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和太鼓集団「鼓童」
佐渡に出来た和太鼓集団「鬼太鼓座」から鼓童が分離して発展しています。その後鬼太鼓座は神奈川県に移転して創始者は死去し活動も細々といった感じです。 なぜ鬼太鼓座から鼓童が分離独立したんでしょうか。なにか対立があったんでしょうか。 そして鬼太鼓座はなぜ佐渡を離れなければならなかったんでしょうか。
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下記ページの記載では,田耕氏が「鬼太鼓座」を作った時の構想は,『農村やへき地で受け継がれた伝統芸能を核に、共同体を作る』というものだった様です。で,その方法が『佐渡を本拠に和太鼓グループを結成し世界中で公演、7年後に「日本海大学・佐渡職人村」を設立してグループは解散、各自1億円持って故郷に帰る』というものだったそうです。 http://www.ocsworld.com/ocsnews/home/687/interview1.asp が,7年の予定が過ぎた時,『海外公演も成功させたが、お金は残らなかった。大学計画はいつのまにか消滅、借金問題もあり』という状況だったようです。 一方,下記ページには,『しかし田は、日本各地の太鼓を知るうち、島の鬼太鼓と一線を画すようになる。舞台芸能としての完成を志向したからだ。「自分の知る鬼太鼓とまるで違う。(団体名は)詐称だ」と公演を見て怒る佐渡出身者もいた。』とあります。この辺りが対立になるのかも。 http://ch-k.kyodo.co.jp/arc/arc_myaku7.html その結果,佐渡にいる必要性が無くなった田氏が出ていき,残ったメンバーが「鼓童」を作ったという事じゃないでしょうか。 上記の他,下記のサイト等も何かの参考になるかも。 http://www8.ocn.ne.jp/~k-gumi-y/top_page/5bokutama/boku2.html http://www.kodo.or.jp/ http://www.ondekoza.com/
お礼
ありがとうございました。あなたの検索力と努力に 敬服しました。もうしばらく他の回答を待ってみます。