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他人と視線が合うと怖くなります
街や電車やバスの中でふと他人と目が合う時ってありますよね。私は何故かそのふと目が合う瞬間が怖いんです。一瞬かもしれないですが、私にはその一瞬がとても長く感じられ、ダメだと思っていても振り返ったりして相手を再確認してしまいます。そして相手は必ず男性に限ります。女性と目が合っても全然気になりません。 何故再確認してしまうかと言うと、相手がずっと自分を見ていたのではないか、そしてストーカーに遭ってしまうのではないか、何か嫌がらせを受けるのではないか・・・と不安で不安でどうしようもない気持ちになってしまうからです。そして再確認をしてまた目が合ってしまうと、ますます不安が募ってしまいます。 周りからは「自分が先に見ているから相手に見られているように感じるんだよ」とか「気にしないのが一番だよ」などと言われ、私自身も自意識過剰なのではないかと思うのですが、何年経ってもこの気持ちは払拭されることはありません。 ずっと前、全然関わりのない人が執拗に追いかけてきたり、全然違うのに勝手に好きだと勘違いされたり、変質者に遭ったり・・・自分が望んでいない人から好かれることが多く、そのせいで警戒心は人一倍あります。相手の見た目とかではなく、一般男性全員です。こんなことを自分で言うのもあれですが、私は相手に警戒心を抱かせない雰囲気で、それが相手に隙を見せているのではないかとも思い、それで警戒心がまた強まります。彼や友人には心が許せる人もいますがすれ違う人には警戒心剥き出しです。 昔は誰にでも明るく接する事ができる性格だったのですが、ここ2~3年で急にこんなことを考え始め心配が止まらなくなってしまいました。私はどうしてこんな心理状態になってしまったのでしょう。どうすればいいんでしょうか。今病院にも通っていますが、どうしてもこれだけは改善されそうにありません。助けてください・・・。
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過去の出来事で心労が重なっているんでしょうか? 脳の中には平常心を司るセロトニンというホルモンというのがあるんです。 で、おそらくこのセロトニンがいろいろな心の病の一因にあると言われているんです。 この神経が担当しているのが「平常心」ですから、逆説的に自分から平常心を鍛えることをすればこの神経に働きかけることが出来るのではないかと想うんです。(自論ですが) 実際に坐禅を科学したものは多いんですが、坐禅をしていると脳に様々な安息効果が出るんです。さらに坐禅の呼吸法もセロトニン神経に効くんだそうです。 http://stutstudent.cool.ne.jp/qanda/serotonin1.htm http://physi1-05.med.toho-u.ac.jp/arita/arita.html で、私もうつ病等々の心の病から回復した(たぶん)と自負しているんですが、・・・・こういう心の使い方があるんです。 例えば、すれ違いざまに気配を気にしている自分に気が付いたら(気が付くように努力するんですが)「気にしてる、気にしてる・・・」または「気配を察してる、気配を察してる・・・」と2~3回確認するんです。 頭の中で過去の出来事をフラッシュバックさせている自分に気が付いたら「妄想してる、妄想してる・・・」。 ありもしない未来を空想している自分に気がついらら「空想してる、空想してる・・・」です。 心(脳)というのは神経の塊です。 いろいろな発想、心の働きというのも、乱暴に言えば神経の働きにすぎないんです。 手や足が痒くなったり、痺れたりするのと同じなんです。 心が痒くなったり(妄想)、痛くなったり(罪悪感)、痺れたり(空想)するだけなんです。(乱暴に言えば) ・・・こんな風に、心は神経の働きの一つにすぎないと考えて、それを客観的に実況中継するんです。 心だけでなく身体に出る本当の神経の働きも実況中継するんです。 例えば、街を歩いてるときも自分自身の心と身体に起こる神経の働き全てを実況中継’(ラベリング)するんです。 手が痒い。 左足から歩いてる。 妄想した。 気配を追った。 視線を気にした。 右足から歩いた。 自動車の音に気が付いた。 商品を気にした。 先のことを計画した・・・・とか。 こんな風に心と身体に感じられることをひたすらラベリングしていくんです。 ラべリング(実況中継)するのに必要なのは「気づく」ことです。 「気づく」ために必要なのは「平常心」です。 平常心なくしては気づくことも出来ません。 ましてや的確に客観的にラベリングすることも出来ませんので、 この訓練で平常心が育ってくるんです。 これは私のアイディアではなく、南方アジアに伝わる伝統仏教の「心を育てる瞑想法」なんです。 自分の心の働きと身体の働きを「単なる神経の働きだ」と想いながら遊び感覚、カルタ捕り、神経との追いかけっこのつもりでやってみてください。 最初は上手くいかなくてもきっと平常心が育ってくると想います。
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- kaitaradou
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全然関係ないかもしれませんが、私はほかの人と目が合うと、なぜか一瞬、自分というものの存在が明確でなくなるように感じることがあります。気を許せる許せないにかかわらず、人はお互いに視線を交わすだけで、相手の存在を不確かにものにしているのではないでしょうか。だからこそ自分を取り戻すためにプライベットな時間というのが必要になるのだと思います。あなたが凝視している相手も同じことを感じているのではないかと思います。だから余り相手をジロジロ見ないというのが礼儀とされるのではないでしょうか。もちろん危険な相手というものもいることは間違いありませんが、あなたに見られてあなた以上に不安になっている人もいるということも考えてみたら少し気が楽になるというようなことはないでしょうか。
お礼
ご意見ありがとうございます。自分が不安に思う事は見られている相手は私以上に不安に思っている可能性があるということですよね。そう思うと少しは気がラクになれます。でもふと目が合う、という行為はなかなか避けられないような気がしてならないのです・・・。うつむいて歩くしかないのでしょうか・・・。
お礼
アドバイスありがとうございます。何度も何度も読み返しました。まず自分の行為に気づくこと、そして一つずつ順序だてて分析していく、それが大事なんですね。よく心の病は脳のセロトニンと関係ある、と聞きますがこういう風に説明して頂けるとよくわかりました。心が脳神経と関係あるとわかっただけでも治るかも、という気持ちになります。最初は確かに意識するのは難しそうです。でもそれが日常的に出来るようになればと思っています。アドバイスありがとうございました。