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真如苑について

5年位前から、親の勧めで宗教に入っています。その当時は自分や周りの人が不幸続きで何か変わるならと思い入りました。そこに行っただけで気持ちが安らぎ、何かがとりついているかのように、重たかった肩が一気に軽くなりました。毎年冬になると旦那が喘息で入院していたんですが、旦那も真如苑に入ったら、その日以来発作も1度もなく入院もしていません。お施餓鬼や、摂心をいただくだけで、健康を手に入れた感じでした。苑に行かなくなると、2人供病気がちになったり怪我したりします。苑の悪口を言うとバチが当たるといわれ、親の知り合いが悪口を言ったせいで怪我したと言われました。私も何度か批判めいたことを言ってしまったことがあって、そのときは旦那が怪我や、病気をしました。接心をいただくたびに、先祖や身内などの供養をしなさいと言われ供養する人が増える分金銭的にもきついです。人を助けること(苑に導くこと)で自分が救われるといわれます。自分のことで今精一杯なので人のことを考えられません、苑のことを批判するとまた嫌なことがおきそうで言えないけど、宗教で人間は本当に救われますか?母親は、私が悩みを言うと母親としての意見はなくすぐ上の人(宗教)に相談します。親として答えてほしいのに!悲しいです。

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回答No.1

今は亡き祖父が、真如苑に入っていました。(私や両親は真如苑に入っていません。) 祖父は戦地に赴いたことがあったりと、背負っていたものが重かったのか、宗教に頼ることで救われた部分はあったようです。 ただ、真如苑は生きている人のためだけの宗教なので、死んでからの供養、御悔みの一言などはなかったですよ。遺族が信者ではなかったからかもしれませんが。 「宗教で救われるというのはどういうことか」 という定義は、人によって異なると思います。 私は、心の重荷が軽くなるといった意味合いで捉えていますが、人によっては、極楽浄土に近づけるという風に考える人もいるでしょう。徳を積むことができ、良い結果に繋がると思っている人もいるでしょう。 yukakiti11さんにとっては、「救われる」とはどういうことだとお考えでしょうか。 宗教の僕(しもべ)になるのも、自分で考えずに済む分、幸せでしょうし、救いにもなると思います。でも、苦しくでも、自分の足で立ちたいなら、宗教は必ずしも救いにはならないでしょう。もし、全ての判断を宗教に頼る母をみて、悲しいと感じるのであれば、別の道、接し方を模索するのも良いかと思います。 ちなみに、一番、救いを感じられるのは、私の場合、小さな幸せを感じた時なんですよね。(ちょっとした、感謝とか。) ですので、宗教に頼らなくても救いがある人間の言うことなので、どこまで参考になるかはわかりませんが。

noname#136425
質問者

お礼

お礼が遅くなりました。苑をやめると、色々な因縁や病気になるといわれ怖いという思いもあり、けど私は自分の足で歩いていきたい。母とは接し方を変えていこうと思いました。すごく参考になりました。ありがとうございます。