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真如苑の「接心」について (入信者、元信者の方)

真如苑の信者でこの教えに出会って約一年経ちました。軽い気持ちで入信しましたので、真面目にやっているわけではないんですが…。なので、正直まだ疑わしいところもあります。 真如苑には接心修行というものがあります。真如苑の方々は、迷うことがあれば接心に頼り自分の進むべき道・答えを決めているように思えます。 人に言われた道を進むよりも、失敗はするかもしれないけど自分で選んだ道を生きたいように生きる方がずっと素晴しいことなんじゃないかなって思ってます。だから、今後真如苑を続けるかどうか迷っています。 そこで質問です。 実際に接心で言われた通り行動を移した結果、人生うまく行ったもしくは行っている人っているんでしょうか?体験談等もありましたら是非お聞かせいただきたいです。

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  • morino-kon
  • ベストアンサー率46% (4176/8936)
回答No.1

私は、真如苑に関しては、まだ不安内の部分が多くいという点では、ちょっと申し訳ありません・・・、と、前置きしておきます。 私の友人で、熱心な真如苑の信者さんがいます。 真如苑の学校にもいったらしく、スジガネ入りです。 彼女に誘われて、昨年、美術展にいきました。 入信をすすめられるのを想定し、ネットであらかじめ真如苑については下調べをした上で、行きました。 この宗教の信者さんは、何となく、金銭的にゆとりのある方が多い雰囲気です。実際のところはわかりませんが、ガツガツと強引に勧誘しようという感じではありません。日産の羽村工場跡地をこの宗教法人が買い取った話と言い、ネット情報で「お金持ちを相手にする方針」というのを見ていたので、友人に 「ずいぶんゆとりのある方が多いですね。」 と話したところ、 「違うの。たとえ無一文で始めた人も、この宗教を信心していると、自然に裕福になるの。」 とのことでした。 もちろん、接心修行がどこまで効果のあるものかは知ることができませんが、質問者様は誰かに生き方を決めてもらう必要はないのではないでしょうか。 言われたことを無視した行動をとった結果、たとえ、他人からみて失敗と思われることになっても、それが失敗かどうかは、いつ、誰が判断するのでしょう? たとえ借金ができようと、恋愛で失敗しようと、人生のなかで、取り返しがついてしまえば、あとでより大きな幸せへのきっかけとなるかもしれません。それが失敗だったのかどうか、人生終わるとき、本人にしかわかりません。 質問者様は、人が決めた「失敗しないはずの人生」(本当にそのとおりかどうかは別ですが)を生きるために生まれてきたのではありません。また、すでに、何が失敗なのかを人に判断してもらう必要もありません・・・、と、思うのですが、いかがでしょう。 ところで、質問者様は、宗教に何を求められますか。 「現生のご利益」でしょうか。自分の行動を判断するよりどころでしょうか。キリスト教や、他の宗教にもあるように、「わが身を犠牲にして他人を助ける」という人もいるようなものは受け入れられませんか。もちろん、どちらでもかまいません。 宗教で対立すると、殺しあいも起きます。宗教は、目の前のご利益で判断するほど、安易なものではありません。 宗教の本質(全然難しい本ではありません)についてのお勧めの本があります。ミシガン、ハーバード、マサチューセッツ工科大学で学んだ社会学者が、とてもわかりやすく書いたもので、立ち読みで十分(十分、ほしくなる本)です。 小室直樹著「日本人のための宗教言論」徳間書店

monmo01
質問者

お礼

お返事大変遅くなり申し訳ございません。 そして、ご回答ありがとうございます。 確かに、morino-konさんの言うとおり誰かに生き方を決めてもらうような必要はないですよね。私自身そんな人生を送りたいとは思わないですし。心強いご意見本当にありがとうございました!

その他の回答 (1)

  • 1009betty
  • ベストアンサー率31% (22/70)
回答No.2

貴方は多分宗教のことをお分かりにはならないと思いますので、本当に必要と感じるまでおやめになったほうが良いと思います。 皆さんは自分の進む道を人に決めてもらっているわけではないと思いますよ。答えを決めにいっていても、助言や、自分の考えの間違いを諭してもらったりされているはずで、接心修行を施してらっしゃる方も、こうしなさい、ああしなさい、とゆうのではないはずです。 たしかに、宗教は、心の拠り所とされている方がほとんどだと思います。(それも良いと思います。)頼りない、自信が無い、寂しいなど、弱い自分を強くしてくれます。信じるものを持つ人はとても強いでしょう。一本芯が通るからです。 本来信仰とは、あらゆる困難を修行と受け止め、自分自身を磨く砥石のようなものです。自信の煩悩に気づき、それを焼き尽くしながら、現世利益ではなく、自信が真の道を行くために邪魔をするものを祈りによって治めていることなのです。 少し、お分かりいただけたでしょうか? 不安があるのは、本当に求めていないから飛び込めないのでは?

monmo01
質問者

お礼

お返事大変遅くなり申し訳ございません。 そして、ご回答ありがとうございます。 >不安があるのは、本当に求めていないから飛び込めないのでは? 確かにそうかもしれません。 また、自分自身に自信が持てないからこういう教えにすがりたかったというのもあります。かと言って、自分に都合の悪いことを言われると耳を塞ぎたくなってしまうというか。わがままなんですね・・・ 人の意見に振り回されることなく、まずはもっと自分に自信を持てるよう自分を磨くことが先決かなと思いました。 貴重なご意見ありがとうございました!

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