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なぜ、ヒトは“付き合う”ことにこだわるんでしょうか?
「結婚」という制度は、恋愛結婚が増えた現代となってはいささか美化され、偶像化された感がありますが、社会秩序の維持や打算的・利害を含めた男女間の結びつきという部分が、少なからずあると思います。 しかし、ヒトはそれ以前から“付き合う”ことで、それに似た様な関係を結びます。お互いの自由を拘束し、見合った関係性を期待します。結婚を前提とした、演習ということも考えられますが、実際にヒトはそれほど相手を常に結婚対象としているようには見えず(実際、しているのでしょうか?)、なぜ「結婚」前から“付き合う”ことでお互いを枠内に収めようとするのか不可解です。 ヒトは、寂しいから“付き合う”のでしょうか?愛されてるという確証が欲しいから、そのような規定を設けるのでしょうか?あるいは、そうでもしないと、本当に人を愛してると実感することさえ困難なのでしょうか?普遍的な答えはないと思いますので、個人的な意見でもかまいません。気になったので、質問してみました。
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質問者が選んだベストアンサー
お礼ありがとうございます。 皆さんの回答やお礼を見ていると、色々考えさせられますね。 昔は夜這いだの逢引だのそんな感じだったんでしょうし、 ほんの数十年前だって、お見合いだったり、 身分の差で決められた相手だったりっていうことがあったんですものね。 それが徐々に映画とかそういう文化的なものが流れてきて、 告白して付き合って・・・という風潮が出てきたんでしょうね。 もちろんご質問者様のおっしゃるとおり、 本質的に意味を成さないかもしれませんし、 「付き合う」ことを一種のステータスとして、 何人と付き合ったとか、相手がいることを知らしめるようなものにもなっているのかもしれませんね。 援助交際だったり、出会い系だったり、 好きだから付き合ってる、という単純な道理が、虚飾に満ちているように見えるのも、 そのせいなのかもしれません。 結局社会的には容認されていないけれど、 双方が容認してればそれでいいのでしょうし、 時代の流れだ、風潮だ、と言ってしまえばそれまでなのでしょう(苦笑) もしかしたら、今後「付き合う」という概念ではなくて、 遺伝子情報や将来を予測して、良い種を残そうとしたりとか、「選択」になるかもしれません。 今だってネットとか顔の見えない中で お互いが選択して逢ったりしてるわけですからね。 長々書いてしまってすみません。 もはやこれでは回答になりませんね。
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- tkngknk
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以前、こちらに「私には好きな人がいて、その人も私のことを好きと言ってくれていて体の関係はあるのに、彼は付き合おうとは言ってくれず、むしろ付き合うことに意味はないと言われてしまった」と相談したことがあります。 みなさんから「それはただ遊ばれているだけです。セフレです。その関係を終わらせた方が身のためです。」という旨のご回答を頂きました。 実は、その彼と今は付き合うことができて、彼も以前よりもっと私を大事にしてくれています。 何を言いたかったかというと、結局、当人同士が本気で好き合っていても、ハタから見れば「遊び」なんです。あなたがおっしゃるように「付き合う」という負の影響しかない言葉が、実際この世界で「私達はお互いを大事な人だと想っている」と認めてもらうために必要な言葉であるのは事実なようです。 周りにどう思われようと全然平気だ!と言い切れるくらい強い人ばかりだったら「付き合う」という言葉はいらないかもしれませんが… きちんとした回答になっていないと思いますが、私はこう思います。
お礼
ご回答ありがとうございました。 “付き合う”という手続きは、社会的に容認されたような正規の手続きではないのに、それがすごく権威的に、ある種の若者の間では、そう私には写るのが疑問でした。“付き合う”という言葉が、それこそ笠に着るための言葉なら要らないと私は思うのですが、それでもやっぱりそうでもしていないと、いても立ってもいられないのが人間でしょうか。女性の方でも、そういった“付き合う”ということに固執しない人がいるのだと思い、そんな言葉に本質的な意味を見出していない人がいるんだと思うことができました。
恋愛感情は、一種の流行病・・・
お礼
アドバイスありがとうございます。 短い箴言にも、本質に通づるところはあるといったところでしょうか。流行なら乗ったほうがいいのでしょうかね。踊るあほに見るあほ、同じあほなら踊らにゃ損損……これも間違ってないと思います。
- motoi_nagata
- ベストアンサー率5% (4/70)
30歳の♂です。 付き合うと言う枠内に収めたがる理由はやはり世間体でしょうね。ただの友達とSEXしてるとか周りに言うと白い目で見られますからね。 ただ、付き合うと言う枠自身はかなり広義ですね。結婚の予行演習的に付き合っている人もいれば、ただSEXする友達みたいな人もいるでしょうね。
お礼
ご回答ありがとうございました。 やっぱり“付き合う”ということ自体には、本質的な意味がないのではないかという気にさせられました。ただ、便宜的なものがもっともな理由だという論法でいくと、それ自体が本質的な意味になってくるというパラドックスはありますが、それでも“付き合う”ことがただの便宜であるのかなという気がしました。でも、私の単純な考え方でいくと、ごまかさんと言ったらええ方式でいくと、いちいちセックスするために“付き合う”という段階を踏まなければならないのは、無駄なプロセスを踏んでいるように思います。男がセックスがしたくて、3回セックスしたら別れようと思っているとしたら、それに対して女性が“付き合う”ことを求めるのは、本当に便宜以外のなにものでもないのか、あるいはそうだとしたら、“付き合う”こと自体が隠れ蓑であって、逆にこちらの方が卑劣な行為ではないか―ただセックスだけを目的に“付き合う”というプロセスを省いた場合と比して―と感じるのですが、どうなんでしょうかね。
- xfiles
- ベストアンサー率23% (164/693)
本能もしくは遺伝子情報として組み込まれているのかもしれませんね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 遺伝子説には、私はいささか猜疑的です。男女間の関係というのは、歴史的にも変遷を辿ってきました。平安時代には一夫多妻というのが通っていたように、社会意識の変化とともに男女間の関係というものも変化するものだというのが、私の見解です。ですから、それを原初的な生物学の―自明の理的な―説明をするのは、いささか疑問が湧きます。
- Rion4443
- ベストアンサー率16% (87/532)
こんにちは。 以前のご質問で感情的になってしまい、 またこうして回答する機会があれば・・・と思っていました。 あの時は本当にすみませんでした。 今回のご質問ですが、個人的な意見で回答させていただきます。 この人間社会の中でたくさんの人と関わりをもっていくわけですが、 その中である特定の人に対して、 自分と共感できるものがあったり、 一緒にいて楽しかったり、 色々理由はあると思うのですが、 より関係が密になることがあると思います。 その中で自分のことを相手に話したり、 相手のことを聞いたりしていくうちに、 より深く相手のことを知りたくなったり、 より相手との時間を共有したくなったり・・・といった過程になることがあります。 それが互いに自由を拘束するという否定的なイメージではなく、 一緒にその自由を共有したいという肯定的なイメージをもてて初めて付き合うということになるのではないかと思います。 もちろん、お互いにそれは頭の中で打算的に考えて行動しているわけではなく、 (中には「付き合う」ことそのものの見栄があったりしてそうなる人もいるのかもしれませんが) 感情だったり、自然な流れでそうなるのだと思います。 そうして「付き合う」ということになると、 その分付き合う前にはわからなかった色々な部分が見えてきたり、 相手の家族や友達等、これまで関わらなかった新たな関係が出てきます。 それを互いが消化(語弊があるかもしれませんが)し、その後もずっと関係を続けていきたいと考えたときに、 結婚という運びになるのではないかと思います。 付き合うことで互いを枠内に収めるのではなく、 付き合うことで、付き合う前とは違ったより深い枠を互いが共有するのではないでしょうか。 以上が私の個人的な考えです。 もちろん十人十色ですし、 色々な出会い方、付き合い方があります。 ご質問者様の質問内にもあるように、 寂しさを埋めることを互いに共有したがる人もいれば、 愛される確証が欲しくて無理矢理共有したり、 相手の自由を束縛してまで付き合おうとする人もいるでしょうし、 #1さんの回答のような人もいます。 また、誰もが付き合うことにこだわっているわけでもありません。 私の回答がご質問者様の求めているものにそぐうかはわかりませんが、 参考になれば幸いです。
お礼
アドバイスありがとうございました。 あれ以来、というとどれ以来なのかわかりませんが、回答者さんがどの質問に回答してくださったのかわからないので、なんとも言えないんですが、まだまだ物議を醸したりしていて、削除されたり、非常に非難されたりですね、まだまだやっぱりあります。ですから、感情的になったぐらいで、謝られなくても結構です。私なんて、それよりひどいことをしているんですから、それでもバカを地で行っているんですからね、人はなぜ、どうしてこれほどまで人間的になれたり非人間的になれるんだろうかと、訝しくさえ思っています。 “付き合う”ことの魅力を全否定することはないのですが、それほどメリットのあることだとは思えないんですよ、特に男にとっては。ひとりの人間を愛するということは、理論的にはじゅうぶん可能であっても、実際問題としてかなり難しいのではないかと思って、「愛する」ということに人は妥協しているのではないか、あるいは、適当なところで折り合いをつけているのではないかと思って、質問しました。回答者さんのご意見はもっとも理解しやすい一般論で、もちろん理解できるのですが、それは本当のところではないような気がします。好きだから付き合ってる、という単純な道理が、虚飾に満ちているように感じたのです。
- hirumin
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愛以前に、性的接触による快楽を正当化するための手段で付き合う、というスタイルもありそうです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほど。ありえましょうね。参考になりました。
お礼
ご高察ありがとうございます。 おっしゃる通り、“付き合う”というのは与えられただけの概念に過ぎないのだと思います。ですから、セックスのためだけに“付き合う”なんて、一種ばかげたようなことが起こるのだと思いますが、それも言ってしまえば、好きな言葉ではありませんが、必要悪だなどと人間は思っているのかもしれません。でも、大切なことは、自分自身が概念を弄ぶというか、自分というふるいにかけて用いないならば、それを逆手にとられるということもあるということではないかと考えました。逆に、それを洞察する力を持つ者は、逆手にとって人を欺くこともできるというのも、然りです。大変面白かったです。ありがとうございました。