本番における指揮者の役割
指揮者によって音楽が変わるのは紛れもない事実です。しかしちょっと考えると不思議な点があります。つまり事前に練習し演奏法を完成させているはずなのに、本番でもなお指揮者が演奏法を指示しないといけないのはなぜなのか、ということです。
これは経済的理由により事前練習が十分でないため解釈の伝達が十分ではない。そのために、本番でも指揮者の演奏指示が必要ということなのでしょうか。例えば、昔、ムラヴィンスキーは難曲の初演には30日間リハーサル期間をとりました。メンゲルベルクは公演ごとに15日間です。しかも彼らが率いていたのは「世界一」オケだったわけです。しかし今、ほとんどのプロオケでは2日のリハーサルしかしません。
もしそうだとしたら十分に練習したプロオケの本番での指揮者の必要性として考えられるのは、つぎのものでしょうか。
1)微調整
4/4の楽曲で楽譜に4分音符が4つ並んでいるとして、メトロノーム式に均等に演奏しても音楽にはなりません。この4つの音符の時間・強弱配分を調整することは、微妙ながら音楽に命が吹き込まれるか否かを決定するする最重要の点であると思います。音楽とは動機で表された問題定義とその解決の連続なのですから。いい指揮者はこの点をうまく調整できるのだと。いうまでもなく、音楽は膨大な音符から成り立っているわけで、全ての音符について事前練習で固めることはできず、本番で指示する必要があるというわけですね。
もしそうであるとしたら、若いころはリズムの良さで鳴らしたベームが、晩年すっかり緩んでしまったのもよくわかります。VPO団員によると、晩年にはベームのやりたいはずのことをオケが勝手におぎなって演奏していたそうですが、音符の微調整までは無理だったのでしょう。
2)だれかがマズイ又は練習とは違った演奏した場合、続く奏者に演奏法を指示して不自然さを目立たなくさせる。
3)フレーズの入りを指示する。
4)無言のオーラを発して、楽員に影響を与える。
フルトヴェングラー(BPO団員)、マルケヴィッチ(日フィル団員)のレポートがあります。
4)聴衆に見せるための踊り
そこでもう一つの疑問が出てきます。つまり左右の手と表情だけで十分な情報を表現できるのか、奏者はその場でその情報を演奏に反映させられるのか、ということです。
フルトヴェングラーは手をぶるぶる震わせるだけでなにが言いたいのか分明でありません。ライナーは重要なフレーズの入りのところだけ一拍振り、それ以外は、まったく手を動かしません。
トスカニーニは左手をほとんど使わず、しかし右手だけで見事に音楽を表現できています。ストコフスキーは踊るだけで何の指示もしていなかったと白状しています。
フルトヴェングラーやミュンシュは本番で練習していない奏法を指示したそうです。
彼らはこういったいい加減な方法で、ひどく立派な音楽を実現していたのです。驚異はライナーで、あのやり方で弦チェレだって、あんなに見事にで演奏できたわけですね!
また、マルケヴィッチのハルサイのDVDでは、右手で三拍子系、左手で2拍子系を振っているところがありますが、ポリリズムを指揮する場合はこんなことまで要求されるのですか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 デュトワ指揮のディスクがレンタルショップにあったので早速聴いてみました。「アッピア街道の松」はスゴイ快速ですね!問題の五連符の部分は…スピードに紛れてちょっとわかりづらいですが、リズムが統一されていないような印象です。しかし終始ハーモニーがきれいで、これはこれでいい演奏だと思いました。
補足
前に『ローマの松』を所属していたアマオケでこの曲を演奏する機会がありましたが、五連符のタイミングをあれこれ考えて練習したのに、指揮者に「2+3で」と言われてガッカリしたことがありました。 その後、持っているCDを五連符に注意して聴き直したところ、意外にきちんと演奏したものがないことが分かりました。 しかし、私のイメージでは、整然としたローマ軍の行進の果てに、突然何かが炸裂するようなイレギュラーなリズムがあったほうが、曲のすさまじさが増すような気がします。