいをとても愛しています。 芸術にはまだ心が開かれていないのですが、新しい出会いを期待してみたい気持ちになりました。