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学習とノート
小学校、中学校の時によく「ノート提出」と称して(そのまんまですが)ノートの提出をさせられました。悪筆ではだめで、とにかくきれいな字で書かなければならず、たくさん書いてなければならず、なかにはページの左半分は予習、右半分は復習のようなものすごく教師の個人的というか自分勝手なやり方としか思えない方法を押し付けられて、大人になった今でも思い出すたびに頭にきてます。 学習方法は人それぞれだと思いますが、私はノートをとることが大嫌いです。めんどくさいというか教科書に書いてあることをあえてノートに書く必要性の疑問を感じます。参考書を出版するわけじゃない!と強く主張したいです。メモは否定してるわけではありません。また、”趣味で”ならばノートを綺麗にとるというのもひとつの手だとは思います (私はいやです。めんどくさい!) 書いて覚えるというのもあると思いますが、そんなの新聞チラシの裏で十分で、悪筆でも本人が読めればよいとしか思えません。 無駄なノート作成に消耗しまくった小・中学生時代だったと思います。 ちなみに全国でもトップクラスの低学力地域とされてまして地域性というか学校教師は聖人で絶対だとされてました。逆らうとほとんど人民裁判みたいのにさらされました(今はわかりません)もし異議がございましたら今後の学習方法に役立てるという意味もありますので、ご意見よろしくお願いします。
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同じことをかんがえていました。2、3年前まで、 40代になって刺激的なノートを見ました。上司が教育に使っていた資料なのですが、実は大学時代のノートだそうです(30年以上前)それが今でも一線級の技術資料として役に立つのだからびっくりです。 自分でもがんばってみましたが、知力体力を大きく消耗し、業務のノートをとるのはかなり疲労感がたまりますが、2,3ヶ月あとに振り返ることもできるようになってきました。(まだまだ、シンプルではあって、とても一線級の技術資料とはいえませんが) その直後ぐらいに東大生のノートという書籍が発売され、たしかにノートというのは人生の最高の参考書になる可能性を秘めているな、と思いました。また、なかには自分のノートをコピーしたらそのまま報告資料になるという昔の同僚もいました。 しかしながら、そのレベルに達する人はごく稀なので一般的にはノートなんて適当でよいというのは正解でしょう。
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- never-ness
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学校時代の嫌な思い出は優等生でなければそれこそ人の数ほどあるでしょうね。お気持ちわかりますな。 学校教育の基本は今でこそ「個性を伸ばす」などと一般受けするようなことを言ったりしていますが、基本は「型に嵌める」です。カリキュラムは国が決めます。現場の教師は年間カリキュラムに沿って時間配分しそれぞれの教育目標が効果的に生徒に理解できるように授業を組み立てているだけです。 おっしゃるところの「提出ノート」なる課題は現在でも連綿と続けられています。課題を出す側は「家庭学習の定着」を狙っているようです。この取り扱いに決まりはなくかなり指導者の好みが反映されます。「きれいな字で書け」から始まる使用法への注文は「指導の名」のもとにされますし、批判能力を養われていない生徒本人は苦痛であってもそれに従わざるを得ません。ま、程度問題でしょうけど。 国民の三大義務に「義務教育を受けさせる」というものがありますから、こいった強制力のある場では「従う」しかないという現実があります。 ですからこの一種の「強制」への嫌な思いや(もしかしたらトラウマ?)反発は多かれ少なかれ誰しもあると思います。 これは人生論風になって「語るに落ち」ますが、過去は消えませんから質問者さんの心の中で「適当な形」で収めておくしかないのかもしれません。 また、逆にご自分が指導者になったときにはどうしますか。上司から「ノート提出」の指導を命令されたら、どうせやるのだから将来役に立つようにとある程度の型に嵌めるようにはならないでしょうか。つまり「良かれと思い」その「善意」を押し付ける。今回お示しの例はその「典型」だという気がします。要は指導者が「指導者であるという特権的立場」を意識しつつ、指導される生徒の「理解と納得」を得る過程をすっとばして、「命じていればいい」という楽な方途を選んだということです。質問者さんの気持ちを汲めない指導者だった、その程度だったということですね。 >私はいやです。めんどくさい! それで毎日に支障がでなければいいですよ。 いい先生もいればその反対もいると考えてはどうでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。今の「個性を伸ばす」は、なんだかよくわかりませんでした。 ご指摘のとおりトラウマです。ただ、極端にひどかったと思います。 小学校のある担任教諭は太平洋戦争の勃発の原因はアメリカの領土が欲しかったからだ・・といえる発言をしてました。はっきりいってバカですね。唖然としました。バカに(強制的な)教育されるくらい不幸なことはないと思います。首都圏には魅力的な私立の学校がたくさんあってうらやましい限りです。なかには偏差値ひくいですが、あこがれの高校があります。すべりどめ校だそうですが。うらやましい・・です。 最後のご指摘のとおり「いい先生」もおりました。高校の化学の授業 は今思うとすばらしかったのに私立文系志望だったので授業中に他の教科を学習していて赤点だったのは私のふかくと致すところでした。 ありがとうございます。
補足
補足です。小学校のある担任の教諭が太平洋戦争勃発の原因でアメリカの領土がほしかったからとの件ですが、アメリカ本土のことです。 日本はせまいので広い領土がほしかったから・・とのことです。 旧ソ連の方との交流があったみたいです。自称、元特攻隊員って言ってたような気がします(ここのところは私の記憶があいまいですが) 毎日の自宅学習でノート提出を強要されました。それも長時間、つまり膨大なノートのページを埋めるということです。当時はそれまで図書館が大好きで本をよく読んでいたのが、結果、図書館に行くことが困難になり 無意味にノートになにか書いてました。つまり本を読む機会が失われたのです。ちなみに家康に惚れてまして(ホモじゃないですよ!)小学生にしてはマニアックでした。歴史の授業はバカバカしかったです。でも現在それ以上の進歩はありません。
質問者さんは大人といっても高校生か大学生でしょうか? でしたら社会人になれば分かりますよ、他人に見せる前提のものの書き方が以下に重要かって。 企画書・報告書・プレゼン等、見せる前提に物を書くことが日常的にあります。 そのときにチラシ(会社だとコピー用紙か?)裏で十分とか悪筆でも本人が読めればよいとか言ったらやはり上司にどなられますよ。 そうならないよう、他人に見せる前提のものの書き方ってのを学ぶのがノートをとるということなのです。
お礼
ご回答ありがとうございます。社会人です。現代はパソコンがあるのと、企画書・報告書・プレゼン等は小中学校の学習におけるノート云々とは全く別次元と私は思っております。場合によってはプレゼンテーションのソフトを使用するなど、それなりの手引書を読むとか、それに応じた書き方や社会一般常識のルールを周知する必要があると思います。 他人に見せる前提ならば例えば履歴書は履歴書の書き方の本を片手にめんどくさいと心で思いつつも時間をかけて丁寧に”手書き”で書いております。職務経歴書はワードですが書式は絶対的なルールはないので 採用担当官にうけるように研究をしています。 ノートは人に見せるという前提というのが、私にとっては理解できないです。でも大学で講義をさぼって出席しない同級生に対して販売を目的というか、出版の感覚でならば力をいれます。「石田の経済原論攻略!」とか「試験に出る世界史!」といったようなタイトルをつけて・・です。もちろん有料で。
お礼
ご回答ありがとうございます。刺激的なノート・・こういうこともあるんですね。そういえば大学時代に受けた旧ソ連の物流の実情で、商社勤務の先生が商社マンとしての視点での講義がありましたが、ちまたの本とかに書いてあるようなことではなく、これはノートとっとりました。今はないですが、貴重な証言の数々だったので、処分したのは惜しいことだと思います。 東大生のノート・・たぶん受験参考書コーナーでみたことがあります。 どのような内容だったかは記憶がございません。 受験参考書コーナーにある受験テクニック?の本では和田秀樹先生を尊敬しております。多少反論(というかつっっこみ)もありますが。 ありがとうございます。