結論から言えば、裁判官が採用する理論は基本的には前例たる最高裁判例であり、最高裁判例がなければあるいはあっても妥当だと思わなければ「幾多の学説、あるいは他の裁判所で採用した理論を参考にしつつも自分が最も妥当だと思える理論」を使います。たまたまそれが既存の学説と同じであることもあれば違うものであることもあります。
もちろん理論には傾向というものはあります。しかしこれは流行り廃りという話ではなくその背景にある社会思想の変遷の影響によるもので、社会思想の変遷の影響を裁判官もまた当然受けるので、それが理論に現れているだけです。
ただし、最高裁の採る理論には大きな傾向が一つあります。それは、「個別の事例における法的安定よりも制度全体としての法秩序の安定を重視する」というもの。もちろん例外は幾らでもありますが、手形法などではその傾向が顕著に出ます。
なお、司法試験予備校における「結論はそんなに変わらない」というのは全くその通りですが、「判決には理由を付さなければならない」ことになっている以上、理由は無視できません(論文式試験でも理由は必要なわけですし)。理由は即ち理論構成であり、である以上、結論が変わらなければ説はどうでもいいというわけでもありません。
単に「受験政策上の説の選択にあれこれ悩む意味はない」というだけの話であって、法律学として理論がどうでもいいということを意味しませんし、法律学を学ぶ者が理論をないがしろにしていいという意味でもありません。
ところで釈迦に説法かもしれませんが、判決がいかなる法理論を採用するかは「自由心証とは無関係」です。自由心証とは「証拠の評価」の問題であり、つまり事実認定に先立って証拠をどう評価するかという話ですが、「理論は法律解釈の話であってまるで次元が違う」からです。
それから、「判例の理論はころころ変わる」という評価をする人がしばしばいますが、ほぼ99%の場合は間違いです。そういう人の話を聞くと大概が「判例理論は一貫しているのにそれが理解できていないだけ」です。判決のブレは「法解釈の問題ではなくてほとんどが事実認定の問題または事実の評価の問題」であり、「同じ理論でも前提となる事実認定または認定事実の評価が異なるために結論が異なるだけ」です。
そりゃそうでしょう?例えば貸金返還請求訴訟で、金を渡した事実があったと認定するかなかったと認定するかで結論がまるで正反対になるのは当たり前。それを「裁判の理論がころころ変わるからだ」などと言ったら「馬鹿じゃないの?」って言われるだけです。
お礼
ありがとうございます。勉強になりました。 自由心証の件などは、訴訟法の本を読んで復習します。 m(_ _)m