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いけないと分かっているのに死のうとばかり考えます
生まれつき高機能自閉症を持っている者です。 それから精神病も持っています。PMSも持っています。 障害や病気が辛いことを言っても知らない顔をする家族、どこへ行っても差別やいじめをする職場や学校の人にもういやになってしまいました。 沢山精神病脱出の本を読んだりして「うつに効く食べ物」と言われるものを食べたり、薬を飲んだり、趣味に打ち込めるよう努力をしてきましたが、最近その気力もなくなってきました。 これまで自殺は悪いことだと思って絶対にしないと心に決めていたのに、今は家族に 「死にたいなんて言われても困る。勝手にして」 と言われたりして、もうそんなきれい事言ってられなくなりました。 ただ自殺に踏み切れない気持ちもあります。生きていたらいいことがあるかもしれないと少しは思っています。 ネットではほんの僅かに支えてくれる人も一応います。でもその人達に「死にたい」と相談する勇気がありません。 死にたい、死にたい、死ぬ以外私には考えられないってなってしまったら、どうしたらいいですか。 そう思ったとき、どうやって克服しましたか。 教えてください。
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全然当たっていないかもしれませんが、多くの人は自分が生きているということをあまり分からなくても平気でいるというか、考えてもわからいとあきらめているのだと思います。わからないでも平気というのはどこかごまかしがあると思いますが、ごまかせない人はつらいと思います。しかしわからないのは自分が悪いとか能力がないからではなく実は誰にもわからないのだと思います。おそらくアインシュタインだってデカルトだってわからなかっと思うし、これからもわからないと思います。わからないのは自分だけじゃなくて、みんなそうなのだと思ったら少しは気が楽にならないでしょうか。
- tinycat19
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回答の数々をお読みして、どんな文学作品にも負けないほどのドラマが感じられ、生きていることが死の裏返してであることが実感されます。 自殺企図というのは、誰でも一度は考えることで、そこを踏みとどまるのには、家族の暖かさだったり、友人の一言だったり、何かあると思います。 私自身、生き残ることをかけて、市販の睡眠薬二十錠を飲んだことがあります。ぎりぎりの精神状態と判断力から、もう死ぬ以外ないという結論から、薬局で薬を買い込み、その時薬局の人は、粉薬の方が強いですよ、といいましたが、確実に錠数を数えて死ねるから、という理由で、錠剤のほうを買い込みました。でも、心のそこでは、生き残ることを期待していたのだと思います。 その賭けの通り、私は胃洗浄をしてもらいながら、生き残りました。家族には申し訳なかったですが・・。 二十錠も飲んだというと、医師に驚かれますが、病院に十一日間も入院し、その後も精神科に通い続けなければならなかったことを思うと、なんて馬鹿なことをした、と後悔します。 周囲がぎりぎりに追い込んだ場合ですら、それだけ後悔が残ります。家族の反応が冷たいぐらいで、障害があるぐらいで、死んではいけないと思います。 太陽の暖かさ、風の清清しさを感じられるだけでも、人間は生きていて良かったのですよ。 自然の一員である以上、死んではいけないと思います。親は自分の身に危険が及ぶと、子供を犠牲にすることはありますが、子供も別個体である以上、親から逃れて生き延びることもあります。 離れて生きても、自分自身を大切にして生き延びてください。 頼りになるのは世界で自分だけ、動物も人間も、人のために死ぬ、外界が原因で死ぬ、それだけはあってはならないと思います。
- hazimecchi
- ベストアンサー率18% (58/307)
私は不安抑うつ障害4年生です。 私も自殺企図は何度かした事あります。 死にたいと思って近所のマンションの屋上に上がった時、あとはもう 飛び降りるだけなのに出来ませんでした。 それは自殺を前にして自分を遮る物が全くないということが分かった怖さからです。 何度も自殺企図するうちにカウンセラーからそれは「あなたが生きていたいという気持ちの裏返しではありませんか」と言われた影響もあります。 それでも年間3万人以上の人が自殺してます。 あの遮る物のない恐怖を簡単に超えて行ってしまうなんて、とても勇気のいる事だと思ってます。
お礼
死にたいという気持ちは生きていたいという気持ちの裏返しなのですか? そうかもしれません。 本当は死にたくない気持ちが人一倍あるのかもしれません。 昔薬の副作用で死の狭間を彷徨ったときは泣いて死にたくないと喚きました。 そうなのかもしれないですね。 ありがとうございます。
- sango30
- ベストアンサー率35% (38/108)
さぞかしお辛いお気持ちでしょうね。 うつの私が自殺企画を踏みとどまったのは、私を理解してくれている夫、同じうつ仲間との、 死にたいと思うのは仕方ないけど、本当に実行だけはしないでおこうねという約束を思い 出したから。 結局踏みとどませられたのは周囲の暖かい愛情と理解でした。 もちろん、自分も頑張りました。死んじゃだめ、死んじゃだめと言い聞かせました。 まずは、お医者さんや自閉症を良く知るカウンセラーに、思いのたけをぶちまけては どうでしょうか。カウンセリングで見えてくること、あると思います。 それと、ご質問を拝読して、一番厳しいなあと思ったのは、 >障害や病気が辛いことを言っても知らない顔をする家族 ここです。 なぜ、理解してくれないのでしょうか。 一度(でも二度でも)ご家族と一緒に精神科を受診し、先生から、あなたがどれだけ辛いかや 家族のあり方をご家族に説明していただくことは出来ないのでしょうか。 ご家族も、あなたとどう向き合っていけば分からず困惑しているのかもしれません。 自分の一言が、家族を自殺に追いやっていることを知って、平静でいられる人は いないと思うのですが......。 もしだめだったら、同じ病気の人と知り合いにはなれませんか。 デイケアなどで知り合って、お互い励ますとか。 それと、職場で、「一人で良いから」理解者を作ること、出来ませんか。 たとえば会社に産業医はいませんか? 産業医から、上司や、同僚に、本人が具体的にどのように悩んでいるか伝えてもらうとか。 産業医がいなければ、だれかとにかく一人捕まえて、一度「実は」とお話をして理解をして もらえればたった一人でも、理解者がいると心強くなれると思います。 どうか、死なないでください。 あなたは今は苦しいかも知れないけど、幸せになる権利もあるのです。 どうか、幸せになる日まで、死なないでください。
お礼
死なないでくださいと書いていただけてとても嬉しいです。 私にも生きる権利があるのですね。 家族や周囲に死んでくれとでもいうような目で見られていても、そう言ってくれる人がいるとまだ生きられるような気がします。 家族はやっぱり健常者なので、自閉症の辛さが分からないから、死にたいくらい差別が辛い気持ちが分からないのだと思います。 私が勝手に障害者であるという負い目があるからか分かりませんが、家族にとって私はお荷物であるような気がしてならないのです。 お医者様には、今月ずっと死にたいとばかり考えていたことを今度の予約の時に話します。 ありがとうございました。
こんばんは。 文章を読んでroko5528さんてすごいなぁ、って思いました。 普通の人は「死にたい」と声を大にして、人に助けてもらおうとしない人が多いと思います。でもそれを声を大にしている事で助けを求めているのですよね。それってなかなかできない事だと思います。 ちなみに私も「死にたくて死にたくて、でも死ぬ事が怖い」っていう時期が3年くらいありました。毎日毎日泣いて過ごしていましたね。 どうやって克服した、というか。 私はうつだったくせにやけに理論的な所があり、冷静に分析し、「私はまだこの世にすごく未練があるから死ねないんだ」「死ぬためにはもうこの未練を断ち切るしかない」「私がこの世で一番好きなのは食べる事だ」「だったら餓死してみよう」と思ったんですよ。今考えるとやっぱり冷静ではないですね(笑) それで金曜日には冷蔵庫をからっぽにして、金曜日の夜から食べませんでした。 ・・・ そして土曜日の夜にはもうコンビニに走ってました(笑) この時に、私は死ねないんだ、って悟りました。(←友達に話すとプチ断食にもなってないじゃん、てバカにされます(/-i)) なんかそれでもう自分自身のバカさ加減に気づいて、ちょっと自分のへたれかげんさに呆れて笑えて、あーもうきっと死ぬ努力はできないな、じゃあしょうがないから生きる努力をするか、って思いました。 それが立ち直ったきっかけでしたね。 私の経験談が少しでもroko5528さんのお役にたてばよいのですが。 それから10年たった今は、色々ありますが、基本とても楽しく生活できています。 どうかroko5528さんも立ち直って、10年後に、私なんであんなこと思っていたんだろう?実行しなくてよかった(^-^)って思えるように祈ってます。
お礼
これまでの回答の中で、一番心に響いたのが、 >あーもうきっと死ぬ努力はできないな、じゃあしょうがないから生きる努力をするか、って思いました。 ここでした。 私にも死ぬ努力はできません。だったらguguku2さんみたいに生きる努力をしようかなって思えました。 死にたいと思ったのは今回がはじめてではなく、中学の時母に死んでくれと言われた時とか、死にたいくらい辛いことがあったときとか、何回かありましたが、未遂に終わり、どちらも今思うと死ななくて良かったと思います。 今回のことも、何年か経ったら「あの時死ななくて良かった」と思えるといいです。 すごくいいアドバイスありがとうございました。
私は死ぬときは、少なくとも家族に迷惑をかけないよう立つ鳥跡を濁さず、きっちり自分のものを片付けたいと常々考えています。 しかし、自分のものを全部整理して、売ったり捨てたりしようとしたら結構大変なことに気づきました。実家の屋根裏や押入れには幼少時代のガラクタがたくさんあるし、一人暮らしのアパートの家具や膨大な本。車も処分して、クレジットカードを解約して、今使っているパソコンをリサイクルに出して・・・・。ただでさえ日常生活もままならない状態なのに、そこまで考えたら、面倒くさくなりました。そんなエネルギーはありません。それに結局最後には遺体の処理やら葬式やらでどうやっても家族に迷惑をかけてしまうのです。 最近はとりあえず、今までにやってみたかったことは全部やっておこ うと思って旅行に行ってみたり、おいしいものを食べに行ったり、これまで稼いで使う暇の無かったお金を使ってみています。 そんな中で大学時代の恩師に再会して新たにやってみたいことが見つかりました。向こう数年ぐらいはそのことにチャレンジしてみようかと思っています。そこから派生してさらにやりたいことが見つかるかもしれません。低レベルな目標ですみませんが、せっかくこの世に生まれたのだから、世のため人のためになることをひとつでもいいからやり遂げてみたいと思っています。 それまで死ぬのは保留です。不慮の事故で死ぬこともあるかもしれないので、思い残すことが無いように毎日を一生懸命生きてゆきたいです。死ぬことはいつでも出来ますが、後戻りできません。 病気や死にたい気持ちを相談するのに一番いいのは、客観的に物事を見られる人だと思います。今、病院に通っているのでしたらお医者に率直に相談してみてはいかがでしょうか。
お礼
私も同じことを考えました。 死ぬときには、自分のものを全部片付けておかなくてはいけないと思いました。 でも、全部捨てたら、もし死にそびれたときに「捨てなきゃよかった」と思うのではないかという未練がありました。 要するにそれは心のどこかで生きようと思っているんだと気付きました。 もうすぐ、私の恩師が家に遊びに来てくれます。 それで、死にたい気持ちがなくなるかもしれません。 お医者さんにも話すつもりなので、気持ちが軽くなるかもしれません。 同じ経験をされている方の貴重なお話ありがとうございます。
私には、あなたの思いが理解できないと思いますが。 私もかって「死にたい」と思い、1日街をさ迷い歩いたことがあります。でも、それは「死のう」という行為ではなく、「死にたい」と思っている自分を、自分で哀れんでいただけのことでした。 実際に「死」に近づく行為は何もできませんでした。 「死にたい」と思うこと、「死のう」とすること、「死ぬこと」、それらの間には、紙一重の違いしかないのかもしれません、あるいは無限の開きがあるのかも知れません。 リストカット癖のある人と知り合ったことがあります。 その人は、「確実に死ぬ方法」は判っているといいます。 でも、生きています。死のうとするけれど、死ぬ気はないようです。 死のうとする自分にとらわれているのです。 かっての私が、死にたいという自分にとらわれていたのと同じことなのです。 そのひとは、不幸である自分に酔っており、周りをすれに巻き込もうとするというのが判り、疎遠になりました。 「死にたい」と思っていた私は、自分には「死のうとする」ことさえできないという現実に気づき、「死にたい」という思いは消えました。 判っているのは、そのうち嫌でも死ぬ、自分の意思とは無関係に死ぬ、ということです。 だったらわざわざ自分で死ぬような面倒なことはしなくたっていいと思ったり、今、地震とか事故で突然死んでしまっても、それはそれでしかたないと思ったり、孤独死がいいと思ったり…。 「死にたい」と思うことは悪いことではないと思います。今を生きる方便として「死にたい」と考えるのはいいと思います。そう考えている間は生きているのですから。 そのうち腹が減ってくるから、とりあえず食事をしよう。食事をしたら、トイレに行きたくなるだとろうし、まぶたが重くなっても来る。 考え事は明日にして、眠ろう…。目覚めれば、膀胱が膨らんでくるし、また腹が減ってくる。とりあえず何を食べるか…。 自分の日常はそうですね。目の前にやることがいっぱいあって(暇っちゃ暇なんだけど)、買い物とか掃除、洗濯、炊事、…、やらなくてはならないこととか、やりたいこととか、疲れちゃって何もやる気にならない時間とか、とにかく「死にたい」なって言ってる余裕がないですね。 「死にたい」と考えるのはいいですよ。 自殺する自由ってのもあると思います。 でも、「死のうとする」のと「死ぬ」のは、はた迷惑なんでやめて欲しいです。誰かが、いろいろと後始末をしなければならないのです。 自分で自分の死の始末ができるわけがないのですから。 自分では避けられない死であれば大目にみてくれるでしょう。 ところで、広島の原爆記念館には行ったことがありますか? 突然、空から死が降ってくるなんて、私にも、あなたにも想像できないことでしょう。 初めて行ったときには、広島は怨念で覆われているように思えて、そそくさと立ち去ってしまいました。 あそこに展示されている遺品を前にして「死にたい」って言えるか。 実際に試してみるといいと思います。
お礼
家族に申し訳ないと思えるtinycat19さんが少し羨ましいです。 私は死んだほうが家族のためになるのではないかとばかり考えます。自閉症は相手の気持ちが分からないので、「死ぬなら死ぬで勝手にして」と言われると、やっぱり死んだほうが家族のためになるのではないかと思うんです。 死んではいけないと書いてもらうと、私でも生きている必要があると言われているかのようで嬉しいような、複雑な気持ちです。 ありがとうございます。