- ベストアンサー
創価学会についての相談
- 義母の創価学会での行動について不安があります。勤行をテレビを見ながら行ったり、歩きながらお経を唱えているのですが、口だけでよいのでしょうか?
- 私は創価学会に入るつもりも会館に行くつもりもありませんが、家族であれば信じていない人にも会館に行って欲しいものでしょうか?
- 信じていない人との同居は耐えられるでしょうか?
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
二度目です。大変に真摯なお礼、ありがとうございます。こういった問題は身内となるとなかなか難しい問題ですよね。 前回の時は前の質問を覗かずに回答しましたが、今回はちょっと気になって見てみました。 >「10月生まれは暗くて、冗談の一つも言えない!!」 つらいですなぁ(^^;。私も10月生まれです。学会ではこんな事教えてないんですけどね(^^;。 >Mujinkunさんも言っていましたが、「自分と向き合う時間」なのですよね。(中略) >しかし、それは創価学会に入っていなくてもできるとおもうんです。(勤行だけで考えると) 勤行の事だけでなく、全ての事においてnamirinさんのおっしゃる通り、学会に入っていなくても素晴らしい人間になる事はできます。実際、世の中のあらゆる分野で成功した人や世界の平和に貢献した人などの多くは信心せずとも自ずからの考えが結果的に日蓮仏法と多くが合致しているために素晴らしい成果をあげ、素晴らしい人生を送る事ができているのだと思います。これは凄い事だと思いますが、私をはじめとする平凡な人間では自らそのような考えに行きつく事はなかなか難しいと思います。また、考えに行きついたとしてもそれを日頃から信念にし、貫き通す事は非常に難しいと言わざるを得ません。 ですから、日蓮仏法に沿った人間として正しい考え方を共に学ぶために、その学んだ考え方で人生を堂々と行き抜いていくため、くじけそうになった時にお互い助け合うために創価学会があると私は考えます。 >私が「信仰に関して矛盾」を感じると言ったのは、義母が「~ながら」で(中略) >「世界平和」とはかけ離れているのです。 耳の痛い話です。私達学会員の多くは平凡な人間ですので年がら年中のように矛盾を起こしていると思われます。その矛盾をできるだけ起こさないように各人が努力するのですが・・・。 >この期間を限定するのも「?」と思います。 期間を限定するのは教義の範疇ではなく、期間を決める事によってその間のモチベーションを高め、成功の確率を高めるためだと思います。こうやってたらいつか適うなぁ、と行動するより、○○日までにこうやって適える、と思って行動する方が行動の内容が具体的になるし、具体的になる分成功しやすい、という事だと思います。 どちらにしても当の本人が(勤行にしても目標の為の行動にしても)やる気を起こさないと結局は適わないものとなりますので、やる気の起こらないnamirinさんが「?」と思うのも無理ないと思います。 >正直を言うと、「理解はします」が、「受け入れてください」というと「ちょっと」と思います。 >それを「どうして?偏見だ!」と言われると困るのですが。 そうですか・・・。私などは会館に行くのが当たり前でいますので、何のアドバイスも与えられなくて申し訳ないです。行く行かない、については話し合う時にできるだけ感情的にならないで欲しい、と思うだけです。 >義母は「無宗教は日本だけだ!」と言って、信仰心無く神社仏閣に行くことを >否定しますが、そんなに無宗教はいけないことですか? 無宗教がいけないのではなく、無宗教である、と宣言する人の多くがハッキリとした考え方を持って人生を歩んでいない、という事がいけないのです。(ほとんどの宗教は生きて行く為の考え方を教えているものです)考え方をしっかり身につけていないので、何事も考え方が悪い方向に変わってしまう可能性があるのがいけない、という事です。せっかくいい方向であったものが悪い方向に変わるのはもったいないですし、良くないですよね。 また、元から悪い方向の考え方を持っている人もいけないのですが、その人にはそれに対抗する良い方向を伝える事でお互いの考え方を意見交換でき、ちゃんと納得してもらえば、いい方向を受け入れてもらえ、その考え方を持つので考え方さえ変えれば、曖昧なままの人よりは良いといえます。 少しはご理解できる部分があったでしょうか。義母さんについてはmujinkunさんの言う通り、流すしかないなぁ、と感じます。人間誰しも年を取りますと変化を嫌ったり、自分だけの考え方を確立して固定してしまったりするので、これを変える事は難しいですし、矛盾点を突くと感情的になったり、どうしようもないです。この上に世間でいう嫁姑の問題が絡むんですから、何とも(^^;。 良い方向に向かう事を祈ります。
その他の回答 (4)
- mujinkun
- ベストアンサー率16% (336/1986)
NO.1です。 補足の中のご質問について。 「命にさわる」? 言ったことないからよくわからないですけど、よく解釈すれば、NO.3のかたの解釈になるかも知れませんが、この場合、お義母さまが、あなたが言うことを聞いてくれないのにむかついて放った暴言のような気もします。 グーの根も出なくなったときに「あなたには言ってもわからない」とか、「信仰してみないとわからない」などと言うのは、よくある悪あがきであります。 よく宗教している人に多くみられますよね。 人から見ても、矛盾があってはならないはずですし、本来、宇宙や生命、人生などの矛盾を追及しようとして、宗教というものは生まれたはずです。 でも、それをお義母さまに指摘なさったりすれば、余計当たられるだけだと思いますので、まだまだ教義を模索している過程の人だと、温かい目で、さらりと流してさしあげてくださいませんでしょうか・・・。 言っていてツライ・・・!
お礼
お礼が遅れて、申し訳ありません。 「命にさわる」と言う言葉は無いのですね。 mujinkunさんの話を聞いていると、「義母とは違うな~」と思います。 なんで、入信していながらそんなに客観的に物事を見れるのでしょうか? 人柄によるのですね。 色々、考えさせられます。 ありがとうございました。
- yaasan
- ベストアンサー率22% (2724/12278)
1)本来、勤行は日蓮大聖人が「このようにしなさい」と決めた事ではないので、どのような形で行っても良いものと言えます(当然、あまりにも変なのは駄目ですが(^^;)。実際、色んな事情を考えて、勤行の形式というのはここ最近になって徐々に変化をしております。ですから「ながら」で悪いと決めつける事はないと思います。問題なのは勤行をする本来の意味、自身の誓願を立て、それを達成するために真剣に唱える、その心があれば「ながら」でも問題ないでしょう。しかし、義母さんの行動はちょと?ですね。 義母さんは信心されてからかなり長い人と見受けます。勤行に慣れすぎて、日常化してしまったような感じがしますね。私の両親も信心してから長いので勤行中に色々と同じような「ながら」をしていますね(^^;。 2)行って欲しいです。基本的にはmujinkunさんと同じです。 3)耐えられない、とは思いませんが、最低限の理解をしてもらわないと結局は難しいと思います。2の回答とも重なるのですが、世間の人が信仰心なくとも神社仏閣で行う正月のお参り、お宮参り、法事などの冠婚葬祭を創価学会ではどのような形で行っているのか、ぐらいは理解してもらいたいと思います。 >「この人は『命にさわるから』行きたくないんでしょ」 これは想像するに今は義母さんの行動を見て学会に入る事を嫌っているnamirinさんですが、会館に行くなどして多くの学会員さんを見るにつれて、学会自体はおかしくない事を知ると思います。そうなるとnamirinさんは「入らない」と思っている気持ちが揺らいでいくと思います。そうした心境の変化を嫌う事を「命にさわる」と表現したのではないでしょうか。 最後にわがままなお願いを書きます。またの機会でも結構ですので「信仰に関して矛盾」を教えてください。namirinさんが学会に入らないとしてもせめてそういった矛盾点を今回の質問のように少しでも解消できるお手伝いをさせていただきたいと思います。
お礼
お礼が遅れて申し訳ありません。ちょっと長くなってしまいますが 私が思っていることを素直に書きますね。 >1)問題なのは勤行をする本来の意味、自身の誓願を立て、それを達成するために >真剣に唱える、その心があれば「ながら」でも問題ないでしょう。 Mujinkunさんも言っていましたが、「自分と向き合う時間」なのですよね。 向き合う時間があれば、「自分がどうすれば向上するか」とか「何をすべきか」等が 見えてくると思います。なので、いいことだと思うし、そういうことが見えてくれば おのずと行動も伴い実現する(近づく)と思います。 しかし、それは創価学会に入っていなくてもできるとおもうんです。(勤行だけで考えると) 私が「信仰に関して矛盾」を感じると言ったのは、義母が「~ながら」で 勤行をしていることや義母の考えを聞いてです。 慣れとはいえ、義母がやっている勤行だと「言葉だけを言って自分を見つめていない」 と思えるので、「自信の祈願の達成」にはならないと思います。 それに、これは義母自信の性格もありますが、「世界平和」と言いながら、 道にごみは平気で捨てる、アメリカのテロの亡くなった消防士に対しては 「手柄を立てようとした人が死んだ」など、「世界平和」とはかけ離れているのです。 ですので、「義母を見て義母が行っている信仰は理解ができないと言う意味で矛盾」と書かせていただきました。 yaasanさんたちのことを否定しているのではないです。 また、私が会館には行かないと言ってけんかになったときに主人に 「賭けよう!半年、イヤ3ヶ月、毎日勤行しなさい。そうすれば、思ったところに 転職できる!私も手伝う!」と言いました。 この期間を限定するのも「?」と思います。 >世間の人が信仰心なくとも神社仏閣で行う正月のお参り、お宮参り、法事などの冠婚葬祭 >を創価学会ではどのような形で行っているのか、ぐらいは理解してもらいたいと思います。 正直を言うと、「理解はします」が、「受け入れてください」というと「ちょっと」と思います。 それを「どうして?偏見だ!」と言われると困るのですが。 うまくいえなくてすみません。 義母は「無宗教は日本だけだ!」と言って、信仰心無く神社仏閣に行くことを 否定しますが、そんなに無宗教はいけないことですか? >心境の変化を嫌う事を「命にさわる」と表現したのではないでしょうか。 いい風にとればそうですが、mujinkunさんの言うほうだと思います。 「命にさわる」という専門用語があるのかなと思いましたが、ないのですね。 「命」とかをいわると怖い気がしたんで、質問しました。 納得されないとは思いますが 創価学会について 「否定はしない」→「良いと思う」→「受け入れる」→「入信する」にはならないです。
1.ここ20年ぐらいしてません。 2.個人の自由を侵害することになり兼ねませんので.希望しません。 3.最近は.信じる人と接することが苦痛になってきました。とはいっても.いっしょに飲みにはいきますけど。
お礼
回答、ありがとうございます。 やはり、信仰するしない、行く行かないは個人の自由ですね。
- mujinkun
- ベストアンサー率16% (336/1986)
1)笑ってしまいましたが、ダメダメ、そんな態度では、て思います。 自分と向き合う時間ですので、たとえお経を読まなくても、キチンと本尊に向かうことが大切と考えます。 義務じゃないんですから。 2)行ってほしいと思います。 神社やお寺にお参りすることの替わりなのですから、お正月や法事などは勿論ですが、根本的に「どんなことをしているのか理解してほしい」という気持ちがあるので、見に行ってほしいからです。 3)全然OKです。 ただ、公然と悪口を言われたり、仏壇や本尊を軽んじる(蹴飛ばしたり、振り回したり)行動をされるなら、同居したくありませんけど。
お礼
以前もお世話になりましたね。 早速の回答、ありがとうございます。 >1)笑ってしまいましたが、ダメダメ、そんな態度では、て思います。 >自分と向き合う時間ですので、・・・ 私も「そんなんでいいのか~?」って思いながら見ています。 自分と向き合う時間なのですね。 >2)行ってほしいと思います。 >根本的に「どんなことをしているのか理解してほしい」という気持ちがある>ので、見に行ってほしいからです。 初めて行った時は、「とりあえず行ってみよう!」と思って行きましたが、「やっぱり、行きたくないな~」と思うようになってしまいました。 私には、信仰ができないと感じました。 >3)全然OKです。 >ただ、公然と悪口を言われたり、仏壇や本尊を軽んじる(蹴飛ばしたり、振>り回したり)行動をされるなら、同居したくありませんけど。 そんな、蹴飛ばしたり(笑)はしてませんよ。 ただ、義母を見ていると「信仰に関して矛盾」を感じるので 義母が言う創価学会を良い風には思えないです。
補足
義母から言われた言葉で気にかかる言葉があります。 私がお正月に会館へ行きたくないと言って どうしてもその考えを変えなかったら 「この人は『命にさわるから』行きたくないんでしょ」 と言われました。 「どういう意味ですか?」と聞いても 「説明してもしょうがない」と・・・。 そのままとれば、「命にかかわる」という意味ですが どうなんでしょうか?
お礼
お礼が遅くなって、申し訳ありません。 色々考えさせられます。 私も結婚するまでは宗教とは無縁で特に考えることもありませんでした。 例えば、創価学会の人が毎日勤行をするのが当たり前と思っているのと同様、私はやらないのが当たり前でした。 やはり、それを受け入れるのは時間がかかることだと思います。 私の場合、義母を見ていて「それはどうなのかな?」と思い、学会のイメージがあまり良くありませんでした。 お恥ずかしいですが、私の場合嫁姑問題が入っているので余計です。(ごっちゃにしちゃいけないんですけど・・・。) でもyaasanさんたちの話を聞いて、宗教家の人でも色々な人がいるんだな~ と思いました。(当然ですけど。) もっと、書くことはありますが、主人が帰ってきてしまいますのでこの辺で。 まだまだ私の人生もこれから長いです。ハッキリとした考えを持って 歩んでいかないといけないですね。 本当にありがとうございました。