「これは良い」「これはいけない」という基準に対して、日本の場合はその本質面ではなく像や音声という、解釈の余地のない現象上において基準を設けているため、性器、肛門、etcなどが映っていたり、放送禁止用語なる表現が書かれていたり音声として聞こえる場合は“それが映っていたり聞こえることがいけない”となるわけで、内容という本質は二の次になります。たとえ暴力や性描写や差別表現とは関係なくとも、とにかく「それ」が見えてはいけないとするものです。これは逆に考えると、それさえボカしていればどんな表現もアリ!ということになってしまい、所かまわずに性描写が氾濫する原因の一つだと考えられます。
審査する側がこうした良し悪しの線引きをすることで、以後個別に内容を吟味したり、審査に携わる人間同士で解釈をめぐって議論を交わしたりする労力を省き、誰もが一切の思考を展開させる必要がなくなって万事処理がイージーかつスムーズになります。また「一つを認めれば、他を断る理由がなくなる」という日本人の例のそれとも深いところで通じている発想だと思います。
要するにわが国特有の、基準を先に設けて後は事務的に処理する「判断の放棄」に根ざした文化なのでしょう。判断を下すには責任が伴いますから、誰もが判断しなくて済むように先に厳格な基準を定めてそれに添わせるということは、すなわち皆で責任を回避しようとする考え方でもあるわけです。
一方、海外はということですが193以上の国がありますから、どこのことなのか分りませんが、本質的な内容と現象面の両方とも日本より厳格に規制されているのは一般的にイスラム教文化圏と共産圏だと思います。欧米先進国においては、今日では基準の捉え方が日本のように現象面のみではなく、本質的な内容に言及して判断されている場合が多いようなので、強姦シーンや縛りもの等、暴力犯罪を誘発しもしくは連想させ得る表現などには厳しいのが一般的ですが、その反面、駅のキオスクで売っている雑誌であっても、無害なグラビア写真は全開モロ見え!が当たり前です。日本とは基準の設け方における発想が異なっているのですが、これをもってして「外国は厳しいけど、日本はおかしい」と単純に比較はできません。またアメリカなどと比較する場合は単に基準の設け方がどう違うかという以前に、性犯罪が多発していることによる対応の違いの方が大きいので、この場合は犯罪の質、量がより悪化しているが故に規制もより厳しくなっている状態のアメリカと比較して「アメリカは厳しいけど、日本はおかしい」というのも本末転倒です。
日本はある意味おかしいと思いますが、そのおかしさが許容され尚且つ秩序が保たれている社会であることの方がむしろ今後世界各国が混迷の状態から進み行く方向の一端を覗かせているようにも感じています。とはいっても日本の現状をこれでよいと思っている訳ではありません。
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