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政教分離の刷り込み(洗脳)について

政教分離と 無条件に言い続ける人が大変多いですが、教科書で習ったこと自体が、刷り込み(洗脳)であるとおもわれます。 宗教=悪 政教分離=善 は、単純すぎると思うのですが.... ドイツでは戦争でキリスト教が反戦側に廻ったのでメインの政党はキリスト教社会民主党(?正確な名前は忘れました。)です。 ドイツに行っても政教分離違反です。というのでしょうか。現代日本だけのきわめてローカルな刷り込みだと思うのですが。 平安時代の前、聖徳太子は仏教を政治に取り入れようとして、やはり反対勢力があり、大化の改新で仏教推進派は、仏教反対派を殺してしまうという政変をおこしています。結果的に国は平和で豊かな時代が長くその後つづいたのは誰もがしるところです。 特定の政党はどうこうは思ってませんが、学会はやはり変だとはおもっています。 最初に戻って、政教分離、政教分離と連呼する皆さんは、幼少のときから、そういう概念をしっている訳でもないので、社会の左翼教科書、等の刷り込みにあっていると自分で思わないのでしょうか。

みんなの回答

  • ueda21
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回答No.5

>政教分離と 無条件に言い続ける人が大変多いですが、教科書で習ったこと自体が、刷り込み(洗脳)であるとおもわれます。 教育は刷り込みですが宗教も同じ洗脳をしますよ。母体が違うだけ >宗教=悪 政教分離=善 は、単純すぎると思うのですが.... そんな人もいるかもしれないですが、宗教が政治に関与すると中世のヨーロッパとか中東のイスラムの一部の国とか独裁色が増えます。これが民主主義の国家としていかがなものかということでしょう。宗教が国家権力の中枢で前面に出てくると独裁色が強まり他の宗教を弾圧したりとかありましたから・・・ それにオーム真理教という集団もいましたね 国家がある宗教を保護したり排除することも良くないですよね。 これも政教分離の意味があります。 これがあるからmoconyan99さんが信じている宗教が政治に参加しようとして立候補者だしても政府から排除されないでしょ >最初に戻って、政教分離、政教分離と連呼する皆さんは、幼少のときから、そういう概念をしっている訳でもないので、社会の左翼教科書、等の刷り込みにあっていると自分で思わないのでしょうか。 それは歴史のなかでの民主主義の社会の知恵として学んでいると思います。

moconyan99
質問者

お礼

ご自分が洗脳されてないという自信と自分自身の思考が特に毎日の暮らしでうまく機能している、自分は偉大なる常識人であるなら、特に私等から何も言及することは、ございません。 ご意見ありがとうございます。

moconyan99
質問者

補足

・司祭一致の例 ・政教分離の例 をあげ、どちらも一長一短ではないか?との問いかけであり、政教分離が最高峰の考えであるとの立場に傾きすぎてませんか?との投げかけになっているものです。実際。後者の立場を無条件で信じ込んでいる人だらけではないでしょうか。

noname#111050
noname#111050
回答No.4

ドイツよりも、平安時代よりも、64年前以前の日本が大きいのではないでしょうか。神のために、神を疑うことなく、多くの血が流されました。政治に宗教が、特に新興宗教が関与すべきではないと思います。神は間違いを犯しませんが、神仏の名を借りた人間は過ちを犯しますから。宗教が関与すればするほど、日本人は、今よりもさらにMになって行ってしまいます。

moconyan99
質問者

お礼

大戦で負けたトラウマのことだと思います。 何にでも、時効というわけではありませんが、もういいのではないのでしょうか。いつまで引きずっているのでしょう。もう、中道程度にもどしてもいいのでは。 実際、もうアメリカは日本を守ってくれません。自国防衛のための軍隊は、専守防衛にて持っていいでしょう。自衛隊法はあまりに欠陥があります。給油すら、法律をそのつど作らなければできたりできなかったり、するのです。 ・これこれ、これだけのことはしてはいけない(他国の侵略は禁止である。)等、ガイドラインを決めれば自由に国防軍にやらせていいのでは。

回答No.3

 回答者の間違いを指摘しておきます。 >ドイツでは戦争でキリスト教が反戦側に廻ったのでメインの政党はキリスト教社会民主党(?正確な名前は忘れました。)です。  ドイツ国民ならば、ドイツ通史、現代ドイツ史から、SPD(ドイツ社会民主党)をメイン政党と回答する人が圧倒的多いでしょう。   これは、戦前・戦後通じての議席数動向からして、概ねのドイツ人は否定しないでしょう。といっても、多数の政党が乱立しているのがドイツのモデルですが・・・・  当然ですが、政教分離違反などはなりえません。そもそも、ドイツの政教分離も制度論的なものに過ぎません。  さて、実は政教分離原則はベクトルとして二つの方向性があります。 ”政治が宗教に介入する”こと、は、「信教の自由」を侵す意見行為です。従って、靖国の公人参拝は違憲性があります。 ”宗教が政治に介入する”ことは、違憲性はないと司法判断されています。  ところで、日本において”宗教が政治に介入する”ことを忌諱したのは、過去の歴史的事例と、フランス革命の歴史観によって説明できそうです。  例えば、『道鏡』の政治的混乱は、聖職者が政治介入したと解することができます。ここの事例から、政教分離の考えが別途に作られた経緯があるかもしれません。  同時に、フランス革命において、聖職者の特権はく奪という革命思考が近代概念として染み付いた部分もあります。  聖職者が政治介入する政治を旧態依然とした古い悪習と考えるのは、フランス革命の歴史観から導き出すことも可能です。  同時に「市民」=シビリアン(文民)から、軍人・聖職者が排斥されることも実は重要な政教分離の発想でもあります。 これは、文民統制という言葉は別個に考えることもあります。  最終的に、日本で政教分離論争では、綿貫国民新党代表への問題提起が行われていないのが一番の問題点でしょう。  綿貫氏は、神職としての階位(浄階)を持つ聖職者であり、宗教関係者です。しかも、より直接的な宗教関係者ですから、創価学会などよりは、政治と宗教の関係性が強いのは言うまでもないでしょう。  しかし、綿貫氏については政教分離の見地では問題にされていません。 ここらが日本の政教分離批判の整合性・論理的妥当性の問題点とも言えます。  概念的理解すら論理的に形成できない政教分離論者を気にする必要性はないでしょう。  彼らは都合倫理でしかないのですから、単なる卑怯者と見ればいいだけでしょう。  フェアではない審判に論理を追及しても無意味です。

  • free_777
  • ベストアンサー率42% (56/133)
回答No.2

 私の場合は、刷り込みとかではなくて、思想の上で政治に宗教が関わるべきではないと思っています。政治的な公的空間に影響を与えるべきではなく、あくまでも私的な空間で宗教的な自由が認められるべきものであり、国家は、全ての宗教に中立的であるべきであると考えています。  フランスでは、ライシテの原則がありますね。あと今年、日本でこういう問題がありましたね。 以下は、第171回国会 衆議院予算委員会の民主党の菅直人氏の質問です。 > ○菅(直)委員 多少はわかっているという意味ではほっとしました。それもわからないで財務大臣をやられたら困りますからね。 >  この議論はさらに同僚議員が続けると思いますが、少なくとも、まともな政策議論をしようということで修正案を出し、そして修正で減額した二兆円を、 > 同じ財投特会に残るわけですから、それをこう使ったらどうですかと言っても、結局はまともな答弁すらできないということを申し上げて、次の問題に移ります。 >  総理、十月十七日に私は、この予算委員会で、オウム真理教と真理党の関係について質問をいたしました。そして、内閣法制局長官からの答弁をいただきました。 > その後、どうも私の質問なり答弁について、公明党の皆さんが激怒したなんという報道もありまして、新聞報道によれば、その日に、太田代表と北側幹事長が > 内閣法制局の幹部を呼び出したと。翌日の予算委員会では、富田委員がこの場で質問をした。そして、その後、山口那津男議員が参議院で撤回せよという質問をされております。 > しかし、予算委員会では、法制局長官は撤回という言葉は一度も使われておりません。 >  それなのに、十二月の二十四日の閣議決定、いいですか、閣議というのは最高決定機関ですからね。閣議決定で、この内容を、少なくとも、どの部分かというのは > 表現上はややこしいですが、撤回するということを閣議決定されましたね、総理。 >  この閣議決定というのは、内閣の全員がサインをされているはずです。法制局長官はサインをする必要がありませんし、していません。ですから、これだけは、閣議決定ということですから、 > 決定をされた方にお聞きします。どういう理由で撤回という答弁を閣議決定されたんですか。 > ○河村国務大臣 お答え申し上げます。 >  御指摘の答弁書でございますが、山口議員からの質問主意書に答えたものであります。 >  内閣法制局でも検討をした結果、平成二十年十月七日の衆議院予算委員会で、菅議員に対する内閣法制局長官の答弁には、憲法の定める政教分離の原則に関して誤解を与え、 > 従来の政府の見解を変更したともとられかねない、こういう部分があるという考えに至ったものでありますから、当該部分について、「内閣法制局として、撤回させていただきたい。」 > このように答弁したわけでございます。閣議においても、そのような内容について、責任を持ってこれを了承したわけでございます。 >  なお、この署名につきましては、既に御案内かと思いますが、事務の簡素化、こういうこともございまして、内閣総理大臣が閣僚を代表して署名することになっております。内閣の責任でありますから、 > 私も署名をさせていただいておりますが、質問主意書については、菅先生が大臣のころからそのような仕組みになっておるところであります。 > ○菅(直)委員 十月七日の質問ですよね、私の。(河村国務大臣「そうです、十月七日ですね」と呼ぶ) >  これはどういうことかというと、少しわかりやすく言いますと、私が十月七日の本院の予算委員会で質問したのは、オウム真理教という、麻原彰晃教祖が党首として真理党という党をつくって、 > 二十五人の衆議院候補を出して、東京などを中心に戦ったときがある。幸いにして、有権者が一人も当選をさせなかった。そこで、大勢の人が例えば当選して、内閣に入って、その内閣がオウム > 真理教の教えなどを広げるような行動をその権限でやった場合は違反になりますよねと言ったら、そういう場合には憲法違反になりますという答弁だったわけです。 >  問題は、この中身そのものもありますけれども、それ以上に、なぜ公明党がこれだけ躍起になって、私は質問の中では公明党のコの字も言っていませんよ、創価学会のソの字も言っていませんよ、 > それなのに、なぜ公明党の代表や幹事長が呼び出したり、あるいは衆参の議員が質問したりするんでしょうか。 >  同時に、斉藤さんに申しわけないけれどもお聞きしますけれども、あなたは、亀井静香さんが本院で矢野さんとの裁判について何か話をしたときに、特にあなたに質問が行っているわけでもないの > に手を挙げて、創価学会と矢野さんとの裁判はこういうふうになっていますということを説明されましたよね。環境大臣というのは、何か創価学会と矢野さんとのトラブルについてここで説明しな > きゃいけない立場なんですか。もちろん、聞かれた場合は仕方ないですよ。 >  つまり、どういうことなのか。つまりは、公明党というのは、みずから認められているように、創価学会が最大の支持母体。人によっては創価学会の丸抱えだという見方もあります。そうすると、その創価学会が公明党を使って閣議決定に圧力をかけたとすれば、そのこと自体が憲法二十条で言う政教分離に反する行動になる、私はそう思いますが、総理大臣、いかがですか。 ■第171回国会 予算委員会 第3号平成二十一年一月八日(木曜日) http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/171/0018/17101080018003c.html

  • wiz0621
  • ベストアンサー率42% (182/430)
回答No.1

もちろん宗教家が政治家に立候補すること自体は問題ありません。 これは日本国憲法を定めるための帝国議会でも話し合われた内容で、 要するに宗教的な政治を行わなければいいんです。 第一、立候補しても選挙民が選ばなければ政治家には なれませんからね。 その上で、だから宗教政治も良い、というのは逆の方向で単純です。 質問者さんの挙げられた例について数点指摘したいと思います。 まず、確かにキリスト教民主同盟(CDU)は、メインの政党のひとつ と言ってもいい勢力を持っていると思います。 一方で、ドイツと日本の歴史は当然ながら違います。 アメリカ的な発想で作られた日本国憲法とドイツの憲法 の発想は大きく異なる部分があるんです。 実はドイツ憲法には"忠誠義務"というものがあり、国民みんなが 憲法を守らなければいけません。そして、ドイツ憲法には 自由主義と民主主義を守る、という趣旨のことが書かれており これを否定する団体は即、『非合法組織』となります。 また、権力者がそういったことを行うのならば、国民は抵抗できる ことも定められています。 一方、日本国憲法でその義務を定められているのは 天皇・摂政・国会議員・裁判官そして公務員のみですし、 もっと積極的に思想の自由を認めているので、破壊活動さえしなければ 民主主義の否定や、あるいは自由主義に反する集団でも存在を とりあえず認めています。この時点で同じにはできませんよね。 次に古代日本の法と宗教のかかわりについて。 本当に、聖徳太子(最近では実在が疑問視されているらしいですが) 後の治世は"すばらしいもの"だったんでしょうか? 貴族階級と等しくなった僧達が『信じなければ死後に不幸になるぞ、 国が滅びるぞ』と政権を脅迫し、民衆に奴隷的な苦役で黄金を あしらったきらびやかな寺社仏閣を建立させる。 私の目にはこれが平和で豊かであるとはどうしても思えません。 確かに僧と貴族は豊かに長生きしたかもしれませんが、 そこには常に飢餓と戦乱に苦しむ民衆が居たのです。 現代であっても、もちろん寺社仏閣がそこにあるだけで幸福である という人も居るでしょう。ですが、別の宗教の人から見ればそれは それは正しくない認識となるのです。 それが巨大なキリスト像であっても、あるいはマンガ博物館であっても "無駄"と感じる人はいるわけですよね。 同様に"宗教教育"もダメです。 毎日仏像に拝みなさい、という教育をしても世の中には 一方ではただの像(偶像)を拝むなんて何事だ!という宗教や 祈りの時間を競ってはならない!という宗教もあるんです。 質問者さんの指摘どおり、幼少からの刷り込み、すなわち教育がもたらす 効果というのは絶大です。ある宗教を行うことは、別の宗教を侵害 することになる。ここに"信教の自由"の原則が守れなくなってしまうんです。

moconyan99
質問者

お礼

ありがとうございます。