盛り塩についてご意見いたします。よく「盛り塩で運気が上がる」「盛り塩は悪い気を防ぐ」などと、よく目にしますが、これは盛り塩と清め塩を混同して生まれた、最近の珍説です。
いわゆる玄関への盛り塩の由来ですが、もともとは支那・晋代の故事によります。
<当時、王にはたくさんの妃・愛妾がいました。そして、その館へは牛車で赴きます。そこで頭の良い愛妾が、王の寵愛を一身に受けるために、塩水を地面に撒いておきました。そうすれば牛は塩をなめるために自然と彼女の館に導かれます>
ここから転じて江戸期に花柳界で「人寄せ」の意味で玄関に塩を盛るようになりました。
神事で塩を用いるのは、もともとは潮垢離(しおごり)といい、海水で身を洗い罪・穢れを払う。そこから海水の代わりとして塩水で身を清めたり、あるいは塩を撒くなど、祓いの儀式が行われます。
ですから、玄関などの盛り塩は人寄せであって、清めの意味はありません。盛り塩の起源も知らない巫呪売卜の徒の発言は真に受けないでください。
つまり、塩に限らず時代・地域によっては水・米・豆などが、咒力があるとされました。それは身を洗う・撒くなどの祓いの儀式を行って意味をなすものです。いうなれば、石けんは汚れを落とす力はあるが、それで洗わない限りは意味をなさないでしょう。にもかかわらず、石けんを置くだけで汚れが落ちたと思うようなことと同じです。
あと、神前に塩を盛るのは「海の幸」としての供物としてで、清めの意味ではありません。
ですから、玄関の盛り塩など単なる人寄せの縁起担ぎであって、そこに信仰的意味合いは存在しません。また、単純に塩を撒けばいいのかというとそでもなく、それは一定の儀礼を行ってこそ意味をなすものです。力士が土俵に塩を撒くのも、土俵に上がるまでに四股を踏む・力水を取るなどの段階を踏んで、自身の心技体を清める意識にまで昇華するから意味をなすのです。儀礼文化・信仰文化というのは単純においしいどこ取りではいけません。