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物なんか要らない という境地
- 自然や宗教によって心が満たされている人達は、物に対しての執着がないようです。
- 一方、心が満たされている人でも物欲はある場合がありますが、心の満たされ方と物欲の関連性は明確ではありません。
- 自分自身が物に対しての欲求を持っている場合でも、自然や宗教に触れることで物を必要としなくなる境地に至る可能性があります。
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高樹沙耶さんたちの例は、大変興味深いです。 私も、その番組見たかったです。 >「自然」「宗教」等に触れる事によって、物欲が無くなるのですか? >心が満たされているから、物なんて必要なくなるのでしょうか? 軽い解脱状態?になるのかしら。煩悩がなくなっていく?? これは、自分で実践しないとわからないものなのでしょう。 私も体験して実感してみたいです。でも、誰でもってわけじゃないのかな… 経験者じゃないとそうそう言い切れるものではないのかもしれません。 >A以外でも、日常生活で心が満たされている(幸せと感じている)人っていますね。 >【例】好きな仕事をして満たされている、結婚生活で満たされている等 >しかし、そういう人達はAの様に「物欲がない」という事はないですよね。 >満たされていると本人は思っていても、実は違うのでしょうか… まさに今の私、ほどほどに満たされています。極端な物欲はないです。 >可愛い物を見ると買ってしまったり、 >安くて可愛い服が売ってると つい見てしまったり、 これなんかは普通にありますが、物欲があると言うほどのものではないかと。 こういう人たちは、物欲も執着もほどほどになるのでは? 欲しいと思うけど、絶対に手放したくないというのはモノの中にはない気がします。 ほどほどっていうのがポイントですが。 本当に心が満たされていないような状況だと、 モノがあるだけで安心する(逆にモノがないと不安)とか そういう心境なのかなと思います。 自分に価値が見出せないのでモノで埋め合わせみたいな~。 分不相応なものを欲しがるとか。 コレクションなどは、おそらく性格的なものもあるのかしらと思いますが。 ある程度満たされている人って(自分自身でそう感じている人) 割と、こだわりがあんまりない人だと思います。 何かにこだわるとそれ以外は許せない→満たされない モノについても、あってもいいけどなくてもいいや位の感じなので、 物欲が薄いことに繋がってくるのかなぁ。
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- miffyco
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こんにちは。高樹沙耶さんのTV私も見ました。 私は「心が満たされる」と「物欲がなくなる」とは関連していると思いますよ。 「欲」とは限りがないですよね。 それは時には生きるために必要な場合もあるけど、手に入れるとまた欲しくなる。 終わりがないですよね。 心が満たされる「満足」とは、「欲」異常に幸福感を自分に与えてくれる何かだと思います。 それは「欲」と違って、得ると消えてなくりまた欲しくなるという終わりがないものではなく、不変的なものと違ってどちらかと言えば絶対的なものなんじゃないかな?(わかりにくくてごめんなさい) 高樹沙耶さんの言っている意味とkaorin0216さんの言っている宗教家も、「自然」や「宗教」をきっかけに、今の自分に満足し、そして自分は幸せなんだと思えるようになったんではないでしょうか。 それは、決して物質的な物を得たときの喜びとは全然違うと言いたいのじゃないかな。 そしてやはり私も、物質では満足感は得られないと思っています。(趣味の物集めはまた違う次元かもしれませんが) 答えになってなかったらゴメンナサイ。
お礼
満足も程度によるのかもしれませんね。 たまに何泊か海や山に滞在し、その後都会に戻ってきても、 何日間かは心が満たされて満足感に浸っているかんじなんですが しばらくすると、また満たされない日々に戻ってしまいます。 物以外から得た満足感であっても、決して不変ではないなと感じたものですが、 自分の場合、満足の程度が低かったのかも知れませんね。
- overthisgraysky
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僕は人に比べてあまり物欲がないと思います。 でもそれは心が満たされているからではなく、実は引越しや旅行が多いからです。 引越しや旅行にお金を使ってしまって物がたくさん買えないってのもある気がしますが、それよりも、引越しや旅行を繰り返していると、本当に必要なものってそんなにないんだ、ってことに気付きます。 わずかなものしか持たないで長期間旅行してみると、ものなんかなくても自分は変わらず自分なんだってことが分かってきて、ものに対する執着は少しなくなりました。 僕はこれからもいろんなところで暮らしていきたいので、大切なものは自分の心の中にしまって、身軽にいろんなところに行きたいです。 とは言ってますが、本やCDやビデオなんかは大切にしていて、実家にもけっこう預けてあります。 かけがえのないものだし、いつかまた楽しみたいと思っているからです。 なんか多分kaorin0216さんの望んでるような方向とはずれたことを書いてしまったかもしれませんが、参考になれば幸いです。
お礼
私もそういう事思った事あります。 どんな環境にあっても、自分は自分なんですよね。 参考になりました。
ANO.#7のお礼に対して、補足いたします。 海の自然に触れた事で、物欲がなくなる、という事は、あらためて"無い"と断言いたします。 生まれながら、海の自然しか知らない人が、物欲のあふれる世界に来た時に、物欲を感じない、と言い切れますか?物欲から開放された人は、根底に物欲による物の氾濫を経験しているのです。物に満足できないほど、物にあふれて飽き飽きして、自分というものがそこには無い事に、気がついているのです。 宗教もそうです。物欲、性欲、食欲などが、そもそも人に備わっていなければ、対抗する手段をもたないのです。 物欲は、それを卒業する事に意味があるのであって、何も無いところから、物欲を否定する事はできません。 高木沙耶さんは、物欲がなくなっても、衣装を着ますよね。凡人以上の生活をしているはずです。 そういう人が、次の自分の生きる道として、わかったように言っているだけです。この物欲からの脱皮は、それ程人生で価値があると思われるという事です。 若い時分から、こういう感覚で生きている人もいます。知識欲旺盛、研究熱心、がり勉君もその一員だと思います。 私の会社の先輩で、アクアラング大好き人がいます。休みには潜りに行きます。彼は、時計とライターをコレクションしています。こういう事は、彼にとっては"こだわりたい"範疇の事なのだと思います。自然、宗教と物欲とは、かかわりが無い、そしてそれを言い分けにしているだけだと思います。
「自然」「宗教」によって心が満たされている・・・というより何かに没頭することで、他のことに目がいかなくなった・・・という意味ではないでしょうか?仕事が忙しく毎日午前様であれば、ファッションなどを買いに行く暇もないし、24時間仕事のことで頭が一杯になるので、物欲はなくなっていくでしょう。だから自然・宗教が原因で・・・とは一概に言えないのでは?私の場合は、会社の業績悪化により、以前より物欲はかなりなくなりました。必要に迫られて・・・と言う感じですが。
お礼
それはまた別の次元の問題だと思います。 もちろん、そういうこともよくある事ですよね。
物について、考えた時、ご質問に出てくる物とは、"必要以上の物"という事た゜゛と思います。 こういう物の、数を集める事、より高いものを求める事、価値に対して執着している事を"物欲"と言うのではないかなぁ、と思います。 ●高樹沙耶の言葉 の中の服や宝石がそうですね。 どうしてこういう感覚が生まれるのかと言うと、物が常に受動的だからだと思います。確かに美しさを訴えたり、心に訴えるという点では、物自体の魅力という意味で能動的であるとも言えますが、所詮、自然が作ったものか、誰かが作ったものであって、自分が作ったものではない、という事だと思います。 工場で物を作っているぞ、というのとは全然違って、この自分で何かを作る、という事は、人が作ったものを大切にする事よりも、格段に満足感を得られます。ここには、個人の感性、想像力と創造力と創作能力が反映されます。 しかしながら、誰でもが自分のオリジナリティを物として表現できるかと言うと、それが出来る人の方が少ないみたいです。 物欲に執着して収集し、その挙句にいずれほこりをかぶって日の目を見なくなる、そういう繰り返しをして、何かが違うと気が付いたとき(たぶん20才代後半以降)自分のオリジナリティに方向転換するか、自分の知識欲や精神的な充実を求める道を選ぶか、いずれかの方向性に分かれるのだと思います。 もちろん、生涯を収集活動にかけ、貫き通す人もいると思います。 ●インドのヨガ行者達の言葉 「生活に必要最小限のものしか持たない」 ・・・これはちょっと違いますね。むしろ物欲を持たないように努力した結果だと思います。そして、精神性の充実という点では、結果として、同じように見えるだけだと思います。 以上のように精神性の充実は、自然や宗教に触れたから、というわけではなく、高樹沙耶さんのパターンは、物欲の限界を感じている所にタイミングよく、そこから抜け出す道が見つかったという事。ヨガ行者達の場合は、宗教を通じて、物欲を自ら断つという努力をして、遠回りせずにそういう境地に達した、と言えるのではないでしょうか。 私は物欲がありますが、どちらかというと最低限でも可というタイプです。物欲に対して、何もかも拒絶している事は、精神性にも影響を及ぼすと思います。自分が価値を感じないものに対しては、必要最低限で良し、価値を感じる事に対しては、長く飽きない良いものを選ぶ、という程度の、極めて一般的な考え方をもつものです
お礼
ご回答大変納得します。 ただ以下の指摘について、 >高樹沙耶さんのパターンは、物欲の限界を感じている所にタイミングよく、そこから抜け出す道が見つかったという事 高樹さんの場合は、テレビの取材がきっかけで突然海にはまり、 それから数年経過し、気がつくと物欲がなくなっていた、という感じだったと思います。 高樹さんの話の聞き手だった芸能人の方(名前忘れました)も、 同じく海にはまり出してから、物欲が無くなった事を共感しておられました。 だから2人共、「物欲の限界を感じていた」とかいうのではなさそうでしたが・・。 海にはまると物欲がなくなる!と言い切っておられて、 他の出演者の「○○を集めている」という言葉に対しても 「自分はそういう事は絶対しない」といったかんじでした。
- nekosuke
- ベストアンサー率42% (339/795)
>「自然」「宗教」等に触れる事によって、物欲が無くなるのですか? 心が満たされているから、物なんて必要なくなるのでしょうか? 間違いなく違うと思います。得に宗教は絶対違う~。知り合いに宗教の押し売りしてるやつがいるけどその人達は「此処に入れば彼が出来る」とか「運がたまって金運アップ」とか言ってた・・「だったら宝くじで1億当ててみろよ( ̄ー ̄)」と言いたかった。これ知ってる限りだと物欲は間違いなくありますね。 っというか・・・宗教にしろ自然にしろそれを楽しむ為に必要なものが必ずあります。どうあがいたところで物欲はきっても切れないと思いますよ? >それとも、「心が満たされる」のと「物欲がなくなる」というのは 何も関連ないのですか? 大規模に「あれが欲しいこれが欲しい」と言わなくなっただけで実際は「あ・・これは(趣味等で)必要だから買おう。これもあったら便利だな・・」等で買ってしまうのではないでしょうか?(趣味以外の)余分なものを買わなくなっただけでよくいう言葉のあやですよ。例えば「もう貴方さえ居れば何もいらないわ・・」と言っていても素で考えると実際に生活に必要なものはあるわけだし生活するには水は不可欠・・水が必要と言えば水を引いてもらわないといけない・・っとなるとお金が必要・・ああ逢う為には服も買わなくちゃいけないわ・・・そうなると~っとずるずると廻っていきませんか?結局きっても切り離せないのですよ。 別に貴方が「物など要らない」の境地になった所でどうなるのですか?どうしたいのですか?失礼だと思いますが、貴方は意味も無く境地に達したいのですか?(謎)私だって可愛いものは可愛いから欲しいと思うし物欲だらけだと思います。でも物欲とはきっても切り離せないものなのだから共存しつつどうやって自分の趣味を広げるなりして心を満たしていくという事のほうが大切なのではないでしょうか? 欲って一つ解決すればもう一つまたもう一つ・・と増えます。 自然だってそうでしょう。綺麗な風景をみて「綺麗だな・・」と思っても風の噂で「どこどこが綺麗でね~♪」とか言われたらまだ知らないその風景を求めますよ? >趣味の物を集めたり、着る服にささやかながらも凝ったりするのが 楽しいと思える私のような人間でも、「自然」「宗教」にふれると、 そんな事はちっぽけに感じるようになるんでしょうか? 心に満たされていないから、物を集めたりして憂さ晴らししてるんでしょうか… 大自然を見て「あ・・自分てなんてちっぽけなんだろう・・」と思っても結局それによって物欲がなくなるわけではありません。自然は自然。物は物なんですよ結局。「宗教」…それを自ら進んで目標をもって取り組んでいるならちっぽけになるかもしれませんね・・。でも結局欲しいものは欲しいんです。それって駄目なことですか?欲しいものは欲しいと思って自分らしく生きれる事が私にとっては何より心の満たされる幸せだと思うのですが・・。 私なりの意見です。参考までに
お礼
ここで書いた宗教というのは、真の意味で実践している人の事で お知り合いの宗教の押し売りしてる方は、真の意味での宗教者ではないと思います。 こういうのを宗教だと信じ込まないようにされて下さい・・・。 すみません、質問では上手く書けてなかったかもしれませんが 「意味も無く境地に達したい」のでは、もちろんなく、 「満たされる為に境地に達したい」です。 自然の中に身を置く生活を続けていれば、あれも欲しいこれも欲しいという欲張りな思いは 段々消えていく人もいると思います。 もちろん、ある期間だけ、自然に触れるとか、たまに触れるとか、 そういう短い期間だと、当然すぐにもとの自分に戻ってしまうだろうと思われますが。 快楽主義的な人や、娯楽を多く求める傾向のある人は、 なかなかこういう境地にはならないような気もします。
- gomaabura
- ベストアンサー率23% (166/707)
私なりに感じた事です。 >「自然」「宗教」等に触れる事によって、物欲が無くなるのですか? >心が満たされているから、物なんて必要なくなるのでしょうか これは、心が満たされているからというより、本当に、自分の中で大切なものを持っているからなんじゃないでしょうか。 >「自然」や「宗教」以外のものによって心が満たされている人達 >それとも、「心が満たされる」のと「物欲がなくなる」というのは >何も関連ないのですか? これは、難しいです。幸せな気持ちでいながら、欲しいものがあってはいけないのでしょうか? >趣味の物を集めたり、着る服にささやかながらも凝ったりするのが >楽しいと思える私のような人間でも、「自然」「宗教」にふれると、 >そんな事はちっぽけに感じるようになるんでしょうか? >心に満たされていないから、物を集めたりして憂さ晴らししてるんでしょうか… 私は、可愛いものをみると欲しくなったり、安い服に興味が出るのは、 決していけないことではないと思います。 ダイビングをする人は、宝石はいらなくてもダイビング用品は欲しがるでしょう。 インドのヨガは分かりませんが、インドと日本では生活内容が全く違います。まわりの環境も、物の多さも全く違う中で、インドのヨガをやる人と同じ精神でいたいと思っても、難しいと思います。 日本だと、知っている人物では宮沢賢治が似たような生活をしていました。 自給自足で、お米と味噌と少しの野菜を食べて、暮らしていたそうです。 私は、宮沢賢治は好きで、本もいくつか読みました。 どれも素朴で、なのに文章は輝いています。 心の奥に、透き通ったものが染み込んでくるようで、涙が出てきます。 「銀河鉄道の夜」は読むと色々考えさせられるのでおすすめです。 本当の幸せってなんなのか、自分にとって大事な物ってなんなのか。 宮沢賢治の幸せは、世界中の人達が幸せになる事でした。 そして、賢治は世界の人が皆幸せになれるように、自分の事は後回しにして働きました。 極端かもしれませんが、ここまでくると、物欲はなくなると思います。 まず、あなたにとって、何が大事なのか。 あなたの中心になるものを見つけることがいいと思います。 それは、ダイビングだったり、ヨガだったり、世界の人の幸せだったりすんだと思います。 私は、生活が少し疲れた時は夜空を見上げます。 空に、星が見えると心が落ち着きます。 空を見上げながら、今光っているあの星は、この瞬間は燃え尽きてないかもしれない(光が届くまでに時間がかかるので)と考えたり、宇宙の端っこはどこなんだろう、とか考えて、あぁ、明日も頑張ろう、とか思ったりします。(変ですかね) 今すぐに、見つける事は困難だと思います。 でも、これから生きていく中で、何か、譲れない物、大事な物、人生の中心になる物、そんなものが見つかればいいと思います。 そのためにも、色んな事をやってみればいいと思います。 ダイビングでもヨガでもいいですし、ボランティアや、反戦デモ等…。 一歩、自分の枠から抜け出して別の世界に飛び込んでみてはどうでしょう? 長くなってしまってごめんなさい。
お礼
宮沢賢治のような境地になるには、 長い年月を要しそうですね。 回答拝見し、宮沢賢治はキリスト教徒かと 思ってしまいました。 色々趣味や打ち込んでる事は沢山あるのですが 私は自分の枠からは抜け出てなかったのですかね。 たまに、趣味の道具があふれすぎて、 全てを捨ててしまいたいと、むしょうにかんじるときがあります。
多少宗教的になりますが、神様が人間をつくられたあと 花や、動物、などを人間がさみしくないよう慰める為に つくられたんだと記憶していますが。 それはさておき、このような世の中に生きているとなかなか 物欲なく生きるというのは難しそうです。 私は経験者ではないですが、阪神淡路大震災の時 一瞬にしてなにもかも、命さえ無くした人々を見、 ああ、ものがいくらあってもこのように天災などで 全て無になってしまうんだ、人間って非常にもろく 弱い存在だなとつくづく思いました。 そして家、家財など無くした人をみるにつけ ものはいくらあっても結局このようなものでしかないのでは?と 思うようになりました。 物欲ってとどまるところを知らないじゃないですか? ひとつ手にいれるとまた次、また次とどんどん欲しくなっていきますよね。 それは結局、そのものでは満たされないってことではないでしょうか? 一時は満足しているのでしょうが、結局次が必要になるのは 誰しも、物では満たされ得ないということだと思います。 私は多少、信仰がありますが、心が満たされてても 物欲もあります。 でも、やはり物では満たされ得ないことがわかっているので あまり何かを欲しいと思うことも人よりは少ないかと思います。 40歳をすぎて離婚し、新天地で再就職をしましたが 決まるまで 1年以上かかりました。昨今の就職事情の厳しさ、単なる事務しかできないこと、年齢いろいろなものが重なり非常に苦労しました。 もう少しで自分も家賃も払えなくなり、ホームレスしかないのかと 思うこともたびたびでした。 そんなときも神様を恨むとかそういうことはなく、この状況はなにか 意味があるんだと思い地道に探しやっと今の会社に 就職することができました。 そのような経験からも、今の自分は健康で、仕事があることが 最上の幸せであり、こころのなかには平安があります。 ひとはそれぞれですが、人がどんなに良い物を持っていても、 人は人であり、うらやましいとは思いません。 それらの人々は良い物を持つことなどがステータスであったり 一時の満足も与えてくれるでしょうが、最終的にそれでは 満たされ得ないことを知っているので。
お礼
>多少宗教的になりますが、神様が人間をつくられたあと 花や、動物、などを人間がさみしくないよう慰める為に つくられたんだと記憶していますが。 考え方は人それぞれですね。参考になります。 確かに物欲はとどまるところを知らないもんですよね。 私も「物を求めている限り、永遠に満たされる事は無い」ような気がします。 だから「物」に対して、「必要ない」と言い切れる高樹さんなどの人達のような境地になりたいです。
- qwertyuiop
- ベストアンサー率11% (11/100)
難しい事はわかりませんが、 自然・宗教に関わる事によって興味の方向が変わる だけではないでしょうか? 高樹さんもよいダイビング用品があったら欲しくなるだろうし、 宗教者だって金欲の塊みたいな人がたくさんいますし。 物欲、所有欲があるから未熟であるという事ではないと思います。 自分は人間の表現に興味があり、たくさん吸収したいので、 それがかたちとなった、CDや本やデザインの好きな物を欲しい (手元にないと不便なので)と思います。 その興味がなくなったらつまらないと思うけど・・・ それが未熟という事だと思いますか?
お礼
金欲の塊みたいな宗教者は厳密には宗教者ではないような気がします。 高樹さんなどが「物なんか要らなくなった」というのは、 ちょっと大げさに言ってるのかも知れませんね。 しかし、そういう表現をする人は今までに何人か見た事があり、 全員が、宗教に関わっているか、山や海などに人生をかけているような人でした。 そういう人と私達一般人は、何か根本的に考え方が 違うのかもしれません。
- tetorin
- ベストアンサー率21% (14/64)
フリーダイビングも1つの趣味ですよね。 例えば魚釣りをはじめて、それに夢中になったとします。 そしたら自分だったら新しい竿やリールなど、それに関する物で物欲が出てきて 欲しくなってしまうと思います。でもたぶん魚釣り以外の事にはあんまり興味が なくなってしまうと思います。 趣味にお金を使うことはそれほど無駄使いとは思えないですし、自分で使える 範囲をわきまえてお金を使えば問題ないのではないでしょうか? それで魚釣りをして楽しい休日を過ごせれば「心が満たされている」と思えるし それが未熟な人間だとは思えないです。 その対象が趣味ではなく宗教だったとしたら、もしかしたら物欲もなくなるかも しれませんよね。 物欲というより、要は「何に没頭しているか」だと思うんですがいかがでしょうか?
お礼
実は宗教も自然も同じ事なのかもしれません。 自然の中に身を置いた時、その期間が長ければ長いほど 人によっては、自然の偉大さを肌で感じて、やがて自分も自然の一部であるという 謙虚な気持ちになっていくような気がします。 それが物欲が減る事に繋がっていくんじゃないかなと想像するんですが。 何かを悟るというか。 もちろんそういう人は少ないでしょうし、 私もtetorinさんも、そういう意味では一般人の域を 脱してないんでしょうね。
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お礼
ご回答全てに共感します・・。 まさに軽い解脱状態なのかも知れません。納得です。 自分で実践しないと絶対わからなさそうです。 >コレクションなどは、おそらく性格的なものもあるのかしらと そうかも知れません。 物欲うんぬんよりも性格ですね、きっと。 >ある程度満たされている人って(自分自身でそう感じている人) >割と、こだわりがあんまりない人だと思います。 >何かにこだわるとそれ以外は許せない→満たされない >モノについても、あってもいいけどなくてもいいや位の感じなので、 >物欲が薄いことに繋がってくるのかなぁ 同感です!長年の疑問がこのご回答で一気に解決したかんじです・・。 深い洞察力をもっておられて、羨ましいです。 私はまだまだです・・。