>「資本」主義社会における ボランティア、福祉活動、奉仕活動とは なんなんでしょうか??
に対する私の意見を述べさせていただきます。
前回の質問も拝見させていただきました。
質問の内容を逆転させて考えています。
人間の生命活動における経済主義とは・・・。
私の生活の根源にある考え方は「結い」です。
ご存知とは思いますが、集落単位の労働力の貸し借りです。資材を伴う時もあります。
わかりやすい例が「萱葺き屋根の吹き替え」です。
集落の一軒で屋根の葺き替えをする場合、集落に住むすべての住民が自宅に貯めていた萱を持参して、葺き替えに従事します。
義務ではありませんし、労働に対する対価も支払われません。
自分にもやがて恩恵が来ることがわかっているからです。
貨幣経済が発達する前のことを考えたほうが、結いの存在意義がよく理解できると思います。
自分の生活は自分で守ることが大前提です。
百姓ならば、百姓の名の通り自分でやることができることはすべて自分でやります。
百の名を持つ、すなわち百の技術を持つということです。
しかし、なんでも自分でできるわけではありません。
集団の利益として必要な活動も生じます。
たとえば、水路を開ける、道を開けるなどが当てはまります。
いわゆる公共の利益というものに該当するでしょう。
この当時に現在のボランティアを当てはめるとどうなるでしょう。
大概の方はボランティアには参加しません。
できないといった方が適当でしょう。
自分が生きていくだけで精一杯なのです。自分の生活に利益をもたらさない活動に労力を割くだけの余力がありません。
「結い」と「ボランティア」の違いは、労働力を提供した時の見返りの有無です。
見返りを求めるといっても、現代のように目先の利益にはこだわりません。
自らの生命の維持に有益か、巡り巡ってでも生活に役立つかどうかが大事です。
例にあげた『屋根の吹き替え』などは数十年に一度訪れるかどうかという気の長い話です。
諸外国におけるボランティア事情には精通していないので、国内の身近なボランティアを見ての意見となってしまいますが、ボランティアには何らかの余力を要求されます。
自分の生活に精一杯の人が参加できる余地がありません。
結果として余裕のない分を『経済的保障』として受け取ることになります。
私が携わっているボランティア活動の一つに「クラフトフェア」の開催があります。
全くの個人開催ながら、県下でも有数の集客人員があります。
私もクラフトマンの端くれですが、自ら出店することはありません。
できないといった方が適切です。
日本全国から200人を超えるクラフトマンを選び出し(基本的に抽選)、数万人の客さんを受け入れなければなりません。
これを仲間3人とともに企画運営しています。
もちろん無報酬です。
しかし、私はこのボランティア活動は「結い」として位置付けています。
自分の住んでいる地域に、手づくりのものの良さを知らしめ、人間が古来から営みとしてもち続けてきた『生業』の本質を見ていただくことにより、地域の文化的素養が向上します。
自治体の文化レベルも向上します。
結果として私の仕事にも好影響を及ぼすかもしれないからです。
私は現在経済主義を否定した生活を、経済主義の社会の中で如何に取り入れていこうかと試行錯誤しています。
人里はなれたところでの『自給自足』ではなく、人里で金銭欲に駆られずに人として生きる術を探しています。
目指すところは百姓になりそうです。
地の利を活かし、生活に必要なものを得、他者が必要とするものも地の利から作り出す。
そのお礼として、私が作り出せないものをいただく。
私の必要としているものを他者が提供できない時には『兌換券』として金銭を頂戴する。
お金の発祥の原点に返ろうと思っています。
ボランティアも本来は、結いの精神に則るべきだと思いますが、日本に結いの精神が消滅しかけている現状では、共通の意識をもつことは難しいと思います。
ボランティアなどと訳のわからない言葉は止めて『結い』と、日本人らしくいってもらいたいと思っています。
結いとは助け合いということになると思います。
結いがあって、その上にほんの少しでも余力があって、心意気がある者が、手弁当で参加して初めて「ボランティア」となるのかもしれません。
ボランティアに参加するものの精神の問題であって、かかる経費の処理方法はたいした問題ではないと思っています。
もっともっと人が生きていくということに真剣になって取り組まない限り、ボランティアは安っぽいものとなってしまうでしょう。
そのためにも、人間という種が、地球が存在する限り生を維持できるためには、今の私達が何をやらなければならないのか、どのような『結い』が必要とされているのかに関して考えるべきでしょう。
現代の資本主義、経済社会は人間の「種の保存の法則」に反していますから、種の保存に則るべきボランテイア活動とは、相反する関係といえるでしょう。
これが私の結論です。
補足
早速ありがとうございます。 「資本」主義社会は、「資本が一番」であり 「人」とかを2の次にしているということですよね。 難しいことはわかりませんが、(人でも動物でも環境でもなんでも良いのですが)相手を「認識する」ことだと思います。人間で言えば「私があなた で あなたが私」。こういう部分が ちょこっとずつでも 想像=imagine できれば 人間的なのかなぁと思います。 私は 大企業の従業員なので まさに (自由)「資本」主義社会の真っ只中におります。rakkiさんのように 「農業」までは できないと思っています。PTA活動がせいぜいです。 =============== 今 本を読み始めたところで 「へぇー」「ほー」って感じです。エンデのインタビュみたいなのとか フランシス・フクヤマとか。あと 博報堂の open money(Let's)について(広告)を読んでいます。でも 読んでるだけです。自分の考えかたが変わるかもしれない予感はします。 =============== 「資本」主義社会でなかったら ここまで 科学は進歩しなかったと思います。もちろん進歩した代償として環境(次世代)にものすごい負荷を掛けていますが・・・。