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天台宗の「堂入り」は苦行で釈迦の方針に反するのでは?
まったくのシロウトですが、釈迦は苦行を否定していた記憶があります。 そこで話題になっている天台宗の「堂入り」です。 「堂入り」は釈迦の方針に反してはいないのでしょうか?
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間違えてはならないのは、アングリマーラの場合は悪業による報いである“苦”であり、釈迦の否定した積極的な苦行のみによる解脱をもとめることとは大きく違います。 また、先にも述べたとおり回峰行はあくまでも“自行”であり、菩薩行である代受苦(化他行)ではありません。行者は不動明王になりきり、比叡山中峰々に数百ある礼拝場所を礼拝祈願をすることによって不動明王の功徳を体現しているのです。行者はあくもでも不動明王の仏身そのものであり、他の修験道のような単なる礼拝懺悔行とは違うのです(ここポイント)。 回峰行に入行する行者は既にソレナリの行者なんです。 さらにまた、火中に身を投じるウサギの逸話やすすんでトラに食われる逸話、菩薩行である代受苦はあくまでも布施の精神や慈悲の心を説いているのであり、これは、本当の布施行が如何に難しいか、慈悲とはどれほど大きい心であるかを表現しているのであって、間違ってもそのような苦行を薦めているのだと勘違いしてはなりません。 そしてさらに、釈迦は“生天のための苦行”を否定したのではなく、苦行だけでは悟れないことに気づいたのであり、これは先にも述べた通り苦行により悟ったのです。 悟りは苦楽を超越したところにあります。苦行もソレナリに必要なんです。 ゴキゲンヨウ (^^)v
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苦行をしたということは事実のようで 否定したと言うより 過ぎたるは及ばざるが如し ということなのではないでしょうか。 この行為は解脱に至るに必要ないものであったとは 本人でも言えないことなのではないでしょうか。 さとりとか解脱とか釈尊が伝えたものは 自らが生きていく中でその身体を通して経験し 学び、哲学していった全過程の結晶化なのだと思います。
お礼
henokuappaさん回答ありがとうございます。 >過ぎたるは及ばざるが如し 堂入りは9個間も水も飲まないとか「過ぎたる」に当たるような気もしますが・・・・。
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お礼
>先にも述べたとおり回峰行はあくまでも“自行”であり、菩薩行である代受苦(化他行)ではありません。 なるほど、そうでしたか。代受苦ではなかったんですか。それならスッキリします。 susiddhiさんの論理が1番スッキリしました。(唯一、不動明王という超常現象的なところだけは?という感じでしたが) 釈迦は生天のための苦行を否定、苦行のみでの悟りを否定。そして悟りのための修行の一過程としては苦行を否定していない。 堂入りは生天のためではなく、また悟りのための修行の一過程の苦行であり、代受苦ではない。 ということですね。 回答ありがとうございました。