- ベストアンサー
あるベジタリアンの主張
あるベジタリアン(Aさん)が肉を食べる人(Bさん)に向かってこう言います。 「あなたは動物を虐げている。」 Bさんは反論します。 「あなたも野菜を虐げているではないか。」 Aさんは答えます。 「はい、確かに私は野菜を虐げています。しかし、動物である私は、野菜の痛みよりも、動物の痛みに同情を覚えます。ですから、同情のより少ない野菜を食べるのです。傷ついた魚よりも、傷ついた人間の子供の方が、かわいそうだと思うのと同じ構造です。」 Bさんは考えこんでしまいました。 Aさんの主張は正しいと思いますか?お聞かせ下さい。 (このベジタリアンは便宜的に用いた空想の人物です。)
- みんなの回答 (22)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
bofdさん、はじめまして。 そういえば歌手のイルカさんが菜食主義者でしたね。小魚も食べない。「自然への思い」が彼女をそうさせるようです。 http://www.yomiuri.co.jp/wine/shinagaki/20041130si11.htm 私の従弟は家畜の自動屠殺機械(正しい名称ではないと思うが)の製造・保守の仕事をしています。その彼がいいます。 「野菜を自動的に切り刻む機械の仕事は何にも苦じゃないけど、鳥や豚を自動的に殺す機械の仕事はイヤなものだよ。機械の運転に立ち会って、実際に動物を機械へと追いやるのを手伝うことも多いけど、そのとき彼らが悲しそうな目で訴えてくるような気がする。」 従弟がこのように感じるのは、屠殺という仕事の罪の意識かも知れません。私も、実際にその場面を見れば、命が片っ端からコロコロ殺されていくことに、同じ意識を抱く気がします。(多くの人は、そんな場面を見ることはないでしょうが。) 私は菜食主義者ではなく、焼肉などは大好物です。けれど、ときどき考えることもあります。 昔は(古代、中世のみならず近世まで)、弱い異民族を奴隷化するのも、彼らを殺して土地や資源を略奪するのも、悪いことだとは考えられていなかった。それを行なって自民族に冨をもたらす者は英雄だった。しかし現代では、これらは許されない悪です。 同様に、いまから500年後、1000年後の人類が、いまの我々の肉食行為を「残虐行為」とみなすようになるかもしれない。 よく知られているように飼料穀物には次のような問題もあります。 ■<世界中でとれる穀物の約4割は食肉用の餌となる。先進国の人々が食べる肉を得るための飼料穀物の多くは、発展途上国で生産され輸出されている。しかし、その途上国自身の人々の食糧事情はとても悪く、決して穀物が余っているから輸出するのではない。自国の人々より先進国に売った方がはるかに儲かるから、そうするのである。今、この地球上では、約8億4000万人が慢性的な栄養不足の状態におかれている。全世界の約5分の1の人々は、食べる物が極度に不足し飢えに苦しんでいると言われる。(1996年FAO世界食糧農業白書)> 殺されていく動物を見て、心に痛みを感じるのは、どこかに無理があるからだと思うのです。いろいろな意味で。 人間の心が苦痛を感じるのは、何のためなのか。背景には何があるのか。それを考えるのは、とても大事なことだと思う。 もっとも肉食を悪と考える思想が広まるのは、社会の小児化である、という説もあり得ます。 うーむ。難しい。憲法を改正して、いざというときは戦争もできる国家になるべきかどうか、そういう問題にも通底するものも、少し感じます。
その他の回答 (21)
- Shinnbone
- ベストアンサー率42% (146/345)
私はティーンエイジャーの頃南米に住んでいて、実際に何度も動物を解体した事があります。今はヴェジタリアンのアメリカ人と結婚してアメリカに住んでいます。彼女は私にヴェジタリアンになれとか、非難がましい事を言った事は一度もありません。 彼女は、食肉用に飼育されている動物の環境のあまりのひどさに、大学生の時に菜食主義者になったそうです。さらに、犬や猫は食べないんだから、牛や豚を食べるのはおかしい,と言います。私は彼女と全く同じ考えですが、私自身は、「だから、犬も猫も食べてよい』という意見です。 個人的には,動物を殺した事の無い人が菜食主義者の意見はおかしい,と言うのにはかなりの違和感があります。別に肉を食べるな,とは言いませんが、少なくともかわいそうだからという理由で菜食主義者になった人の方が筋が通っていると思います。彼らは動物を殺せない,だから食べない訳ですから。さらに,犬や猫を食べるのに反対する人が菜食主義者を避難するのもおかしいと思います。実際にこういう人達は私の周りにいます。 ご質問にあるAさんの意見はまあ、正論だと思います。ただ、個人的にはこういった事を非難がましく言われるのは好きではありません。「私はこういう理由で肉は食べない。あなたはどう思う?」と言われるのはかまいませんが。Bさんの意見も屁理屈的ですがまあ正論でしょう。言い言葉に買い言葉に聞こえます。 ちなみに、ガンジーは菜食主義でしたが、レタスやキャベツ等の「葉っぱ」はたべなかったそうです。果物等,動物に食べられる事によって種が広がる、つまり、食べられる事が目的の物しか食べなかったという事です。
- jackassthe3rd
- ベストアンサー率50% (1/2)
まず、私はベジタリアンです。 Aの主張は正しいか―これは正しいと思います。 殆どの人間は動物が哀れな死に方をしていく映像を見る場合と植物が枯れゆく映像を見る場合とでは、前者ににより衝撃を受けると思います。また動物の首を切るのと花を摘むのも人間にしてみれば大分意味合いが違う。むしろAさんの主張はかなりやんわりした主張だと思います。 というのも、そもそも動物と植物を同じに考えるなんておかしいというベジタリアンもいるからです。私はAさんと同じ考えです。 ただ、肉を食べるのが正しくなくて、食べないのが正しいとか、その逆もありますが、要するに菜食の精神は正しいとか正しくないで割り切れないものがあると思います。私は、なるべく肉食の人とこのような議論はしたくないというのが本音です。
お礼
>殆どの人間は動物が哀れな死に方をしていく映像を見る場合と植物が枯れゆく映像を見る場合とでは、前者ににより衝撃を受けると思います。また動物の首を切るのと花を摘むのも人間にしてみれば大分意味合いが違う。 私もそう思います。もし、動物と植物が同等に「食べてよい」のならば、課外授業などで農作物の収穫を行うように、屠殺場の見学を行うのが、両者にとってフェアーだと思うのですが、刺激が強すぎるので後者は行われないのでしょうね。見るべきものを見ずに「食べる」と判断するのは自己欺瞞のように感じることもあります(あくまでも自分において)。自分の行為について、どこまで知るべきかという問題も絡んでくると思います。 参考になりました。ご回答ありがとうございます。
- LU-SAN
- ベストアンサー率9% (1/11)
質問されてから、結構時間が経っていますが、答えさせて下さい。 私は、軽いベジタリアンです。 この質問は、言い方が悪いですが、クソ真面目なベジタリアンがよく言いそうな事です。私の意見は「お互いに好きにしたら?」かな。 べジにもいろいろありまして、宗教からとか、健康(長生き)、ただ単に、食べるという事に抵抗がある人等、いろいろです。私は3番ですが、1、2番の人達とは、多分仲良くしたりできないんじゃないかと思っています。だって、すごく食べたいのか知らないけど、お肉に似せた料理を作ったりもする人もいるんです。bofdさんの質問の様な会話が現実にあったら、聞きたくもありません。突き詰めれば、野菜(米も)も一緒です。私の場合、肉や魚は自分は食べないけど、家族はみんな普通に食べます。私の大切なワンコも肉食です。信じられない事に、マグロの刺身が大好物です。触れません。でも、ワンコが、アレルギーだとわかった時、検査結果の紙を見ながら、「ヨシ。鶏とウサギだったら、お前が困ったらバラしてやるよ」と思っていました。 話がそれました。べジは好きでするもんだと思っております。 ので、Aさんの主張も間違いではない。と思う。でも、それを他の人に押し付けるのは、失礼です。すぐ仲間をつくりたがる人もいますが...そして、べジの人に、「何でべジになったのか」「野菜だって生きてるのに」とか言うのは止めた方がいいと思います。言われ飽きているんです。NO19さんにほぼ賛成。
お礼
>突き詰めれば、野菜(米も)も一緒です。 この部分が意見の分かれるところですね。肉も野菜も食べる人には、動物と野菜両方に同情しない人と、両方に同じように同情するから同等に「食べてよい」とする人がいるのだと思いました。 >Aさんの主張も間違いではない。と思う。でも、それを他の人に押し付けるのは、失礼です。 一方的に、意見を押し付けるのは失礼だと私も思います。けれども、例えば犬を飼っていてその犬を家族の一員と思っている場合、その犬が傷ついたときに同情するのは当然なことですが、その延長として他の犬が傷ついたときに同情するのも私は理解できます(自分の犬だけに同情するということもあるとは思いますが)。家族と似た「かたち」をもったものの痛みに対して、同情の言葉がつい声高になってしまう気持ちは、個人的にはわからなくはないです。 参考になりました。ご回答ありがとうございます。
- j-seal
- ベストアンサー率41% (14/34)
質問が出てからだいぶ時間がたっていますが、ちょっと興味のある話題なので回答させて頂きます。 Aさんの主張ですが、これは別に間違っていないと思います。Aさんにとってはですが。つまりこの主張は、Aさんが自分の菜食主義について自分を納得させている理由であるに過ぎません。だから、これによって自己満足しているだけ、と言えばそう言うことができます。また、これによって他人を納得させられるか、というのはまた違った話です。 では、倫理的に見ると、菜食はどう捉えられるのでしょうか。 一般に、菜食主義者が肉食を否定する理由としては、動物愛護の精神が主張されることが多いです。つまり殺される動物が可愛そうではないか、屠殺されるときには拒否して暴れるし、苦しむではないか、という倫理面からの主張です。それはもちろんそうではないかと思いますが、これは結局のところ、肉食を否定する理由にはなっても、菜食を肯定する根拠にはなっていません。 では菜食主義者が菜食を肯定する理由は何でしょうか。多分、植物には心(恐怖)がないし、痛みを感じることもない、暴れることもない、ということだと思います。だからAさんも植物に同情をあまり感じてないのでしょう。たしかに植物は暴れることはないですが、恐怖や痛みを感じていないという科学的な根拠はなく、むしろ植物には感情があるのではないか、という研究報告があるくらいです。 従って、倫理的な面においては、菜食がよいということを言うことは今のところ出来ないと思います。 結局、菜食を肯定するには健康に良いから、という理由しかないような気がします。それを受け入れるかは個人の自由です。
お礼
>倫理的な面においては、菜食がよいということを言うことは今のところ出来ないと思います。 この「倫理的」というのは、結構あいまいで、時代によって随分違います。例えば、奴隷が当たり前だった時代は人間でさえも家畜同様の扱いを受けました。同属意識が変われば、同情する対象も変わってしまいます。Aさんの動物に対する感情はこの同属意識の延長線上にあると思います。加えて、Aさんは菜食が良いとは考えていないと思います。肉食も菜食も命を奪うという点で悪であるが、「同情を強く感じるもの」の命の方がより重く感じるので、菜食を選ぶ。大悪より小悪を選ぶということだと思います。この辺はかなり個人差がある部分ですね。もちろん、それを受け入れるかは個人の自由だとは思います。でも、野良の子猫を焼いて食べる人がいたら私は許せません。(法律的にも駄目だったかも) ご回答ありがとうございます。
- mori0309
- ベストアンサー率32% (12/37)
mori0309です。 「憲法を改正して、いざというときは戦争もできる国家になるべきかどうか、そういう問題にも通底するものも、少し感じます。」 このNo.17の最後のコメントがわかりずらいと思いますので、補足させてください。 「肉食習慣は積極的に維持すべきだ」、という考えは 「平和憲法を持つ平和主義国家は、非暴力主義であり、これは菜食主義と似ている。しかし暴力に対して暴力で対抗できる力がなければ、自力で生きていける一人前の国家とは言えない。ひ弱で、小児的な国家である。だからいざというときには戦争もできる国家になろう。肉を食う体質を維持しよう」 という考えに、少し似ていると思ったのでした。
補足
ご回答ありがとうございます。(No17と合わせてお礼と感想を書かせていただきます。) >そういえば歌手のイルカさんが菜食主義者でしたね。小魚も食べない。「自然への思い」が彼女をそうさせるようです。 ベジタリアンになる理由は人それぞれだと思いますが、私は「自然のため」とか「地球のため」といった理由はあまり好きではありません。環境を守ることは大切だと思いますが、私の場合、それは「自分の大切なもの」=「自分、大切な人、好きな動植物、好きな環境」のためです。私にとって自然や地球というのはあまりに大きすぎて、その方向性や意思のようなものがわかりません。だから、「自然のため」なんておこがましくて言えません。人が「自然は豊かだ、地球はすばらしい」というとき、人にとって都合のいい部分しか見ていないのだと思います。自分の好きな動植物、森、海、空などを守りたいということだと思うので、結局は「自分の大切なもの」のためだと思います。 >従弟がこのように感じるのは、屠殺という仕事の罪の意識かも知れません。私も、実際にその場面を見れば、命が片っ端からコロコロ殺されていくことに、同じ意識を抱く気がします。 私たちが食べるものは、その多くが商品化されているので、肉の持ち主から命をもらっている(奪っている)という感覚が薄れているのだと思います。肉を食べることが良いか悪いかは別にして、自分がしていることの現実感が薄れている感じがします。 >いまから500年後、1000年後の人類が、いまの我々の肉食行為を「残虐行為」とみなすようになるかもしれない。 そうですね、動物に感情移入する人が増えたら、将来そうなるかもしれないですね。 >殺されていく動物を見て、心に痛みを感じるのは、どこかに無理があるからだと思うのです。いろいろな意味で。 >人間の心が苦痛を感じるのは、何のためなのか。背景には何があるのか。それを考えるのは、とても大事なことだと思う。 食べ物には不自由しない人が増え、回りのものに目を向けることが少しずつ増えてはいると思います。しかし、「臭いものには蓋」的なものも確かにあり、私の場合、「動物に感情移入するかしないか」というのは不問のまま、肉食が習慣になってしまっていて、いざ考えてみるとなかなか難しいです。 >「もっとも肉食を悪と考える思想が広まるのは、社会の小児化である、という説もあり得ます。」 私はベジタリアンと非暴力は直接つながるものではないと思います。ベジタリアンは植物を殺しますし、生きている限り何らかの生き物を殺すことは避けられないことです。ですから、たとえベジタリアンでも一つのエゴであり、一つの暴力です。むしろ、ある部分では、世界は連鎖する暴力によって成り立っていると言えます。結局は、何が「自分の大切なもの」で、「感情移入するべき対象なのか」が重要で、それによって暴力の是非も変わってくるのだと思います。
- de-niro
- ベストアンサー率21% (16/76)
No6です。私の回答では身も蓋もないですね。失礼しました。 食物連鎖の中で無駄な殺生をするのは人間だけです。他の生物は、生命の存続の為、食す(結果的に食した生命を絶つ)となります。これは自然の摂理であり変えようも無いでしょう。 上記から、無駄に殺したんであれば悪、生命存続の為、必要であったなら善と感じます。 極端な話、生命存続の危機であれば鯨であれ、猫であれ他に食するものが無ければ食してよし。同情をあまり感じないキャベツや大根であっても、必要以上に収穫し、食することなく捨てるんであれば悪。(少なくとも現在、猫を食す以外、生命の存続不可能なんて人いないと思いますが)なので食物連鎖のヒエラルキーの下位に位置する生命には、同情を感じないので肉食よりは良いとするAさんの誤りってのはどうでしょう? キャベツの千切りを得意とし、焼き鳥が大好物な割りに、自らニワトリを解体したことの無い、私ですが。
お礼
>無駄に殺したんであれば悪、生命存続の為、必要であったなら善と感じます。 無駄に殺したら悪というのは、私も同感です。 しかし、少し論点がずれているのではないでしょうか。Aさんの主張は、肉しかない、野菜しかないという場合ではなく、 肉も野菜も食べられるときに、野菜よりも肉の方により強く同情するから、野菜を食べるというものです。 文面からすると、なるべく猫を食べて欲しくなさそうに見えますが、私も同感です。そのように、食物にするか、しないかということを、人はある程度選択的に行っている。その境界というのは、その人の価値観や文化によって違います。Aさんの主張を題材にして、その境界について聞いてみたいと思いました。 参考になりました。ご回答ありがとうございます。
Aさんはトリックを使ってますね。本当は自分個人の感覚で判断している事を、自分以外の世界でも通用する規範にのっとって行動している、ことのようにまぎらわしく表現しています。 動物の痛みに同情を覚える、のはAさんの個人的な感覚ですね。Bさんの理屈もへんてこですが、要するに個人同士の意見のぶつけあい。ここに「公正」とか、「常識」とか、外部世界を巻き込んだモノサシを持ち出そうとすると、話がどんどん変になっていきます。 だって、食物連鎖の世界は、「虐げる」だらけでしょう~?
お礼
確かにAさんの主張は、個人の感覚で判断していることですね。また、それに伴い、主張していることは「公正」とか「常識」を引き合いに出しておらず、もっと狭い、個人の価値観に基づいています。 しかし、Aさんの感じたことがあまりにも突飛で、誰にも理解されないようなものならば、そもそもBさんにこんな主張をすることはなかったでしょう。Aさんが感じている動物に対する同情を、Bさんも理解してくれるかもしれないと思い、この様な主張をしたのだと思います。もし、BさんがAさんの気持ちを全く理解しないのであれば、No3.の回答者さんの様に「全く同情しない」と言って、主張を突っぱねればいい。考え込むというのは、ある程度の理解があったのかもしれません。 とは言っても、この会話は私の脳内で行われたもので、Bさんが考え込むというのは、私が考え込むということです。きっと即答はできないだろうと思います。 >だって、食物連鎖の世界は、「虐げる」だらけでしょう~? 確かにそうですが、人間に関して言えば、食べられるものは何でも殺していいというわけではなく、選択的に殺しています。例えば、日本では、あまり犬や猫は食べません。多くの日本人はそれらに愛着を覚えるからですね。逆に、日本では鯨を食べますが、この行為は他の国に非難されたりします。ですから、現状においても「何を虐げてもよい」というわけではないのだと思います。 参考になりました。ご回答ありがとうございます。
少し調べて、少し考えたのですが、世界中の人が ベジタリアン化したとして、肉から接種するエネルギー より、植物の方が少ないので、養豚場や養鶏卵場を つぶしたとしても、地球の面積が限られているし、 ましてや植物の生育させる事のできる地域、栽培地や 輸送方法を考えると、草食動物の数を減らさないと、 植物が減り絶滅する危険性があるのでは?と思います。 そうなれば、守るべき動物を殺すか、遺伝子を変えて 徐々に減らしていくかで、本末転倒な気がします。 また、菜食主義者でも乳、卵はOKな人もいるので、 (純菜食主義者は、乳・卵もNG。)、養鶏場や放牧場は 残るわけで、ますます、人の食べる植物を育てる地域が 少なくなります。 菜食主義者の方は、合成食物とかはOKなんですかね。 合成食物がOKなら、未来の科学力に期待しましょう。 どちらに、してもあまり生き生きした明るい未来では ないような。^^; 一応人間も、食物連鎖からは抜け出したけど、肉食を 続ける事で、大きなバランスを担っているんですねー。 でも、現時点では、菜食主義を広めれば広めるほど、 人類だけではなく、かわいそうと言っている草食動物 の絶滅が危惧されるのは、私の素人な想像なだけで しょうか? よかったですね、菜食主義が少数で、とエセ科学的な事で 丸め込みましょう。
お礼
No9.の回答にあるように、エネルギー効率という点では、ベジタリアンの方に分があるそうです。おそらく、草食動物が植物を食べ成長し、その肉を人が食べるよりも、もとの植物を人が食べた方が効率がいいのだと思います。草食動物の種の存続については、保護をして個数調整をするのだと思います。もちろん、現実的に無理な地域は肉食を続けるのでしょう。 >菜食主義者の方は、合成食物とかはOKなんですかね。 合成食物がOKなら、未来の科学力に期待しましょう。 将来、他の生き物に同情する人が増えるのなら、合成食物がメジャーになっているかもしれないですね。 >でも、現時点では、菜食主義を広めれば広めるほど、 人類だけではなく、かわいそうと言っている草食動物 の絶滅が危惧されるのは、私の素人な想像なだけで しょうか? 上に書いた通り、エネルギー効率でいえば菜食の方が効率が良く。種の絶滅については、もともと家畜なので、自然に生息する動物とは違い、前もって管理すればなんとかなりそうな気がします。ですが、専門家ではないので確かなことは言えません。 参考になりました。ご回答ありがとうございます。
- tiltilmitil
- ベストアンサー率22% (1871/8250)
絶対的に「正しい」主張などどこにもないと思います。ですがAさんがそう主張すること自体は自由でしょう。単に価値観の違いだけで。 もちろん、主張していいというのはそれを受け入れるべきだというのとは違います。言い分は認めた上で、聞いた方がどのような感想を持つかもまた自由。
お礼
ご回答ありがとうございます。 その通りだと思います。 できれば、tiltilmitilさんが、Aさんの主張に対してどのような感想をもったかを教えて頂ければ幸いです。
- 04taka
- ベストアンサー率28% (277/958)
まず前提条件として、人間の存在は、地球上に存在する生物を一方的に搾取している存在です。動物も植物も関係なく。 人間一人の生命を維持するのに、動物だろうと植物だろうと、どれくらいの犠牲を払っているのか、考えた事があるのでしょうか? それだけの高い、大変な代償を払って、人間は存在し、生活しています。 Aさん発言は、人間が犯している罪から逃れる為の詭弁です。正しい答えの無い問いの中で、自分を守ろうとしているだけでしかありません。 まず、沢山の命を殺生して生きている自分を自覚して、一生懸命生きるという所からすべての思考、価値判断は出発するべきなのでは?と思います。(もちろん、これは私のエゴです。) まあ、開き直っちゃったよオイ!って気もしますが、これが、ある時から自分の人生訓として、心の底に沈めている考え方です。(基本にしているというか。)
お礼
>Aさん発言は、人間が犯している罪から逃れる為の詭弁です。正しい答えの無い問いの中で、自分を守ろうとしているだけでしかありません。 おそらく、Aさんの発言は、罪から逃れるためのものではありません。 まず生きる以上、何かを殺すことは仕方がないと考える。その時点で、罪を犯すことは受け入れている。しかし、何を殺してもいいのではなくて、同情の大きいもの、自分に近しいものはなるべく殺さない方がいいのではないかと思ったのでしょう。しかし、どこまでが自分に近しいものなのか、その境界が人によって違うところが難しいですね。 >まず、沢山の命を殺生して生きている自分を自覚して、一生懸命生きるという所からすべての思考、価値判断は出発するべきなのでは?と思います。(もちろん、これは私のエゴです。) 現代はさまざまなエゴが乱立して、何が何だかよくわからなくなってしまいます。どこかで割り切らないといけないのですが、ついつい考え込んでしまう私の性分はなかなか治りそうもないです。 参考になりました。ご回答ありがとうございます。
お礼
>私はティーンエイジャーの頃南米に住んでいて、実際に何度も動物を解体した事があります。 動物の解体というのは、見慣れていれば大したことではないと思いますが、そうではない自分がいざやってみるとしたら、かなりの決心が要りそうです。 >犬や猫は食べないんだから、牛や豚を食べるのはおかしい,と言います。私は彼女と全く同じ考えですが、私自身は、「だから、犬も猫も食べてよい』という意見です。 両者とも、「犬や猫」と「その他の動物」を差別しないが、その扱いが違うといことですね。どちらも筋は通っていると思います。私は愛着があるので犬や猫は食べてほしくないですね。けれども、すべての犬がかわいいとは限らないから、経験的なものだと思います。この世のものとは思えないほと醜悪な犬を食べたいという人がいたらどう思うか、なかなか難しいと思います。 >犬や猫を食べるのに反対する人が菜食主義者を避難するのもおかしいと思います。 そうですね、ただ、お互いが理解するのはなかなか難しそうです。一時期話題になった「バカの壁」みたいなものだと思います。どちらかがバカだというつもりはありませんが。 >ちなみに、ガンジーは菜食主義でしたが、レタスやキャベツ等の「葉っぱ」はたべなかったそうです。果物等,動物に食べられる事によって種が広がる、つまり、食べられる事が目的の物しか食べなかったという事です。 命を奪うとしても、なるべく奪われるものの意に反しないようにするということですね。ただ、この「意」というのを理解するのもなかなか難しいと思います。「植物に意思はあるのか」、「植物が意図したのか、自然が意図したのか」、「自然が意図したのだとすると、家畜が人に食べられるのは自然の意図か」など、様々な疑問が浮かんでしまいます。 参考になりました。ご回答ありがとうございます。