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1998年くらいから、ゲームが無機質になった気がします…。

どちらかというと所謂マニアな方よりも、お子さんがいるお母さんとか、昔ゲーム好きだったけどもう卒業してしまった方に伺いたいです。 表題の通りなのですが、1998年あたりからゲームが無機質になって魅力的ではなくなったように思えるのです。 例えばドラクエなら、5までは瑞々しい情感にあふれていて、“ああ、創った人の想いが伝わってくるな…”と感じていたし、マリオも64まではそうでした。荒唐無稽なヒーロー物でも、(例えば忍者龍剣伝とか)大人の視点から見てものめり込めるほどカッコよかったと思います。 でもいつからか(自分は1998年ころからと踏んでいるのですが)、そういうアナログな息遣い、みたいなものが枯れてきたように思えるのです。ドラクエは6から、マリオはサンシャインから、どこがどうと言うのではないが、『機械的で冷たくなった』感じがするのですが、これは自分だけでしょうか?FF10も確かにストーリーは良かったのですけど、4などとくらべると後味がデジタルというか…。 自分の場合は、その頃から少しづつゲームから離れてゆきました。ヒマ潰しにはやりますし、面白いゲームもあるのですけど、全身の感覚を震わせて感動できたゲームは、不思議と全て2000年以前のものばかりです。今はもう、どこを向いても非現実的で気持ちの悪いキャラばかりだし、豪華な冷凍食品を食べたような後味しかしないので、ホントにヒマ潰しでしかやりません。(ただ『ICO』と『ワンダと巨像』は素敵でした。『どうぶつの森』の通信プレイは楽しそうなのですけど、男なので…) こういう感覚を経験した方、おられますか?何故こうなってしまったのでしょうか?似たような感覚をお持ちの方で、今でも『このゲームは面白い!』っていうのはありますか?ご意見をお聞かせ下さい。

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  • heinell
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回答No.11

いくつかの要因が思いつきます。 まず、買う側の購入基準。 ゲームマニアな事が周囲に知れ渡っているので何か紹介してくれと訪ねられる事がありますが、今は「脳トレのオマケに買えるゲームない?」って言われます。 そういうのが求められているんであれば素晴らしいゲーム自体が求められていないというのもあります。 (素晴らしいゲームを求めている私たちが切り捨てられる少数派) またインターネットなどによりコミュニティが豊富になった影響はありますが、その分話題になっていないゲームは小規模コミュニティとなり、加速度的に消滅しやすくなっている。 「買って面白くても、みんなと共通の話題にならないなら意味がない」という側面が強すぎる気がします。 そのためどうしても続編のような話題にするのが容易なタイトルに偏りやすくなり、実は光っているタイトルが埋もれたまま掘り起こされない。 一度その流れが出てくると加速度的にその方向へ勢いづいている感じです。 おそらく、誰もが「何を仰る。今だって素晴らしいゲームはいくつもあるぞ」と考えてはいるんですが、それ以前の買う側の基準が変わってきてしまっている。 私だって「コレは本当に良いんだ!」って力説したいタイトルがあっても、知名度がちょっと下がると「どうせみんな知名度の低さから無視するだろう」と諦めて勧めにくいと感じますし。 案外「俺だけが好きなゲーム」が認められにくい時代なのかもしれません。 あとは作り手側の問題としてですが… 参考になると思うのが、ウルトラマンをデザインした成田亨氏のエピソードです(出展:Wikipedia) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E7%94%B0%E4%BA%A8 >脚本家・金城哲夫から「いまだかつてない格好のいい美しい宇宙人が欲しい」と注文を受けた成田は、 >余分なものを徹底的にそぎ落とす作業を繰り返し、現在のウルトラマン像を作り上げた。 (中略) >成田は後に生み出されたウルトラ怪獣の奇怪で複雑なデザインを嫌った。 >デザイナーが表現の初期衝動を大事にせず、物のかたちの根底や問題の根底を問わず、 >既存の怪獣デザインの枠内だけで怪獣のデザインを考える安易で狭い姿勢をとり続ける限り、 >既存の怪獣の単なる組み合わせや複雑化などデザインの堕落が進むと批判した。 >「新しいデザインは必ず単純な形をしている。 >人間は考えることができなくなると、ものを複雑にして堕落してゆく」と彼は雑誌の取材で述べている。 >(模型誌「B-CLUB」1986年11月号) 昔のゲームはハードウェアの性能上どうしても余分なものを徹底的にそぎ落とし、単純なものにしなければ実現できなかった。 しかし今はそぎ落とす必要が無くなったのでそこに労力を払わなくなったと言えるのかもしれません。 映像や音声関係は確かに新たな技術によって品質が飛躍的に向上しますが、ゲームのシステム的な部分やシナリオ部はそういう進化がほとんどありません。 ただ容量と演算速度の強化による制約が無くなった程度でしょう。 そこが一番進化が遅れ、逆にブラッシュアップが足りなくなり事実上退化していると考えます。 特に上記のエピソードじゃないですが「ものを複雑にして堕落してゆく」という退化から抜け出ていないと感じます。

yuji2553
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 社会現象学(そんなのあるのか?)的な分析ですね。 >共通の話題性がなければ切り捨てられる 鋭いですね。確かに今ミリオンを飛ばしているゲームは、勿論デキが凄いという面もありますけど、言い方を悪くすれば『みんなが買ってるからなんとなく』という惰性で規模が拡大している面もあるのでしょうね。『脳トレ』ブームで、デキの悪い3流知育ゲームまでがそこそこのヒットを飛ばしたり。 勿論昔でも『ドラクエ』後の二匹目の泥鰌を狙う粗悪メーカーとかも多かったのですけど…現在のそういうブームは、どこか慢性的に拡大してゆく気がします。勢いがあるワケではないが、気がつけばいつのまにかとんでもないヒットになっていた、と言うか。そこも、熱が感じられない分どこかデジタルに感じます。 >「ものを複雑にして堕落してゆく」 とても興味深く読ませていただきました。私は任天堂信者ではないですが、一昔前に任天堂が触れていた『質より量の進化』に似ていますね。もっとも今は当の任天堂も同じ轍を踏んでいるのですけど。例えゴージャスな洋装を帯びていても、必ずしもシンプルなインパクトに勝るものでもない、と言うことなのでしょうね…。

その他の回答 (14)

noname#40598
noname#40598
回答No.15

いやーどうもー。 かなりの意見がでましたね。 ところで話の中に悪魔城ドラキュラが出ましたね。 全く同感です。 あれは出来てる部分で言えば、アクション下手な人でも経験値システムで切り抜けることが出来る意味で割と大勢の人が好意的だったようです。 しかし、おっしゃるように無機質に感じることの一つが完全なパターン化というのがあったように思います。 フロアに入ると決まり切った敵が全く同じで配置され、プレイヤーが覚えてしまえばたちまち単純作業となり、ボスを捜してうろつくのがおっくうになってしまう。 また、ボスの配置もかつての作品にはそのイメージに合った舞台が用意されていたのにこの作品ではただの開けた場所に障害物として配置されていただけで、ストーリー上重要な場面と思えるリヒター ベルモンドが操られて敵をけしかけてくるシーンなど、敵を倒せば通過出来るようになるだけというお粗末さ。 主人公アルカードの重要な秘密を握ってそうなサッキュバスさえ倒せば 「許してください・・・キャーーー!!!」 だけですものね、あの味気なさはなんだったのか・・・ とにかく間抜けな演出を隠すためにド派手な音楽と時間のかかるレベル上げを付けただけ、といった作品でしたからね。 ドラクエ・・・個人的には請け負っていたチュンソフトは楽しませるノウハウに長けた会社であったと思います。 新たなシリーズを請け負うところはビジネスライクなのでしょう。 仕事だから作ってる感が強いです。 ちなみに知ってましたか、エニックスは昔っから外注ばかりでやってきたところなのですよ。 もともとエニックスは書籍を扱っていたところなのですが、ネタだけ下請けに渡して、後はまかして、販売はエニックスと言うことだったのです。 だからスクエニになった今でも実働部隊はスクウェアチームのはずですよ。 スターオーシャンだって開発はトライエース、販売はエニックスですよね。 ヴァルキリープロファイルもそうなってますよね。 だからドラクエは正確にはエニックスの力によるものではなく、原作の堀井祐二氏、音楽のすぎやまこういち先生、イラストは鳥山明、制作はチュンソフトと、さまざまな分野の人が手を組んだ作品なのです。 かつてこのチームで成功したのが、チュンソフトが外れることでバランスが保てなくなっている。 故に質問者さんは違和感を感じるのでしょう。 鋭い方だと思います。

yuji2553
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >『月下の夜想曲』 そうなのですよね…あまり言ってしまうとファンの方に失礼なのですけれども。例えばザコキャラでベイガンとギャイボンと言うのがいるのですが、これは過去作ではドラキュラの親衛隊で、身の毛もよだつ様な演出のあと立ちはだかってきた、物凄く創り手が拘ったキャラだったのですよね。それが月下では無造作にコピペされてしまっていたのが、何だか機械的でした。あとは何百回も攻撃しないと倒れないファイナルガードとか、もそうでしたね。 >チュンソフト 確かに…6以降の違和感は、チュンソフトの不在故、なのかも知れません。ただ、当のチュンソフトも今や企業的に苦戦していることもあるのか、全てが全てかつてのように血の通った作品ではなくなりましたね…。 それにしてもエニックスはもとは書籍会社だったのですか。通りでクインテット作品にせよドラクエにせよ、テキストや言い回しのレベルが昔から高かったのですね。 ありていに言うと、今は『見た目』が最重要なのかも知れません。昔は、エニックスに顕著なように『グラフィックがショボくても語りが洗練されている。』というゲームでも、脚光を浴びることが出来た。 今はそれは、とても難しいような気がします。NO1の方が触れて下さったラブデリック系のゲームは、マイノリティ的な位置づけですし。給与形態の面で言っても、今は血の通ったテキストを書く人よりも、スクウェアなどで大量に採用されているグラフィッカーの方が優遇されてしまう気もしますね。 おっと…、こんなこと書くと『ポケモン』や『どうぶつの森』で楽しんでいる若年層の方たちには懐古趣味の老人に取られても仕方ないですね(笑)。

yuji2553
質問者

補足

もう少し色々な意見を伺いたかったのですけど、なんだか雲行きが『楽しく談話』と言うワケにもいかなくなってきたので、この辺で締め切らせていただきますね…。それでは。

  • Z222
  • ベストアンサー率78% (327/416)
回答No.14

なるほど。だいぶ分かってきたような気がします。 プログラムもグラフィックも、その作りが完璧になるにつれ、 人の手で作られたような感じが、なくなっているからでしょう。 そして、現状の趣向に合わせた売り方。何もかもが計算されつくして、 まるで機械が自動的に作っているような、そういう感じになってくるのでしょう。 多少不完全である手作り感、そういう物を求めていたのではないでしょうか。 前の回答では、見るほうを間違えていたかもしれませんが、 これでも「誤解している」と言われたら、おしまいですね。

yuji2553
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 その見解で正しいです。 ただ、ディベート論争をしているのではないのですから、もう少し穏やかにお願いします…(度々横槍のような物言いをして申し訳ないのですけども)。 今日はもう夜も更けたので、これで失礼させていただきます。

yuji2553
質問者

補足

どうやら以前の自分の回答者様へのお礼が、不快を抱かせてしまったようで、その点はお詫びします。ただ、この場ではなるべく『その見解は間違っている・この見解が正しい・どれそれの見解が劣っていて、どれそれが優れている』と言うタイプの『論破』的な展開はしたくなかったのです。なるべく平和的に意見交換をして、できれば女性の方やお子さんをお持ちのお母さん方たちの意見も伺いたかったので。 申し上げにくいのですが、以前の回答者様の発言には、触れていることは確かに参考になりました。が、多少言動が高圧的なきらいがあったため、少し釘を刺させていただきました。そのことが不快に感じられたのであれば、この場にて改めてお詫びいたします。

noname#48486
noname#48486
回答No.13

前に回答した者です。お礼読ませて頂きました。 あと少し気づいたことがあるので追加回答しておきますね。どうぞ参考程度に…。 >そう簡単にはスクラップビルドなどできないのでしょう… あまりにも規模が大きくなってしまうと、やはりそう簡単にはできなくなるでしょうね。 マリオの生みの親として有名なクリエーターの方は、制作中に行き詰まりを感じると それまで積み上げてきたものを捨てて、ゼロからつくりなおすという いわゆる"ちゃぶ台返し"をすることでスタッフから恐れられていた(?)そうですが さすがに当時のように派手な"ちゃぶ台返し"をすることは難しくなっていると思いますし…。 (ただ任天堂は「研究開発には比較的お金を使う企業だ」といわれることが多いそうですので  今でも"茶碗返し"くらいは頻繁に行なわれているのかもしれませんが…) あと、既にどなたかが回答の中で書かれていたかもしれませんが 最初はずっとゲーム制作の現場に携わってきていたクリエーターが 会社の規模拡大により、抱えるプロジェクトが多くなりすぎて 別のクリエーターが現場の指揮をとり、自身は監修するに留まるとか または制作自体を完全に外注にまわしてしまうケースもあると思いますので それも作りこみが甘いと感じるゲーム(無機質と感じることも…)が 増えている一因として考えられますね。 例えば、FFシリーズ生みの親として知られるクリエーターの方は FF1~FF7までは"プロデューサー"という肩書きでしたが FF8以降は"エグゼクティブプロデューサー"という肩書きに替わっています。 仕事内容が具体的にどのように変わるのかは分からないところが多いですが FF8からは、現場から少し離れたところにいた可能性がありますね。 (この方自身は既に退社して新会社を設立しています) 外注の例では、"ドラゴンクエストシリーズ"は開発を外注にまわしているそうですが 1~5(ファミコン版)までは、「風来のシレン」などで有名な"チュンソフト"が開発していました。 しかし、6以降は開発会社が替わっています。 「替わった開発会社がチュンソフトよりも甘い仕事をした」とは思いませんが 5まで慣れ親しんでいたユーザーから見れば そのことで多少の違和感を感じることがあったのかもしれません。 あと自分が知っている限りでは、"ファイアーエムブレム"シリーズは 1作目のファミコン版"暗黒竜と光の剣"から、スーファミ版"トラキア776"(聖戦の系譜の外伝)までは 同じ方がずっと"ディレクター"として制作に深く関わっていましたが その後、その方は退社して新会社を設立したため GBA版として発売された"封印の剣"からは、その方は制作に関わっていません。 これらのことから、当初開発に関わったスタッフや会社が変わっていくに従い シリーズ初期のものと比べて、制作者の"こだわり"(良い意味でも悪い意味でも) のようなものが感じられなくなってきて、それが我々ユーザーにとっては "何だか味気ないもの"(無機質なもの)と感じられるようになってきたのかもしれません。 行列のできる"有名店のラーメン"が、カップ麺になって売られていたりしますが やっぱり実際に店まで足を運んで食べるものとは別物だという感覚に近いかな?(違うか…)

yuji2553
質問者

お礼

再度の回答、ありがとうございました。 やはり製作規模が大きくなると、行き届かなくなる部分も大きくなるというのが大きな要因なのでしょうね…。コンサートを考えると、どう考えても小規模バンドの方がオーケストラよりも個性を発揮できますし。 ただゲームで不可解なのは、例え個性が埋もれがちなオーケストラでも、ソロパートとか少数演奏パートのような要素を上手く組み立てれば、大規模でも個性を際立たせることは出来るワケで、そういった兆候が中々見られないのは、ただ単に製作が拡大・分業化したから、ってワケだけでもなさそうですね。 >スタッフや会社が~無機質なものと感じられるように。 これは、あるでしょうね。良くアニメで、原作者が全く関与していないアニメオリジナルのエピソードとかありますけど、殆どの人が『なんか違う』って分かりますからね。FFも、FEもその意味では今はもうアニメオリジナルみたいなものなのかも知れません。

noname#48486
noname#48486
回答No.12

とりあえず自分が思っていることを書かせてもらいますが ちょっと質問とはズレているかもしれません。その時はご容赦下さい。 "ゲーム不感症"なんていう造語もあるらしいですが↓ http://guideline.livedoor.biz/archives/50974692.html 質問者さんの聞きたいこととはちょっとズレているのでしょうかね。 (懐古とはちょっと違うので完全に的外れではないと思うのですが…) 自分もとりあえず最近のゲーム機のほとんどを所持していますし それなりにソフトも買いますが、総プレイ時間はかなり少なくなっています。 自分がそのようなソフトが増えてきたように感じる最初の要因として考えられるのは プレステで発売された「FF7」の登場ですかね。 発売されたのが1997年1月なので、丁度質問者さんのいう時期と一致しますね。 (ただこれはあくまでも要因であり、この当時はまだゲームに熱中していました) 当時は自分もかなり楽しめましたし、満足度も高かった記憶があります。 でも今振り返ってみると、その当時の"楽しめた"という感覚は それまでの"面白かった"という感覚とは明らかに違っていたと思います。 ムービーがふんだんに取り入れられたり、操作が複雑になり過ぎたりして 「自分がキャラを操作してゲームを進めているんだ」という感覚ではなく 「あらかじめ作られた世界の中で遊ばされているんだ」という感覚が出てきたのでしょうか。 (まあ…今までも「遊ばされていた」のですけれどもね) またCD-ROM、DVD-ROMがソフト媒体として定着してきたことにより ビデオやPCソフトとの境界線が無くなってきたようにも感じますから いわゆるオタクの方に向けたキャラクターゲームも出てきやすくなっていますし それらのゲームは実際それなりに売れていますから メーカーにとっても外せないジャンルのゲームとして確立していると思います。 ※ただ通販サイトなどの売上げランキングと 実際のランキングとの間には、かなりズレがあることも事実です。 (このあたりはネット特有の現象とでもいいましょうか…) 先の例で言いますと、やはりFFの方が実際のランキングでは上になると思います。 あと考えられるのは、単なる"ソフトの作りこみの甘さ"でしょうか。 ソフトメーカーが1年の内に発売するタイトル数も増えていますが それにより、以前よりもはるかに多くのスタッフが制作に携わるようになり それだけ大味なものに仕上がってしまうことが増えきているようにも思います。 昔は、1本のソフトに携わるスタッフの数は多くても10数人程度だったと聞きますので 例えるのであれば「粘土を皆でこねながら少しずつ形を整えていく」 ようなアナログ的な制作方法がとられることが普通だったと思います。 ですから、1本のソフト制作にかなり時間はかかってしまいますが それだけ手作り感が感じられるソフトが多かったのだと思います。 でも、今では100人以上のスタッフが携わっているケースも少なくないと聞きます。 そうなると、どうしても分業体制にならざるを得なくなると思いますので 以前の「粘土を皆でこねながら~」という感じの制作方法をとることは難しく 例えるなら「それぞれ別々の部署の人がつくったパズルのピースをはめていく」 という感じの機械的な制作方法になっていることが多いと思います。 それぞれのピースをはめていくときに、無理矢理はめ込むのではなく ピースの角を少し削ったり、時にはピース自体を作り直すなどして 以前のような手作り感を良い意味で残したソフト制作も不可能ではないと思いますが それはプロデューサーやディレクターの力量が問われるところなんでしょうね。 そのような人はごく少数なのが現実なのではないでしょうか。 それが質問者さんの「ゲームが無機質になった」と感じる要因の1つになっているような気もしますね。

yuji2553
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 >『ゲーム不感症』 自分もそれなりの年齢なので、経験がらそういう面が全くないとは言い切れませんが、ここで触れてるのとはちょっと違うかな?ただ、それと似た現象はドラクエ7をやっていたときには感じました。 >1997 そうですね。ちょうどその頃から兆候が出てきたかな。因みに自分がFFでそれを感じたのはFF6の後半辺りからでした。自分の場合1997年に、“なんか無機質だなあ”と一番感じたのは、『ドラキュラ―月下の夜想曲』でしたね。映像も音楽も凄すぎるのに、何故か冷たい石を噛んでいるような感触が拭えませんでした。 >粘土とパズル 上手い例えですね。100人単位と言えば、ヘタな中小企業の総従業員数 を軽く越える人数ですよね。その規模で製作した場合、例え後で修正したほうが良いと感じても、水泡に帰す経費や労力を考えれば、そう簡単にはスクラップビルドなどできないのでしょう…。そんな面もあるような気がします。

  • benelli
  • ベストアンサー率51% (78/152)
回答No.10

私も10年ほど前ぐらいからだんだんと味の無いゲームが増えている気がします。  といっても今でも「このゲームは面白い!長く遊んでも飽きない!」ってゲームは半年ペースで 出ていますが。  つまらなくなっている要因のひとつとして考えるのは、「ウリ」の部分しかウリとはなっていない ゲームが増えたからかな? という感じがします。  例えば「映像がウリ」のゲームは映像がきれいなだけで後は稚拙だったり、「リアルさがウリ」の ゲームではリアルだけどゲームバランスが崩れていたり、そんな感じです。  名作と呼ばれるものはその時代の技術で出来る精一杯のことをやっていますけど、まるでゲーム会社の 投資者へ説明するかのように「ウリ」の部分を強調しすぎているゲームが多い気がします。  あとやたら目立つのがネームブランドを前面に出した作品ですかね。前作が売れたからといって次回作を 新人や外部の会社に作らせるのはいかがなものかと感じます。 (自分はプログラマーの仕事しているので、よいプログラム、ダメなプログラムが分かってしまう…… 逆にファミコン時代のプログラマには脱帽です……) >似たような感覚をお持ちの方で、今でも『このゲームは面白い!』っていうのはありますか? 自分としては「エースコンバット4&5」「Devil May Cry(1だけ……)」「ウォーシップガンナー2」 とかが最近のゲームで特にのめり込んだゲームでしょうか。どれも「敵を倒すゲーム」なのですが 「ストーリーなど他も同じぐらい重視」しているのが遊びがいのある部分ですかね。 「ICO」も確かに面白かったですね。

yuji2553
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 とても鋭い分析ですね。 >「ウリ」の部分しかウリとなっていない >ネームブランドを前面に出しすぎ 確かにそうなのですよね。とは言ってもこれらは創り手の怠慢ではなく(勿論それもあるでしょうけど)ビジネスの高速・肥大・熾烈化の中でやむなく取らざるを得なくなる苦肉の策なのかも知れないのですけど。 『○○監修!』『○○絶賛!』『○○最新作!』(←○○=著名人)と大業にPRしておきながらデキは三人前、とか、雑誌でPRしているウリの部分以外はまるで平面的、というゲームも増えました。最近の例で言えば某超有名クリエイターが手掛けた期待の新作が、フタを開ければ信じられないほどの低品質だったと言うのがありますね…。昔も『た○しの挑戦状』とかバ○ダイのキャラゲーとかはそうでしたけど、規模は今の方が大きいですね。そうしないと生き残れないのでしょうけど…。

  • k-ren
  • ベストアンサー率44% (367/819)
回答No.9

ANo.4です どちらかと言えば、今は「オタク」っぽいのが増えて、「マニアック」なものが減ってきた・・・でしょうねえ・・・ゲームとして楽しむわけでなく、ビジュアル的に楽しむようになってきた、というのか・・・下手すればただの「エンターテイメント」ですよねえ・・・ そこに違和感があるんですよねえ・・・わたしとしては・・・ そんなら、わざわざ「ゲーム」にしなくてもいいと思うのですが。 だって、攻略本なんてすぐに発売されるし、見ないと絶対判らないような事もあるし・・・(その点では攻略し甲斐がありますが・・・)これって結局なんなの? ですよね・・・

yuji2553
質問者

お礼

回答ありがとうございました(笑)。

noname#40598
noname#40598
回答No.8

三度目の登場です。 いやいやどうしてどうして、今時の子は昔に比べておしゃれに気を遣うものですよ。 つまり、少しくらいは大人に見えてしまったりするのです。 堂々とショップで物色してる子もよく見かけますぞ。 もちろんスマートにネット通販で手に入れる子もいるでしょう。 つまり手にすることはたとえ18禁であろうとたやすいのです。 こんな事書くとNGかもしれませんが、猟奇的なものを手にする子もよくいるのです。 まあ、家族や彼女のいる年齢の方はこんなのいらないでしょう。 ちゃんと望む相手がいるのだから。 愛すべき人がいるのにドールとか買わないし、興味あったらちょっとこわいですね。 まあ大人で買う人は、一人暮らしで暇のある人とか、旦那さんと問題ありとか・・・フリーなことしかしてらっしゃらないかたでしょうねコミケ行ったりとか。 ああ、通報な気配が・・・

yuji2553
質問者

お礼

回答ありがとうございました(笑)。

  • Z222
  • ベストアンサー率78% (327/416)
回答No.7

私は自分の感じた事が、何かの参考になるかと思い、投稿させていただきました。 別に懐古主義を批判しているわけではなく、 考え方をちょっと変えてみれば、今のゲームも少しは面白いものに見えるかなと思っただけです。

yuji2553
質問者

お礼

再びの回答ありがとうございました。 勿論、古い人間だからと言って現在を否定的に眺めるのは、今の時代の人たちにとってとても失礼なことですよね。それは理解しています。ただ、それでもやはり今のゲームの兆候は、どこか…不健康と言うか、そういう感覚が拭いきれないのです。それはやはり私が古い人間だからなのかも知れないのですが。

noname#40598
noname#40598
回答No.6

あっ、質問者さんの言いたいこと分かってきた気がしますです。 おたくっぽいとは、いわゆるギャルッぽいのが多いとかでしょうか。 確かに昔はアドベンチャーゲームがあり、仕掛けも工夫も凝りに凝っていて・・・確かに今時のゲームにはなくなってしまったものがたくさんあるように思います。 少なくとも今時のアドベンチャーゲームと言えるサウンドノベルも昔は硬派なホラー系で脅かしたりして引き込ませてくれたものでしたが、今の惨状は何とも言えない物がありますね。 ギャルゲーファンの方に通報されそうですが(笑) おたくっぽいというより正におたくゲームな時代であるといえよう!!!! 故に若いお子さん達が同人誌などにくわしかったり、コミケに出現するのも時代の流れなのでしょう。 秋葉原も電脳街とは言えないほど、変わった人たちが闊歩してますからねぇ。 当然、受けるのならばアニメだっておたくになるわけです。 近頃のアニメは見てて照れくさくなりませんか、見ていられないです。 ああ、硬派なゲームよ、戻ってきておくれ・・・

yuji2553
質問者

お礼

再びの回答ありがとうございました。 >サウンドノベル 挙げておられるのは『かまいたちの夜』と『弟切草』でしょうか…。あの頃は健全でしたね。カジュアルで、人物描写などもサラッとしていて、家族や友だちと一緒にプレイしても楽しめるようなテイストでした。懐古思考が良くないのは分かるのですけど、今の状況を見るとどうしてもそうなりますね。 >おたくゲームな時代 ファンの方には失礼ですけど、先日アマゾンの売り上げを見たら、『FF』よりも『涼宮ハルヒ』の方が上でした…。ホンネを言えば、絶望しました。そんな時代なのでしょうか…。 と、言うか、今の時代、どういう方がゲームをしているのでしょう? 比較的カジュアルに部活やバイト、恋愛や仕事などをしている人でも、実は家では今のギャルっぽいゲームに勤しんでいたりするものなのでしょうか?そういう風には見えないのですが。

  • Z222
  • ベストアンサー率78% (327/416)
回答No.5

私は今でもゲームをやっていますが、 興味がわいたので恐れ入りながら回答させていただきます。 それは多分、今のゲームが枯渇したわけでなく、 年齢が重なり、ゲームに飽きてきたからではないでしょうか。 昔に味わった感覚は、とても新鮮で衝撃的な物です。 言ってみれば、昔は今に比べて物がない時代です。 大げさに言えば、数少ない娯楽の中にあった、コンピューターゲームという最高の贅沢。 しかし今ではパソコンなど様々な物があふれるほど普及しています。 時代と共に物が増え、反面ありがたみも減ってきます。 飽きる事も相まって、ありがたみも減ってきたからではないでしょうか。 今現在に、昔遊んだゲームをやっても面白いと思うけど、 遊んだ事のない、その同時期の別のゲームを遊んでも、面白いと思うでしょうか。 もし別にどうって事ないと言うのでしたら、 やはりゲーム自体に飽きているのではないでしょうか。 自分が昔遊んだゲームの場合は、その当時の思い出がよみがえり、 その懐かしさも相まって、面白いと感じられる。という事もあるのではないでしょうか。 私はファミコン時代から遊んでいますが、今のゲームも楽しんでいます。 感じ方にもよるでしょうが、温かみを感じるゲームは今でもたくさんあると思います。 むしろ今だからこそ、温かみを表現できている物もあると思います。 特に任天堂は、キャラクターの動きにしても、 その温かみをうまく表現できているゲームが多いと思います。 私はキャラクターを見る時は、ポリゴンもドット絵も変わりません。 ポリゴンのキャラクターも、モーションキャプチャーを使ったりして、 生き生きした動きを見せている時もあれば、 パターン化された動きで、人形劇を見ているように感じる時もありますが、 そこはあえて現実視せずに、キャラクターの表情などは想像で補完しています。 そこはドット絵の頃と変わらないと、私は思います。 大きな違いは、立体的にキャラクターの全身の動きを確認できるものと。 その点が今では拡張できたかなと思います。 昔味わった衝撃は、辛く言ってしまえば、所詮は昔のものです。 感じ方を変えてみたり、想像で補う事を思い出してみれば、 今のゲームでも、まんざらでもないかなと私は思います。

yuji2553
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 NO1の方のお礼でも触れたのですけど、少し誤解があるようなので補足しますね。オレはDQは下記の順番でプレイしたし、FEはまず2005年の『蒼炎の奇跡』から入り、その後『聖戦の系譜』など遡って行きました。つまり自分の中では、新作の方が『昔』なんです。でも、どちらも旧作の方がアナログに感じたし、新作の方が無機質に感じたのです。つまり『過去を美化した懐古主義』を披露したいワケではないのです。そこはまずご理解下さい。 確かにそういう懐古趣味的な偏見はあるだろうし、現在のゲームにも例外はあると思います。それでもやっぱり大まかな流れとしてはだんだん無機質(ついでに言えばオタクっぽい不健康そうな)テイストにシフトしてると思うのですが、いかがでしょうか…?