落語立川流について
落語立川流は故立川談志師が真打問題で試験に弟子が落ちた事への異議を唱え、
脱退し、設立されたものである事は周知の通りであり、
従来の落語協会のやり方ではなく ホール落語 地域寄席等での活躍や
マスメデイアのアピールで
現代との接点を大事にした事で 落語協会より入門者が増えた事
(志の輔 志らく 談春とそれに続く人気者を多く育てた事で寄席=
落語家の修行という事を覆した事や
高田文夫 ビートたけし等他分野で活躍する人に
落語家の名前を与え、一門の会に出て戴いたりした事で
落語を改めて世間にアピールした事等)
が大きいメリットとして挙げられると思いますが、
デメリットとして
二つ目や真打昇進問題も談志個人の判断で決めていたが、
落語協会に居た頃や 立川流設立当初は弟子に稽古をつけたり
「あそこ(一門の兄弟子)に習いに行け」という形で大体3-5年で二つ目にして いたが、晩年は一切稽古付けず 弟子を放置し、20年以上も前座にさせた者が
いたり、晩年病気になり筆頭弟子等が「今後どうするか?」という事を聞いて も、「勝手にしろ」という風に答え、一門から集めた上納金や会の運営について
も、弟子はおろか、一門のマネージャーをしていた親族である談志の長男もいく すえも知らされておらず 談志の死後 一門と親族で遺品整理をし、その後役員 を決め 上納金廃止となったという事でしたが、これは会という意識もなく、
「やりたいようにやる」という談志の性格から来ていたのでしょうか?
(談志より数年前に設立した先代三遊亭円楽率いる円楽党は 合議制で
3-5年で真打、談志より前に死去されたが、弟子に遺言はされたそうですが
真打粗造と非難され、人気者を出した事は立川流に劣っておりますが)
この辺りの事をご回答いただければと思います。
(落語家ではありませんが 「やりたいようにやる」と豪語して、
一切周りの者に会計を見せない 自分のプランも言わないで通した人がおりま した。 離れて行った人も多かったのですが、本人は何処吹く風と行った感じ でした。家族にも一切本音は言わず、自分の能力のみを信じるといった感じで した。やはり、晩年は「勝手にしろ」と親族にも言っていたそうです
この様な所が談志師匠にもあったのでしょうか?
唯談志師匠は人脈は大切にされるので、その糸口(談志が紹介したのではないが)で志の輔 志らく 談春は売れる様になったといわれております
この辺りの事をご回答いただけたらと思います
お礼
回答ありがとうございます。