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「大沢親分」の謎

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B2%A2%E5%95%93%E4%BA%8C 質問 大沢啓二氏はいつ頃から「大沢親分」と呼ばれるようになったのでしょうか。  ロッテ監督時代、第一期・第二期・第三期日ハム監督時代、と分けて、第三期(93~94年)以前から「親分」と言われていた事実はありますか? 質問 大沢氏が南海ホークスの現役時代、鶴岡監督も親分(鶴岡親分)と言われていましたが、その跡目相続という認識は本人や周囲の人にあるのでしょうか。 質問 93年に監督復帰したとき私には驚きと違和感があったのですが、グラウンドでは大沢監督の派手なパフォーマンスが目立ち、真剣勝負の興味は薄れたような記憶があります。この93~94年の二年間がなければマスコミで活躍する今の「大沢親分」はなく、かなり地味な姿で余生を送っていたのではないかと想像しています。せいぜい飼い犬にハムカツの切れ端でも与えて「カツだぁ!」って言う程度でしょう。  そこで質問ですが、9年間ものブランク後に61才という高齢で球団フロントから監督に復帰できたのはなぜか。自ら「監督おれ!」という力があったのでしょうか。  一部へのお答えだけでも結構です。

みんなの回答

回答No.5

大沢氏が最初に日本ハムを率いていた何年目かから親分と言われていたような記憶があります。 76年の監督就任から81年の優勝までの間にFA制の無い当時としてはかなりかっぱつなトレードで万年Bクラスのチームを優勝争いができるチームに変えていきました。 (主なトレード:張本-高橋一三、富田(巨人)、高橋直樹-江夏(広島)など) また、新人獲得でもあまり注目されていない選手を獲得して81年優勝の主力としました(島田誠、古屋など) そのような手法に関しては南海での現役時代の監督である鶴岡監督の影響は少なくないかもしれません。 そのような実績から監督を辞めてフロント入りしたあとも現場に対しては影響力があったと思われ、実質的には総監督のような立場であったと考えられます。 93年の監督復帰に関しても、低迷するチームを立て直すのに適当な候補がいなかったことなどを考え直接現場で指揮を取ることになったと思っています。 少なくとも日本ハムファンの一員としての私は大沢氏の監督復帰を歓迎しました。 また、野球評論家としては、長島茂雄氏の立教大学の先輩にあたるので、長島氏に対しても最大の理解者でもあると共に、忌憚の無い意見を堂々と言える数少ない存在であると思っています。

tounosu24
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >実質的には総監督のような立場  ということは「監督おれ!」と言ってそれがすんなり通るような立場だったのでしょうかね。

tounosu24
質問者

補足

 tsuyoshi2004さんに限らないのですが、質問させてください。ちなみに私はパ・リーグファンですが特にどのチームということはありません。  93年に大沢氏が監督復帰した年には1ゲーム差の2位(71勝52敗7分)、翌94年は28.5ゲーム差の最下位(46勝79敗5分)という極端な成績です。94年の勝率は.368で今の楽天に近い無惨なものです。  単純に考えれば、一年目になりふり構わず選手を酷使し優勝狙いに行ったものの果たせず、二年目は完全に潰れてしまったという推測が成り立ちます。  大沢氏が(中長期の展望に立たなければならない)総監督のような立場だったとして、それが思い通りにならないからと言って自ら現場に乗り込み、目先の勝利にこだわったあげくチームを潰してしまった、という見方はどうでしょうか。大沢ファンの方には意地の悪い質問で申し訳ないのですが、よろしくお願いいたします。

noname#118935
noname#118935
回答No.4

南海ホークス黄金時代の「名手大沢」は、センスのある選手でした。高見盛になぞられるのは気の毒だなあ。 巨人ファンは、日本シリーズでの大沢の守備に地団太を踏みました。 センター方向に快音とともに鋭い打球が飛んでも、フェンスを越えぬかぎりは、すべて大沢のグラブに吸い込まれて、反撃の芽をことごとく断ち切られたのですから。場面や打者で、こまめに守備位置を変え、打球が飛んだところに大沢がいる。そんな守備ぶり。まさに、いぶし銀でした。 とにかく堅実一方の守備でしたが、捕球姿勢は風変わりでした。Willytさんの説明をすこし補足すると、飛んでくる打球をずいぶんなへっぴり腰で待ち構えながら、差しだした両手で、空気を掻きわけ、掻きわけするような仕草をする。まるで空気のせいでボールがよく見えない、とでも感じているみたいに。スタンドは大笑いでしたが、うけ狙いでそうしてるのではなく、確実に殺すためには、ひとがどう笑おうが頓着しない。そんな印象の選手でした。

tounosu24
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >場面や打者で、こまめに守備位置を変え、打球が飛んだところに大沢がいる。そんな守備ぶり。    何かで読んだ記憶があるのですが、相手の打球方向とピッチャーの投球を分析して守備位置を変える、というチームプレーが行われる先駆けとなった試合らしいですね。  いずれにしても大沢選手はファンを引きつける何かを持っていたことが分かります。

  • nep0707
  • ベストアンサー率39% (902/2308)
回答No.3

>質問・ 大沢啓二氏はいつ頃から「大沢親分」と呼ばれるようになったのでしょうか。 いつからかは分からないのですが、 1981年の優勝時には「親分」と呼ばれていたような覚えがあります。 >質問・ 大沢氏が南海ホークスの現役時代、鶴岡監督も親分(鶴岡親分)と言われていましたが、 >その跡目相続という認識は本人や周囲の人にあるのでしょうか。 ほとんどないと思います。 現役晩年にオリオンズに移籍した後、 コーチや監督としてもホークスに戻らなかったことや、最近の言動などからも 「1959年日本一ホークスの一員」としての誇りはあるものの、 ホークスへの愛着はそれほどなさそう、と思われます。 ホークスへの愛着のない「鶴岡親分の後継者」はありえないでしょうから。 >9年間ものブランク後に61才という高齢で球団フロントから監督に復帰できたのはなぜか。 単に「かつて優勝させた監督に望みを託して」のパターンだったのではないかと…。 90年のオリオンズで金田監督が復帰したのと同じパターンですね。

tounosu24
質問者

お礼

 回答ありがとうございます。 >ホークスへの愛着のない「鶴岡親分の後継者」はありえないでしょうから。  当時トレードに出されるということは遺恨もあったでしょうから、別組織の親分のようですね。「芸風」もまったく違うし…。 >90年のオリオンズで金田監督が復帰したのと同じパターンですね。    金田氏にしても、たとえば自宅でゴルフの素振りでもしていたら突然ロッテから監督復帰要請の電話があり、びっくりして…、というようなことではなく、日ごろからロッテとは接触を持ち、その中で復帰に意欲満々の意思表示をするなどしていたと思うのです。   大沢氏はその点で球団内部の人間ですからどのように決まったのか、という質問なのですが関係者以外には難しいですかね。(余談ですが金田監督のパフォーマンスも過剰でした)

noname#35575
noname#35575
回答No.2

うろ覚えですみません(;^_^A 、パリーグのファンです。日本ハムの前身、東映フライヤーズの監督時代から「親分」と言うニックネームで呼ばれたような気がしますが……。当時の東映の選手は、個性派揃いで、張本を筆頭に、エースの土橋(軟式からの転向で、口調は、ベランメエー調)、山本八五郎(ケンカッ早く、よく退場していたような印象が)毒島なんかは、最高な3番打者でしたね。とにかくも話題に事欠かないチームを、まとめたので「親分」と呼ばれたような……。そうそう本人もケンカっ早く、審判に対して「おめえ~目え~ついとんか~」なんて。(;^_^A

tounosu24
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 >東映フライヤーズの監督時代から…   大沢氏は東映の監督経験はないので、土橋監督のことではないでしょうか。土橋氏もべらんめえ調で親分肌でした。 >山本八五郎  八五郎の方がケンカ強そうですが、「山本八郎」ですね。プロ野球ではケンカと言えば「山本ハチ」で、我々の世代では有名人です。今どうしてるのか、奥さん相手にケンカしてるんですかね(^^ゞ

  • Willyt
  • ベストアンサー率25% (2858/11131)
回答No.1

 大沢親分が現役時代の逸話です。回答じゃなくてゴメン(^_^;)  彼はレフトを守っていたのですが、そこへ球が飛んで行くと大歓声が上がったのです。それは捕球の仕方が大変ユニークだったからなんですよ。両手を大きく上へ向かって広げ飛んでくる球をまるではさみこむように捕るのです。基本に忠実な正しい捕球なのですが、その動作が大仰なので人気があったのですよ。今の高見盛みたなものです(^_-)

tounosu24
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 私は「外野に大沢という選手がいた」という程度の記憶です。大げさな動作は若いころからの筋金入りなんですね。

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