天正四年から築城開始。
天正十年(1582年)6月2日未明に発生した本能寺の変で信長が死亡。長子信忠も二条城で討死。この知らせで安土城下は大混乱に。
山岡景隆が瀬田の大橋を落としたので、明智光秀はそのまま安土城に入れず、5日に入城。
明智光秀が山崎の合戦で討死すると、15日に次子信雄が入城し、火をかけて落城。
その後信雄は清洲城主となり、徳川家康と連携して小牧長久手の戦いで秀吉と対立。
しかし天正十八年(1590)に秀吉によって配流されるが、家康の尽力で復帰し、朝鮮出兵に参加。
関ヶ原の合戦では大坂にいたが、情報を東軍に提供。大坂夏の陣の直前、家康の軍勢に寝返り、情報を提供。5万石の禄高を得る。その後2万石に減ったが江戸時代を生き残り、明治政府から子爵を受ける。(以上、歴史読本「織田信長」より抜粋)
信長直系として生き残った系譜です。
ちなみに天守閣と言う言葉の語源は安土城の天主から始まったとする説が有力です。