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1998年くらいから、ゲームが無機質になった気がします…。

どちらかというと所謂マニアな方よりも、お子さんがいるお母さんとか、昔ゲーム好きだったけどもう卒業してしまった方に伺いたいです。 表題の通りなのですが、1998年あたりからゲームが無機質になって魅力的ではなくなったように思えるのです。 例えばドラクエなら、5までは瑞々しい情感にあふれていて、“ああ、創った人の想いが伝わってくるな…”と感じていたし、マリオも64まではそうでした。荒唐無稽なヒーロー物でも、(例えば忍者龍剣伝とか)大人の視点から見てものめり込めるほどカッコよかったと思います。 でもいつからか(自分は1998年ころからと踏んでいるのですが)、そういうアナログな息遣い、みたいなものが枯れてきたように思えるのです。ドラクエは6から、マリオはサンシャインから、どこがどうと言うのではないが、『機械的で冷たくなった』感じがするのですが、これは自分だけでしょうか?FF10も確かにストーリーは良かったのですけど、4などとくらべると後味がデジタルというか…。 自分の場合は、その頃から少しづつゲームから離れてゆきました。ヒマ潰しにはやりますし、面白いゲームもあるのですけど、全身の感覚を震わせて感動できたゲームは、不思議と全て2000年以前のものばかりです。今はもう、どこを向いても非現実的で気持ちの悪いキャラばかりだし、豪華な冷凍食品を食べたような後味しかしないので、ホントにヒマ潰しでしかやりません。(ただ『ICO』と『ワンダと巨像』は素敵でした。『どうぶつの森』の通信プレイは楽しそうなのですけど、男なので…) こういう感覚を経験した方、おられますか?何故こうなってしまったのでしょうか?似たような感覚をお持ちの方で、今でも『このゲームは面白い!』っていうのはありますか?ご意見をお聞かせ下さい。

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  • heinell
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回答No.11

いくつかの要因が思いつきます。 まず、買う側の購入基準。 ゲームマニアな事が周囲に知れ渡っているので何か紹介してくれと訪ねられる事がありますが、今は「脳トレのオマケに買えるゲームない?」って言われます。 そういうのが求められているんであれば素晴らしいゲーム自体が求められていないというのもあります。 (素晴らしいゲームを求めている私たちが切り捨てられる少数派) またインターネットなどによりコミュニティが豊富になった影響はありますが、その分話題になっていないゲームは小規模コミュニティとなり、加速度的に消滅しやすくなっている。 「買って面白くても、みんなと共通の話題にならないなら意味がない」という側面が強すぎる気がします。 そのためどうしても続編のような話題にするのが容易なタイトルに偏りやすくなり、実は光っているタイトルが埋もれたまま掘り起こされない。 一度その流れが出てくると加速度的にその方向へ勢いづいている感じです。 おそらく、誰もが「何を仰る。今だって素晴らしいゲームはいくつもあるぞ」と考えてはいるんですが、それ以前の買う側の基準が変わってきてしまっている。 私だって「コレは本当に良いんだ!」って力説したいタイトルがあっても、知名度がちょっと下がると「どうせみんな知名度の低さから無視するだろう」と諦めて勧めにくいと感じますし。 案外「俺だけが好きなゲーム」が認められにくい時代なのかもしれません。 あとは作り手側の問題としてですが… 参考になると思うのが、ウルトラマンをデザインした成田亨氏のエピソードです(出展:Wikipedia) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E7%94%B0%E4%BA%A8 >脚本家・金城哲夫から「いまだかつてない格好のいい美しい宇宙人が欲しい」と注文を受けた成田は、 >余分なものを徹底的にそぎ落とす作業を繰り返し、現在のウルトラマン像を作り上げた。 (中略) >成田は後に生み出されたウルトラ怪獣の奇怪で複雑なデザインを嫌った。 >デザイナーが表現の初期衝動を大事にせず、物のかたちの根底や問題の根底を問わず、 >既存の怪獣デザインの枠内だけで怪獣のデザインを考える安易で狭い姿勢をとり続ける限り、 >既存の怪獣の単なる組み合わせや複雑化などデザインの堕落が進むと批判した。 >「新しいデザインは必ず単純な形をしている。 >人間は考えることができなくなると、ものを複雑にして堕落してゆく」と彼は雑誌の取材で述べている。 >(模型誌「B-CLUB」1986年11月号) 昔のゲームはハードウェアの性能上どうしても余分なものを徹底的にそぎ落とし、単純なものにしなければ実現できなかった。 しかし今はそぎ落とす必要が無くなったのでそこに労力を払わなくなったと言えるのかもしれません。 映像や音声関係は確かに新たな技術によって品質が飛躍的に向上しますが、ゲームのシステム的な部分やシナリオ部はそういう進化がほとんどありません。 ただ容量と演算速度の強化による制約が無くなった程度でしょう。 そこが一番進化が遅れ、逆にブラッシュアップが足りなくなり事実上退化していると考えます。 特に上記のエピソードじゃないですが「ものを複雑にして堕落してゆく」という退化から抜け出ていないと感じます。

yuji2553
質問者

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回答ありがとうございました。 社会現象学(そんなのあるのか?)的な分析ですね。 >共通の話題性がなければ切り捨てられる 鋭いですね。確かに今ミリオンを飛ばしているゲームは、勿論デキが凄いという面もありますけど、言い方を悪くすれば『みんなが買ってるからなんとなく』という惰性で規模が拡大している面もあるのでしょうね。『脳トレ』ブームで、デキの悪い3流知育ゲームまでがそこそこのヒットを飛ばしたり。 勿論昔でも『ドラクエ』後の二匹目の泥鰌を狙う粗悪メーカーとかも多かったのですけど…現在のそういうブームは、どこか慢性的に拡大してゆく気がします。勢いがあるワケではないが、気がつけばいつのまにかとんでもないヒットになっていた、と言うか。そこも、熱が感じられない分どこかデジタルに感じます。 >「ものを複雑にして堕落してゆく」 とても興味深く読ませていただきました。私は任天堂信者ではないですが、一昔前に任天堂が触れていた『質より量の進化』に似ていますね。もっとも今は当の任天堂も同じ轍を踏んでいるのですけど。例えゴージャスな洋装を帯びていても、必ずしもシンプルなインパクトに勝るものでもない、と言うことなのでしょうね…。

その他の回答 (14)

  • k-ren
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回答No.4

今その感覚にとらわれている者です・・・ 貴方は、1980年代から今までのゲームの歴史を見てきた方ですか? でも、今の世代の子からすれば、今が「面白いゲーム」、と味わっている時になります。その子達からすれば、これが当たり前と思っているのだろうけれど、わたし達は、ゲームの歴史(コンシューマやアーケードね)を目の当たりにしてきた、ある意味歴史の証人ですよね。 昔は、技術も性能もまだまだ(発展途上)でした。だからこそ、頭を使い、知恵を絞ってハードやゲームを作ってきたのです。飢えがあったから、いいゲームが多かったと思いますよ。わたしは、MSXやPC88、98のゲーム、MDやSFCのゲームは、未だに好きです! あの少ない限りある制限でどこまで追求していけるか、こだわっていけるか・・・あのこだわりは素敵なものです。 当時一番いいハードを使っていたアーケード版、これが完成型と思っていた頃、そのACのコンシューマへの移植・・・どこまでそっくりに移植できるか、楽しみにしていました。でも今は、アーケード版より遥かにできのいいものが簡単に作れてしまいます。それでは面白くないのです。それだけ技術やハードが進歩して、それが当たり前のようになってきています。苦労する必要がない、つまらないですよね・・・ 当時のナムコの「リッジレーサー」、このインパクトは凄いものでした・・・今では、「頭文字D」を見ても「ほう・・・」ぐらいです・・・あのテクスチャー処理をゲームで最初に(多分)施した「リッジレーサー」、今では当たり前のように使われているけれど、当時の進歩は素晴らしいものだと思いますよ。 このように、ハードや技術は常々進化してきていますが、肝心の「ゲーム内容、シナリオ」は、人そのもので作られていきます。でも、アイデアは、かなり出尽くされてしまっています・・・今出てくるゲームでも「あー、このゲーム、いわゆる○○か・・・」となってしまっている現状です・・・ 昔と違って今は、短期間で、大量生産、進歩の早さの為に他社より上にいこうとする焦り・・・これらのせいで、じっくり考える、作るゆとりがなくなってきているのが現状だと思いますよ。だから、真新しいアイデアを受け入れている暇もないのかもしれません・・・パターンに沿っているのですね。だから見た目より安っぽいゲームしか出てこないのです・・・ でも、アイデアはまだまだ出てくると思っています。今の人は、考えないから出てこないのです。どんなにハードや技術が進歩しても、人も進歩しなければこの先、いいゲームは出てこないと思いますよ。

yuji2553
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 >飢えがあったからいいゲームが多かった。 これはちょっとしたジレンマでしょうけど、あるでしょうね…。歌手などでも無名の新人時代の方が瑞々しくて鋭いけど、売れてくると無難なセンばかり狙うようになる、アレと似ているかも知れません。 >あのこだわりは素敵なものです。 確かに。でも昔それが出来たのは、ある意味少人数で作られることが許されていたから、個々の個性にスポットライトが当てられたのかも知れません。その点で見ると、大人数製作を強いられる現在は、逆にキツイのかも知れないスね。 >今は大量生産…のせいでじっくり考える作るゆとりがなくなってきているのが現状。だから真新しいアイデアを受け入れている暇もなく、見た目より安っぽいゲームばかり…。 考えてみたらSFC時代のスクウェアは、年に2作しか出してなかった時もありました。それも、あの時代のへっぽこ映像で許された。それで今よりもビジネス的には遥かに快調だったのだから、ゆとりはありまくってたのでしょうね。…ジレンマだらけですね…。

noname#40598
noname#40598
回答No.3

こんばんは。 僕としてはゲームのグラフィックが変化した頃、ドット絵からポリゴンに変わったときに、あまりに気持ち悪いキャラの動きに寒気がしたのを覚えてます。 つるっとした質感の人形のような表情の無いキャラが演じるムービー。 僕には悪夢の世界に見えました。 それまでは多くのゲームを遊んできた自分を一気に遠ざけるに十分なインパクトでした。 今では柔らかい表現も可能になってきているけど、表情が固いのは同じですね。 別にドット絵がいいとは言わないけれど、僕は手作り臭さがあるアニメ絵に好感を持っています。 可愛いキャラを可愛く見せ、かっこいいキャラをかっこよく、味のある悪役顔はアニメ絵でないと作れないと思います。 今はパソコンのフリーゲームなどをやっていますが、制作者さんのところに気軽に行けて、意見交換はお互い有意義なことと思います。 自分の意見を聞いてくれてパッチをアップしてくれたときは感謝と幸せを感じます。

yuji2553
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 >ポリゴンに変わったときにあまりの気持ち悪さに寒気 わはは。分かります分かります。どのゲームとは言いませんけどね。 オレもどっちかっていうとドット絵の方が好きですね。 >アニメ 確かにそうかもしれません。…ただ、これは私的な見解ですけど、アニメの方も、大体2000年辺りから段々無機質で冷たい作風が増えているようにも思えます。と言っても殆ど観ないから良くは分からないのですけど。っていうかよくよく考えたらドラマも映画もなんかそんなカンジがします。 映画で言うと、T2(ターミネーター2)の頃は、まだCG技術も未熟で手作り感があったのですけど、今はCGやら特殊エフェクトやらでドラゴンボールばりの荒唐無稽なアクションまで実写映画でよくやりますけど、私的にはあまりにも無機質すぎて魅力を感じません。 それでも、そういう傾向に傾倒するしかビジネス的に生き延びる術がないとしたら、それはどこか虚しい気がします。

  • hunaskin
  • ベストアンサー率30% (1854/6060)
回答No.2

ハードの性能が高くなるにつれて視覚面でも聴覚面でも親切になりすぎたから、かも知れません。プレイヤーの想像や感情で補わなければなら無い部分が少なくなったぶん、無機質になった、とお感じになるのではないでしょうか。 TVゲーム自体がビッグバジェットになってしまったので、製作者の思い入れを反映したり一発アイデア勝負したりができにくくなったからかもしれません。 製作者のトップが年齢や収入や地位があがるにつれて、感性の面で息切れしてしまっているのかも知れません。 最近の作品でも、私は「ゼルダ」シリーズやラブデリック系列のゲームは人間的な息づかいが感じられる良作だと思いますよ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%96%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF

yuji2553
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 >補う部分が少なくなったぶん、無機質になった、と感じる。 そうなったゲームは多いかも知れません。『メタルギア』シリーズなどは例外的に膨大な情報量にも関わらず創り手の温度が感じられるのですけど。 >TVゲーム自体がビッグバジェットに そうですね。ただ思うのは、肥大化したとは言え最終的には『創り手の感性が反映される』ワケで。さびしいなと思うのは、ゲームは『遊び』ではなく、『総合芸術』って考えてるアタマの固い人が、今は多すぎること、ですかね…。 >トップが地位があがるにつれて、感性の面で息切れ これはホント、そう思います。最近の傾向として、やたらクリエイターがアイドル化されてる面がありますけど、なんか本末転倒な気がします。とくにロクなの創っていないクセに、ブログやコラムでだけ饒舌な人とかを見ていると。

  • zzz_sheep
  • ベストアンサー率21% (36/166)
回答No.1

子供の頃楽しかったことは大人になった時に輝いて思えるものです。 子供の頃ゲームウォッチでみんなでワイワイしていた自分は 最近の3Dでグリグリ動くゲームに軽く目眩を感じます。 昔のゲームは子供をターゲットにしたものが多く、 最近のゲームは大人も含めてターゲットにしたものが多い為、 ファンタジー色が薄く、リアリティが濃くなった結果、 感動しなくなったとかそんな理由もあるんじゃないでしょうか。 ストーリーで記憶に強く残っているのは ・ファイナルファンタジー3(ファミコン) ・ラグランジュポイント(ファミコン) この2つは面白かったですね。

yuji2553
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 確かに過去の記憶は美化される、というのはあるでしょうね…。 ただ、コトバを返すようで申し訳ないのですけど、自分はドラクエをやった順番は4⇒6⇒5⇒3⇒1⇒2だったのですね。つまり、6より後にプレイした3や2を経て、表題のような感覚を持つに至ったので、必ずしも美化される記憶、には当てはまらないとも思います。 ただ、そうは言ってもやっぱり美化されてしまう面はありますよね…。 ついこないだバーチャルコンソールで昔ハマッたゲームをやったのですけど、『あれ?こんなにつまんなかったっけ?』とか思いました(笑)。 >リアリティが濃くなった そうかも知れません。私的な感覚ではむしろ『リアリティを追求できるようになった反面、ごまかしが効かなくなった』ってことかな?とも思います。GTAなどはリアルには見えないですし、逆に昔のゲームは表現は稚拙でも、テキストのみでリアルを追求してましたしね。 ありがとうございました。

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