価値はみな同じだと思います。
いのちを「持っていること」は同じでも、「同じいのち」を持っている人はいません。その人が今生きて、持っているいのちはその人のいのちです。
AさんとBさんは違う人間です。Aさんの生きている人生はBさんの人生ではありません。Bさんの人生にとても深く関わったとしてもAさんの人生はあくまでAさんの人生です。(だからといってAさんが自分の人生を好きにしていい、例えば自殺しても良い、となると話は別です)
そして、AさんとBさんがどんなに似た価値観や性格を持っていたとしてもAさんにはAさんの、BさんにはBさんの人格があります。どんなに性格が似ていようが価値観が同じだろうが、同じ人格ではありません。
つまり同じ人間は誰一人いない、と言うことです。
尊い生命を持っている、別の人格である、ということにおいて全ての人間は平等です。その人にはその人の生き方、人生があり、誰かが同じように歩むことは絶対にできないものです。例えどんな人であろうと、同じ人間は誰一人いないということが価値のある事だと思います。
自分にどのような関わりがあるかどうか、によって価値というものは変わってくると思います。
とある人は街中ですれ違っただけで価値を感じるほどの人ではないかもしれない、また別の人にとっては命を救ってくれたほどの大恩人かもしれない、一人の人間の価値を感じるのは自分、もしくは自分を含める環境にどのような関係があったか、と言うことだと思います。ひどく主観的なものだと思います。
自分にとって、誰かにとって、そういったことを抜きにすればどんな人間にも価値はあります。価値のない人間なんていません。
その人にしかできないことがあるから、この世に存在している、私はそう思いたいです。人間の価値を決める要素、私は人間に生まれてる時点で価値ある人だと思います。人間だけじゃなく、存在している全ての物は価値があるからこそ存在できるのだとも思っています。
自分自身が本当に辛くて悲しいとき、友達が何も言わずそばにいてくれました。その子がどんな人間であるかなんて関係ありませんでした。価値があるとか、ないとかじゃなく、ただそこにいてくれる、それだけで私には十分でした。何気ない一言、さりげない優しさに救われることもあります。
「生きていく」上で必要なこと、日常の中にたくさんあって自分が気づいていないだけなのかな、と思いました。
長々と書いてしまいました。何が言いたいか、はっきりしなくて申し訳ないです。あくまで私個人の思うところを書かせていただきました。
奇麗事だ、と思われるかもしれません。自分自身、奇麗事を言っているだけのような気もします。けれど、価値のない人間という考え方があることが悲しいです。嫌いな人だって、憎い人だっています。それでも私はもっと人間の温かい心や可能性を信じたいです。