映画のセブンで、奥さん(トレイシー)は生きてた説
十数年ぶりぐらいに、映画の「セブン」を観ました。
昔観たときは十代だったこともあり衝撃的なラストにショックを受けた思い出があります。
今回2回目を観たことで解釈について疑問が発生しましたので、ご意見をお聞かせください。
疑問点とは、奥さんのトレイシーは死んでいないのではないか、ということです。
理由(1) 罪のない奥さん(とお腹の子ども)が殺されてしまうと、犯人の動機と作品のコンセプトが破綻する
この作品は、キリスト教の「七つの大罪」をモチーフにした連続猟奇殺人事件です。
犯人は妄想に取りつかれ、被害者達を七つの大罪になぞらえた理由で殺害して殺人の動機を正当化し、崇高な目的があったかのように振舞います。
ここでもし「七つの大罪に該当しなくても場当たり的に殺人を犯す」ようなことがあれば、自分の犯行の「大義」や「純粋性」が損なわれてしまいます。
また作品のコンセプトも破綻してしまいます。
理由(2) トレイシーが死んだことは明示的に描かれていない
殺人鬼の男は奥さんを殺したことを語り、また相棒の労刑事は箱の中身を見て単純に奥さんの首だと思ったようです。
確かなのはここまでです。
どちらも犯人の男が提供した情報をそのまま信用しているに過ぎず、奥さんが死んだことを明示するシーンがありません。
箱の中身を写さずとも、奥さんが死んだことを明示する方法はあるはずですが、それもありません。
(明示する方法としてはたとえば、一連の事件を最後に報道するとか、相棒の老刑事が顛末を上司に説明するとか、奥さんの葬式のシーンが一瞬出る、とか…)
死んだことは確定的ではない描かれ方なので、このシーンは観た人それぞれが判断できるような作品になっているのではないでしょうか。
そもそも犯人の目的としては、主人公のミルズ刑事を挑発し"憤怒"の罪を負わせることができれば、生首が本物である必要はどこにもないはずです。
つまり、老刑事が見たのは精巧な生首の人形か何かではないか。
ここまで手の込んだ犯行に及んできた犯人なので、トレイシーに良く似た人形を用意し、誰かの血液を振りかけておくぐらいはやりそうです。
奥さんが死んでいないと思う理由は以上になります。
主人公のミルズ刑事は、殺人鬼の言葉に誘導され、挑発に負けて、”憤怒”の罪を犯してしまいました。
犯人に屈したことになります。
映画の視聴者はどうでしょうか?
視聴者の大半は(以前の私も含めて)、奥さんが死んだことは実は確定的ではないにも関わらず、殺人鬼の語った言葉と殺人鬼の用意した箱が現れただけで「奥さんが殺された」と判断してしまいます。
これでは、挑発に屈したミルズ刑事と同じということになってしまうのではないでしょうか?
また、もしミルズ刑事が冷静さを失うことなく、箱の中身を相棒の刑事にいま一度確認してもらえば、ミルズ刑事は犯人の意図を見破り、犯人に「勝つ」ことができたのではないでしょうか?
残念ながらミルズは殺人鬼と闘うことを放棄し、あっさりと挑発に乗ってしまいましたが…
映画の最後で、労刑事が語っていました。
「ヘミングウェイはこう書いている。 ”世の中は美しい。戦う価値がある。”後半部分には賛成だ。」
これは犯人と闘うことができなかったミルズ刑事と、視聴者に投げかけた言葉かもしれません。
以上、十数年ぶりぐらいに観た「セブン」の解釈なのですが、どう思いますか?
お礼
ありがとうございました。参考になりました。 色々書いてあって、面白いですね! 余計謎が増えたような気もしますけど(笑)