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世界の中心で愛をさけぶについて質問です。

今さら感もありますが、どうしても引っかかる部分があるので質問させていただきます。 映画の中で、体育館の中でアキを思い出しているサク(大人)を律子が見つける、というシーンありますよね?あのときの律子の行動がイマイチ理解できないんです。映画を見たときは、律子はサクとアキの事を知っていると思ってたので、何とも思わなかったのですが、その後のシーン、偶然入った写真館で、「アキさんの好きな人はサクちゃんだったんだ・・・」とつぶやいていましたよね?ということは、このとき初めて二人の関係に気づいたといことですよね。ではなぜ、体育館でサク(大人)を見たときに何も声をかけなかったのでしょうか。律子はサク(大人)には何も知らせずに四国(でしたっけ?)まで行ったんですよね。なのに、行った先の体育館で、サクの姿を見つけたら、普通は声をかけたりしませんか?あのときの律子の行動は、どのような心理からなのですか?わかる方いらっしゃれば是非教えていただきたいです。くだらない質問で申し訳ないです。

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  • saty59
  • ベストアンサー率13% (11/79)
回答No.3

こんばんわ! わたしなりの解釈ですが・・・ その場面はわたしも、初めはあれ?って思いました。でも久しぶりにDVDでまた見たときに、ふと気付いたんです。 律子にも亜紀が見えたんじゃないか・・・って。 そんなことありえないと思うけど、そうゆう雰囲気というか、心の目(?)みたいな。 サクが、電話で「亜紀がいたんだよ!」って言うじゃないですか。その、サクが体験(?)した幻みたいのを律子も感じたんじゃないかと思います。 声をかけようとしたけど、かけられなかったんだと思います。 声をかけられる雰囲気じゃなかったというか・・・ そして、サクと亜紀かは分からないまま、居たたまれなくなってその場を離れたように見えました。 あまり参考にならなくてごめんなさい!

その他の回答 (2)

  • kazewind
  • ベストアンサー率41% (7/17)
回答No.2

自分がべつなwebのレビューに書いたコメントを載せますので参考にしてください。自分はこの映画を見て最初からその不自然さに疑問だらけでした。美しい映像と音楽にだまされてはいけません。 すべてが朔太郎の心象風景や妄想なのか?あるいは死んでも死に切れずに、なおも朔太郎の心に棲み続ける亜紀の怨念の物語なのか?それが監督の意図するところなら十分に納得できるのだが、映画版「世界の中心で愛をさけぶ」は、全編に亘ってリアリティがまったく感じられない映画だ。映画に完璧なリアリティを求めるのは無理な話である。その内部に描かれたものが真実であれば、どんなに荒唐無稽な物語や出来すぎた偶然にも観客は不自然さを感じずに許容してしまう。だがこの映画の物語の展開やシチュエーションは、あまりにも不自然すぎる。むせび泣く大沢たかおの姿を見ても、女々しさだけが鼻について感情移入できないのはそのせいだろうか?柴咲コウ演ずる婚約者の律子の立場は、あまりにも気の毒すぎる。  不思議なことに同じ原作ながら、テレビ版には、毎回泣かされる。非常に良く出来たドラマだと思う。作り手や役者が違うと、こんなに印象が違うものかと、今さらだが、とても驚いている。返って興味がわき、あまり読む気のなかった原作を読んでみたくなった。

  • memoko
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回答No.1

うん、じゃあ、声をかけてみましょうか。 あれ?サク?どうしてここにいるの~? わたし?わたしはさー、話せば長くなるんだけど、 昔の服を整理していたら、ポケットからカセットテープが出て来たのよ~。で、中を聞いてみたらびっくり、 「わたし、もう死ぬとおもう……」とか、入ってんの~ 小学校の時にお母さんの病院で仲良くしてくれたお姉さん、もう死んでたんだよね~、で、恋人にあてた最後の言葉を持ったままだったわけなのよ~。いま、その恋人を探して、これを渡そうと思ってさ。 でも、サクちゃんも来たのなら、先にごはんでも食べよっか~ こんなの、ありだとおもいます? 

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