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なぜ、お年寄りに席を譲らなければいけないのでしょうか?
電車やバスで、お年寄りに席を譲らなければいけない、と一般にはいわれています。その理由はなんなのでしょう? これは反語的な意味ではなく、純粋な疑問です。 誰もが納得できるような理由って、あるのでしょうか? みなさんの意見をお聞かせください。
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質問者が選んだベストアンサー
ひと通り読ませていただき、色々考えさせられました。 質問者さまがなぜこのような質問をしたのか、なんとなく分かる気がします。 普段私が感じているモヤモヤと、やや通じるところがあるので…。 考えた結果、「情けは人のためならず」という言葉が頭をよぎりました。 親切や情けをかけることは、人のためにやるんじゃなくって、自分のためにやるという意味です。 結果的に自分のためになるから譲る、というのもひとつの考えになると思います。 どのように「自分のため」になるのかも、人によっていろんな感じ方があると思います。 ・世の中がそういうしくみになっていれば、将来自分が弱った時に譲ってもらえる(かも) ・人の役にたてたようでなんとなく嬉しい、気持ちがいい(自己満足) ・人から「よい行いをした」と思われ好感をもたれる、もしくはやらないと「冷たい人」と思われる(世間体) 等々 絶対的に弱者に優しい社会であるならば、席を譲ることに限らず、税金をもっととって医療を無料にするとか年金や生活保護ももっとたくさんもらえるようにするとか、社会的にそういったしくみにすることはできるはずです。 でも日本の今のしくみはどちらかというとむしろ弱者に冷たい気がします。なぜそうなのか、それは昔から「お互いさま」「支えあい」の精神でやってきたからなのではと思います。政府がお金で保証しなくてもなんとかなってきたと。 ですから、「席を譲る」ことのように、そういったことは「その人の判断」に任されているのだと思います。 でも親切って難しいですよね。相手が望んでいるかどうかも分からない。してあげることが本当にその人のためになるかも分からない。 「自分は弱いのだからしてもらって当然」と努力をしないであからさまに「人に頼る」人もいる。 それでも優しくしないといけないのか?そうしないと「常識のない人」と思われたり、罪悪感を感じることになってしまうのか。 要は、その人が「譲りたい」と思えば譲る、「譲りたくない」と思えば譲らない、それでいいと私は思います。 人にはそれぞれ事情があるでしょう。 地球上全ての弱者に対して自分を犠牲にして優しくするのは無理があります。 自分ができることをする、目の前の困っているひとがいたら、できるなら助ける。 余裕がある人、できる人、やりたい人がやる。何も無理にやりたくない・できないのにすることないんです。助け合いってそういうことではないでしょうか。 理由も無く、「やらなければならないからする」というのは、本来の親切とは違います。 ですから、「一般的にお年寄りに席を譲らなければいけない」といわれているのだとすれば、それは間違っていると思います。「譲れる人は譲る社会であると気持ちいいですね」くらいの表現が妥当ではないかと。 あんまり自分に無理してまで人によくすると、かえって人に迷惑かけたりします。 中には、パッと見で「あの人は若いのにお年寄りに席も譲らないで」と思う人もいるでしょう。 でも人はそれぞれです。他人のすることをいちいち批判したりするのは、せめてその人の事情をよく知ってからでないと一概に口出しなどできないと思うので、そう思う人はそう思わせておけばよいと思います。 まとまらない文章で申し訳ありません。参考になりましたら幸いです。
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回答が多いので、ざっとしかみてなくて同じような回答があったらごめんなさい。 私は譲りますが、だからといって他の人が譲らないからといって非難したりはもちろんしません。違法ではありませんから。自己満足が一番近いのでしょうね。 もし子供に、お年寄りに席を譲ることを説明するとしたら まあ道徳的かつ倫理的な説明でほとんどの子供は納得するでしょうけども それで納得できないのであれば、説得は難しいですね。 メリットとして言うとすれば、そのくらいの気遣いと周りを見る余裕・体力があったほうがこの先うまく世間渡っていけると思うよ、くらいでしょうか。これも道徳めいていますね(笑) 席を譲りたくない人は譲らなければいいんです。 見るに見かねるほどでしたら、きっと誰か他の人がかわってくれます。 ただ、自分のメリット・デメリットのみで行動する人が大半になってしまえば、それはとても生きにくい社会になってしまうとおもいます。 個人的に、しんどそうな人を見かけたら席を譲るくらいの余裕は常にもった人間でいたいですね。
- piis111
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>、「だからなに? つらい人がいたら、助けなきゃいけないわけ? じゃ、あんたアフリカの難民とかつらい思いをしてる人に、自分がつらい思いをして稼いだ金、送ったりしてるのかよ!」といわれたら、どうしますか? 「あなた頭大丈夫?」って思います。話が飛躍しずぎですよ。
お礼
回答ありがとうございます。 ただ、本質的には同じではないか、と思うんですが。 極端な例から物事の本質を見るのは、当たり前の論理展開ではないですか? 「話が飛躍しすぎる」といって切り捨てるのは、曖昧な議論を容認することになりませんか? 「頭、大丈夫?」という言葉も、侮蔑的でよろしくないかと思います。
- yuko0401
- ベストアンサー率45% (240/530)
全部の回答を拝見していないので重複していたらすいませんですが、若いと思われる世代にも「できれば座りたい」人もいるし、譲られるべき年齢の世代にも「譲ってもらいたくない人」というのがいると思います。 良い例が、私(33歳)とうちの父(65歳)です。 私は軽度ですが精神障害者です。今障害者として会社に勤めています。幸い閉所恐怖も広場恐怖もありませんが、人が多いところはやはり視線などが怖く苦手ですし、自業自得といわれればそれまでですが、数年前に脚を自傷していたために歩行困難で杖がなければすぐによろめいてしまう時期(20代後半でした)がありました。今は杖はなくても歩けますが、その時の悪い歩き癖がついているのか、今でも吊革一本では立っているのが困難で、かつ疲れやすいためにできれば座っていたいです。 父は60歳前にリストラに遭い、その結果就いた警備士の仕事が58歳から63歳まで、その後警備士の経験を買われ駅前の自転車指導員の仕事をしています。早朝から昼まで、休憩時間以外は立ちっ放しです。かつ、通勤は自転車です。しかも多摩丘陵の端にうちは位置しているので平坦な道はほとんどありません。私が自転車通勤しなくなったので、今は電動サポート付に乗っていますが、よっぽどの勾配じゃない限りサポートは使わないそうです。そしてうちは団地の5階ですが、平気に登っています。「さすがに歳かな、最近はきつい」と言いつつも、お米も量販店で買って持って上がっています。 でも若白髪のため、頭髪は真っ白です。顔はしわが歳の割に少ないので若く見られがちですが、それでも60歳前後には見られると思います。 そんな父は口癖のように「俺はシルバーじゃない」と言っています。滅多にバスは乗りませんが、優先席は絶対座らないでしょうね。 私自身がいわゆる内部障害者なのでよほどのことがない限り譲りたくないのですが「私が立った方が大事にならない」と思えるような、歩くのがやっとという感じのご老人には譲ります。まあ、私があわわと言っている間に他の方が譲ってしまうのですが。 理由は、私が安定しない脚のせいで車内でこけるのと、お年寄りが同じ状況でこけるのとでは、その後が予想がつくからです。私はせいぜい周りの人にぶつかる程度で「いたたた…」くらいで済むと思いますが、お年寄りは簡単なことで骨折します。下手するとそのまま一生歩けないかもしれない…と思うからです。 ですから、うちの父のような脚のしっかりしたご年配の方には譲りません。1度、ちょっと不自由そうなご年配の男性に譲ろうとしたらやんわりと断られたことがあります。 うまくまとまっていませんが…。 若い人でも立っているより座っている方が安全な人がいる(だから近年「シルバーシート」ではなく「優先席」と呼ぶようになりましたよね)けど、お年寄りでもその逆の人もいる、けどお年寄りの方が立っていると危険なことが多い、だから座りますかと声をかけるべきだ、とそういうことではないでしょうか。一見健康そうな人でも、膝や腰を悪くしている方もいるし。 私が伝えたいことが、うまく伝わると良いのですが。参考にならなかったらすいません。
お礼
いいえ、よく伝わりました。ありがとうございます。 具体的な例なので、わかりやすくて、なるほどと思いました。 非常に心の優しい人なのですね。 そんな人ばかりなら問題はないのでしょうが、現実は席を譲らない人もたくさんいますよね。 その人たちは、結局、老人に席を譲りましょう、というスローガンをどう思っているのでしょうかね。
それよりも、もし、譲りたい人は譲ればいいし、譲りたくない人は、「悪いこと」をしていると思わなくてもいい、というコンセンサスができれば、そっちの方がいいんじゃないか…… えっと、ご質問者様と私の認識の違いかもしれませんが、 おっしゃられているようなことは、普通に皆思っていると思うんですけど…。 『譲りたい人は勝手に譲ればいいし、譲らないあなたは全然、悪くないよ』 これではあまりにも普通過ぎて、わざわざ標語にする意味がないです。 【標語】を辞書で調べてみましたが 主張・信条や行動の目標、指示内容などをわかりやすく簡潔に言い表した語句。スローガン。モットー。「交通安全の―」 こうありました。 行動の目標とありますね。 目指すべく所を言葉として表しただけで その後の罪悪感や自己弁護まではかまってられないでしょう? 各々個人で考えて処理してくださいということです。 考えた結果、意識を変える事があればそれは標語の成果でもあるし。 社会の一員として生きる以上、他者との共存は必要不可欠で、 でも個人の幸せも決してないがしろにされるべきじゃない。 税金アップだなんだとかルールとして決めてしまうとアンバランスだから 標語にして、『できる人は心掛けよう』と言ってるまでです。 やっぱり私には難しい事とは思えないです。 何度もお邪魔してすいませんでした。
お礼
何度も、ありがとうございます。 ただ、根本的に「席を譲るのはいいこと」であり、「それを広めるのはいいこと」という固定概念から出発して考えていますよね。 本当にいいこと、なのか。 その逆は悪いこと、なのか。この辺が大問題ではないでしょうか。 よぼよぼの老人に席を譲りたくなる人がいるのは、「よく理解できる」ことであって、もしかしたら「いいこと」ではないのでは? それを「いいこと」と考えるから、反対が「悪いこと」になってしまうのではないか、と読んでいて思いました。 標語にして「心がけよう」ということ自体が、間違っているのかもしれません。そんな気がしてきました。
- kotokami
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他の回答者様が回答されているように、 「弱者を守る」「困ってしまっている人には手を差し伸べる」といういみ以外で答えさせていただきます。 「情けは人のためならず」 をそのまま具体例であげたようなものだと思います。 私も昔はご老人の境ってどこなんだろうと思ったり、 譲らないことがそこまで悪いことなのかなって子供の頃思ったりしたこともありました。 (私の祖父が「電車で席を譲られると、その心にとてもうれしい反面、自分がそこまで衰えてしまっているのかと切なくなることがある、その対応に敬意を表してありがとうって座らせてもらうけれど」といっていたこともあるので) でも、自分が怪我をして松葉杖をついたり、親が年をとり、ひざを痛めたりする様を見ているうちに、ご老人が立っているのを見たりすると、 「うちの親もこういうときに立っていたら・・・」と思ってしまい、 つい、相手が望んでいるかどうかはわからないのに「どうぞ座ってください」って思ってしまうんです。 また、「そういや昔、譲らなかったことがあったなぁ」と思い出して「悪いことしちゃったなぁ、大丈夫だったかなぁ」と後から後悔してしまったり・・・ だから、きっと自分が「相手に譲りたくなるようになったとき」後悔しないように、「自分や自分の周りの人が座席を譲ってもらうことが必要となったときに」自分はゆずらかなかったのに譲ってもらってしまったという恥ずかしい思いをしないで済んだり、人から譲ってもらえるように・・・・ということなんだろうと思います。 あと、良い慣習や社会概念を伝え続けてゆくのには必要なことだと思います。
難しいですか? 難しく考えるから、難しくなっていってるとやっぱり私は思います。 奥の深さは私にはさっぱり伝わりません。 目の前に、困っている人がいれば助けましょ、ただそれだけのことでしょう? 『困っている』の線引きがそれぞれ違うから高齢者や妊婦さんと仮に定義付けただけです。 それぞれが判断していいんですよ。 高齢者だけど元気なんだから席を譲らない、これは例外というものです。 世の中いろんな人がいるんだから、高齢者でも譲ってもらいたくない人はいるでしょうし、その逆も然りです。 常識としてそう思っているので、『説明するまでもない』という表現になりました。 >そもそもなぜ、実現できないような標語を自ら作り出して首をしめるようなことを人間はするのか? 実現できなかったという前提なのはなぜでしょう? もう一度言いますが、逆説的考え方ばかり辿っていっても無意味です。 標語だから、全員が全員ならわなくてもいいじゃないですか。 人殺しと座席を譲ることを同列(延長線上だとしても遥か遠くですよね)にされては 真面目に考える気にもならないのは私だけでしょうか。 >このことに理由がいらないのなら、ほとんどすべてに理由はいらないということになりませんか? ここを最終目的とするならスタートが座席を譲りましょうの標語なのはおかしいです。 私には、つながらない^_^; 標語の話に戻せば、ご質問者様はもう少し臨機応変と言うか、 物事には例外があることを受け入れたらいいのにと思います。 難しいんじゃなくて、難しく考えているだけです、やっぱり。 理屈ではなく、ただ『そうしたほうがいいよ』って言っているだけなんです。 標語なんて、そんなもんだと思うんですが…。
お礼
回答、ありがとうございます。 出発点は、電車などで老人がいても、席を譲らない人がたくさんいる、ということです。 そしてそれは「悪いこと」(もしくは好ましくないこと)とされてしまっています。 ほとんどの人が、それに賛成のようです。でも…… 本当にそうなのでしょうか? と考えてしまったのです。 標語やモラルは、「譲った方がいいよ」とただいってるだけかもしれませんが、その標語を知らない人はいない。みんなが心のどこかでそう思ってるんです。 それでもあえて譲らない。譲った方がいいのに、譲らない。 そして譲らない人は、心の中で罪悪感を抱えたり、自己弁護を始めたりする。 でも、それって非常に不健康で良くないことに見える。 それよりも、もし、譲りたい人は譲ればいいし、譲りたくない人は、「悪いこと」をしていると思わなくてもいい、というコンセンサスができれば、そっちの方がいいんじゃないか…… という可能性もあるのでは? という気もするんです。 ある人の心の中はこんな感じではないでしょうか。 座っていたいけど、譲らなきゃいけないのかな、でも他の人も譲ってないし……なんで私が譲らなきゃいけないの? なんて考える私って冷たい人? でも私だって疲れてるしな。このおじいちゃんと比べたら、そりゃおじいちゃんのほうがつらいかもしれないけど。。。でも、譲ったら、「結構です」とかいわれちゃうかも。それとも、周りから「いいカッコしちゃって」といわれるのもやだし、、、、ああ、どうすればいいの! なんて、これに近いことをみんな考えているのではないでしょうか。 こんな現状を全く問題なし!とはいえないと思うのです。
>いわれなき罪悪感はない方がいいと思うのです これが本音なら「純粋な疑問」じゃなくて完全なデキ質問ですが..... 私としては、それはいたずらな罪悪感ではなく必要な逡巡で、 それを取り払おうとするのは、快適ではなく怠惰だと思います その程度の苦しみは背負え、と書いたのはそういう意味です 余談ですが殺人についても同様です 答えられない大人がいてもいい、むしろそのほうがいいと思います わからないならわからないと正直に言って一緒に「考える」事のほうが大事です スローガンや風習なんてそのための判断「材料」でしかありません 材料に頼り切って「譲らない人が悪い!」といってもダメだし、 逆に無視して「譲らなくていいんですよね?」なんて開き直るのもいけません 依存しきってもいけないし、振り回されてもいけないと思います >誰もが納得できるような理由って、あるのでしょうか? ありません、それぞれ頑張って考えながらやる事だと思います
お礼
回答、ありがとうございます。 デキ質問というのはどういう意味かわかりませんが…… 罪悪感はないほうがいい、というのは当たり前のことではないでしょうか。その程度の罪悪感を背負えというなら、レストランで楽しく食事をする時も、日本で輸入の食物を食べることで、餓えている人々がいるという事実も考えて、罪悪感を感じなければいけないという理屈になるでしょう。そんなことをして毎日生きなければいけないのでしょうか。席の問題も、現状は複雑です。まず、標語があって、そのために罪悪感があって、それでも譲らない人がいっぱいいて、、、なんだかもやもやしているけど、人によってはもやもやでいいんだという人もいて(考えるのをやめてる?)どっちだっていいという人がいて……譲らなくてもいいという人もいて(正直なのか偽悪的なのか)、いや、譲るべきだという人もいて(暖かい人なのか偽善者なのか)、かなり難しい問題じゃないでしょうか。最初から答えがわかっているようなことではないでしょう? 殺人についても答えがわからないなら一緒に考える方が大事、といっていますが、まさに私は一緒に考えたかったのです。まだ、納得できる答えはありませんが……(誰もが納得できる理由はありません、と言い切るのは、少し傲慢ではありませんか?まるであなたが正解を知っているような……)
なんか、いろいろ考えていらっしゃるようですが 『その方がいいから』ではいけないのでしょうか? (身もフタもないかもしれませんが…^_^;) 譲らなければ『いけない』と、言葉尻は命令形ですが 義務づけられている訳ではなく、あくまで任意ですよね? 誰もが納得できる理由なんて別に必要無くて、 敢えていうならみなさんおっしゃる『弱者に優しく』で充分です。 そんなに深く考える事ではないと思うのですが…。 >危険回避という意味であれば、義務にすべき 義務にしなければ回避できない程の緊急性はないということでしょう。 >ただ、関係ねえよ、という人を論理的に説得できるでしょうか。 特に必要無いように思います。 義務ではないので、関係ねえよという権利を その人も持ち合わせているという事になりますから。 >しかし、自然に沸いてこない人は、人間失格ということになりますか? ここまで極端に発想する人は例外と考えていいと思います。 >税金を上げるのには反対です。せいぜい、電車で席を譲るぐらいでいいのでしょうか。 自分の持ち分から他者に譲渡する場合、『それぞれにできる範囲』があるわけですよね。 税金という義務としてしまうなら『それぞれにできる範囲』をある程度は一定に決めなくてはならないわけです。 具体的な金額として目に見えてしまうと敬遠するものでも 席を譲るという軽いものなら受け入れやすい。 そういう心理ではないでしょうか? まして今目の前にいる人が困っているならなおさらです。 税金という結果が曖昧なものでなく、しっかりと目で確認できるわけです。 ここで『自己満足』とかそういうのも絡んでくると思いますが、 特に大きな意味は持たないと私は思います。 >標語は罪悪感を生むだけ、という気もするのですが…… そういう場合もあるかもしれませんが 標語を見て『譲ろう』と思う場合もまたあることを理解してください。 以上、全てこんなこともいちいち説明しなければならない(理由がいる)のかと 私にとっては呆れてしまうような内容です。 ↑質問者様の言葉を借りるなら、『反語的な意味ではなく、純粋な疑問』です。ご理解下さい。 逆説的考え方ばかり辿っていっても無意味です。 本を読みたいから座り続ける若者も、元気なくせに席を譲れと強要する高齢者も 別にいていいんですよ。社会に適合しづらいだけで許容範囲内。 目くじら立てて統一するようなことではないと考えます。
お礼
回答、ありがとうございます。 ただ、当然のことで、答えるまでもない、というような意見は非常によくないと思うのです。この問題は、とても難しく、また、社会や人間の優しさ、助け合い、自己の権利、行き過ぎた個人主義、行き過ぎた善意の強要、など、考えれば考えるほど、奥が深く、我々の生活にも影響のあることだと思うのです。そもそもなぜ、実現できないような標語を自ら作り出して首をしめるようなことを人間はするのか?このこと一つとっても、考える価値があると思います。このことに理由がいらないのなら、ほとんどすべてに理由はいらないということになりませんか? 「弱者に優しく」でいいじゃないか。まあ、難しく考えるなよ。というのは簡単ですが、なぜ人殺しはいけないのか? と子供に問われて答えられない大人が増えてしまってもいいのでしょうか。
>理由はなんなのでしょう? かわいそうだからじゃないですか? ちなみに私は同情は悪い事ではないと思ってます かわいそうだと思わない、または自分の境遇のほうが不幸だと思うなら、 譲らなくていいと思うし、 それを譲らせる理論なら、ないと思います 子供に聞かれても祖父母に聞かれても、私はそう言いますし、 そこから先は本人が模索する事です(と言い渡します) ただし、同様に、人のためになる標語をわざわざ廃止させる理由もないと思います 社会生活を営む以上、罪悪感とくつろぎの間で迷う、 程度の苦しみは背負って下さいな お年寄りもまたこういった標語などにより、 若い人よりは「譲ってください」と言い易い環境はそれなりに用意されており、 申し出る恥ずかしさと、 体の痛みとの間で戦っている(かもしれない)ワケで、 迷うという事においては皆平等だと思います >俺は将来、べつに譲ってほしくねえもん と思っている人だって、こういう考えをずっと持ち続けていれば、 普通は周りに嫌われますから(笑) 嫌われてでも我が道を行くか、の選択を迫られる事になります
お礼
回答、ありがとうございます。 かわいそうと思える人には、必ず席を譲っているのが現実です。 でも、70越えている人が電車で立っていると、かわいそうと 必ず思うか、自分の席を投げ出してもいいと思えるほど、 かわいそうと思えるかどうか、というのは非常に微妙だと思うんです。 というか、おそらくそれほどかわいそうには思っていない人がおおいのでは?それでも「席は譲るべき」というスローガンが、いたずらに罪悪感だけを植え付けている。お年寄りも心の迷いがあるから平等だといいますが、どこか歪んだ平等感ではないでしょうか。少しでも多くの人が快適に暮らせたほうがいいわけですから、いわれなき罪悪感はない方がいいと思うのです。もちろん、譲らない人が「悪い!」というのなら、罪悪は仕方がないのですが……(譲らなくていいんですよね?)
- marinesam
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#13です。 >多くの人の自尊心が許さず、席を譲るのが当然、というのであれば、 譲るべきという標語めいたものは必要なくなるのではないでしょうか。 今に始まった話ではありませんが、他者への配慮のできない人は少なからずいます。 人から何と思われようが気にしない人には何を言っても無駄なのも昔から変わりませんが。 足元のおぼつかないお年寄りがいれば座っていただくのが自然の流れでしょう。 「お年寄り」と一括りで言っても、見るからに壮健そうな方はたしかにおられます。 しかし「人生の先輩」に対する敬意は持っていたいと思います。 「この、くそババァ!」と思うような事もないわけではありませんが…^^
お礼
再びの回答、ありがとうございます。 確かに、個人的には高齢の方には敬意は持っているつもりです。 でも、それが自分の権利を放棄して、譲るということとなじんでいるか、ということなのです。敬意は払うが、席は譲らない、ということはありえないでしょうかね。 簡単にいうと、よぼよぼのおばあちゃんが乗ってきたら、まず間違いなく誰か席を譲ります。でも見た目はあきらかに70歳越えてるけど、わりとしっかりしてる人には、まずは譲らないという現実もあるんです。席を譲るべきという常識を持っている人々が、ですよ。そういう人たちは、悪いことをしているのだから、罪悪感を持って電車に乗らなければならないのかどうか。その辺りが非常に気になるんです。もしかしたら、譲りたい人は勝手に譲ればいいし、譲らないあなたは全然、悪くないよ、という標語の方が正しいということはありませんか。
お礼
回答、ありがとうございます。 みなさん、だいたい同意見だったのですが、ようやく 「席を譲るべき」なんてスローガンはいらないんじゃない?という 意見が出てきましたね。私ももしかしたら、そうなんじゃないか、 いや、でも……みたいに悩んでいたところです。 まず「席を譲るべき」ありき……みたいな風潮の中で、 実は多くの人が罪悪感を感じたりして生きているのは、 いかがなものか、それはしかたがないのか……そのへんがわからなかったのです。