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日本人のありようについて
今現在大した民族意識も無く、国家のありように対して殆ど関心が無い様に思われますが、日本人としての意識は何処まで必要でしょうか?私自身現代の典型的日本人(と自分では思っています)として、自分に直接関係の無い物事は蚊帳の外、政府の腐敗や外国の無茶も、個人的に怒りを覚えたりしない限りは意識の片隅に追いやり、日々生活の為、楽しみの為に暮らしています。国家的に危険な経済状態や、対米に対してのみ尻尾を振り正論、正義を省みない国体無視の状況も何処吹く風で、マスコミ等で取り上げられなければ拉致監禁や竹島問題、ブッシュ大統領の不正やアルカイダの脅威に心を割く事もしないままに過ごしています。これは既に自分の中に愛国心や忠誠心、何に対して誠実であらねばならないかと言った考え方が薄れているから、と言うのが一因だと思っています。では、昔の様に(飽く迄もイメージですが)日本国万歳と唱え、国に対しての誇りを強く持てば良いのかというとそうとも思えません。出来ることならば民族、国家の垣根を越えて、世界中の人々が手を取り合えたら等と思っても居ます。現実にはそんなことになれば世界中が貧乏になり(裕福な国が今に比べて、ですが)、誰も彼もが自分の主張を通そうとし始めて大変な事にもなるのでしょうが…。更に夫々の気候風土に長きに渡り醸成されて来た民族性が有る為、世界の国の垣根を取っ払った所で諍いや紛争はなくならないでしょうが。では今日本人に求められている物(或いは存続する為に必要と思える物、精神)は一体なんでしょうか。皆様のお考えを教えて下さい。
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質問者が選んだベストアンサー
難しいことはよくわからないし、答えになっているかどうかもわからないのですが、私はお互いに尊敬する心、誰に対しても感謝する心、思いやりの心を大切にしたいと思っています。これらは約400年の歴史を持つ、日本の伝統文化である茶道の精神なんです。
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- cuba2004
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#2ですが、回答をごらんいただくと判りますように 「一般人・自信無し」 なんですね。 大口たたいた割には、というところでしょうか。がっかりさせてすみません。 ただ、実際、一人で行動していることは事実でして、これは年齢がなせる結果でしょうか。簡単にいえば年をとって怖いものが無くなってきただけです。言葉がすばやく出てしまうようになった、ともいえます。これは危険を伴いますね。良い子と若い人は真似しませんように。 もう少し正直に申し上げるならば、閉塞感からくるヤブレカブレ状況からくる勇気かと。本気で反省しているんですよ。自分達大人がこんな世の中にしてきたことを。最も身近なところでの実践としては、私はこれこれの事に関しては、このように考えている、と、自分をオープンにすることを日常的にしています。そこから新しい友人が生まれる事も有りますし、反対にどうしょもない反感を買うことも。(冷ヒヤ)気にしていません。だって、例外なく何時かは死んでしまうんですよ。こんな力の無い私だって世の中をマシにしたいじゃないですか。すみません。あまり参考にならないかもしれませんね。でも、質問者さんは、すでに考えておいでです。これはひとつのツールです。考えることは力になります。
お礼
とんでもない!がっかりなんかしません!勿論貴方様がありえないような正義の味方で日々戦い続け、何時か世界を正常に正してくれる…なんて妄想が膨らんだのは事実ですが(←ほんとにがっかりしとらんのか?)。ただ、反省する大人事態が(私も含めて)滅亡種になってしまった感の有る今の社会では、とても前向きな、一つの規範となる生き方をしておられると思います(破れかぶれの勇気の何処が悪い!?)。 >考える事は力… 確かに仰るとおりだと思います。ただ、嘗て私が尊敬していた有る方に言われた事があります。 「座していては何も出来ませんよ」と。 確かに考える事は力を生み出す事にはなるのでしょうが、その力を使わなければ意味が無いと。貴方の様に自らの意思表示を積極的に行う事こそが、本当に必要な事なのだと思います。くどいですが、だからと言って私にもそれが出来るとは思えないところが、恐らく何も生み出さない事になるのでしょう。ただ、飽く迄も他力本願、無知蒙昧では有りますが、誰かが叫び立ち上がれば後に続く事くらいは出来るかも知れません。そういう事ならばもっと多くの人も同じだと思います(最もその性質こそが嘗ての軍国主義、そして現在の経済至上主義を生み出し、国、人民、社会の荒廃を齎しているのだとも言えますが)。いっそ人の尻馬に乗るのならば正しい事を貫きたい(←何処までも他力本願な…)!大義名分が無ければ動けない人々にはそれを与える事こそが力を生み出す事になるでしょう。一つ間違えば滅びかねない危険な思想ですが。しかし今までとは違い、主君の為、帝国国家の為、会社の為、自分の為の大儀では無く、人に、社会に、未来に誠実であろうとする大儀ならば報われるかどうかはさておくと言う大儀の性質としては申し分ないのではないでしょうか?…これとて間違えば同じ事かも知れませんが。再度御意見いただきまして有難う御座いました。
- neorolling55
- ベストアンサー率42% (9/21)
愛国心とは、国を強くし戦争に勝つためにあると思います。そして、そのような時は国民が国家を注目し一つにならなければいけません。そのためには国民に共通の価値観を持たせ意識を一つにします。尊王がそれの代表です。 国のために死ねる国民がいなければ戦争に勝てません。 ただし、戦争が起こる予定が無ければ、特に必要の無い価値観ではないでしょうか。 ですが、永い戦争の歴史から読み取れることは、保守的な思想とは、人間の原点であり正論ではないかということです。 危機的な状況が起こると世論が保守に傾くのも理解できます。 ただ、そのような民族主義に凝り固まれば、戦争は永遠に無くならないと言うことです。 私は、国家と国民は主従関係である必要は無いと考えてます。戦後の日本人は大和魂を忘れてしまいましたが、代わりにある種の新国家観を築いたとも言えるのではないでしょうか。 私は、日本が好きでもちろん愛国心もありますが、押し付けられた価値観には従いません。 「日本が天皇を中心とした神の国」とは思っていません。
お礼
アドバイス有難う御座います。ただ、私が思うに国民の意識を統一し、国の為に死ねる国民を作り出したのは飽く迄も戦争遂行の為に愛国心を利用した結果だと考えます。本来は愛国心=自分の国、民族が最高で、これを守る為に何をしても良いという考え方では無いのでは無いでしょうか?確かにこの愛国心と言う言葉自体が自らが属する共同体を愛するという意味なので、それが度を過ぎれば上記の様な状態にも陥るでしょう(過去、現在共に確かにこうなる事が必然にも見えますが)。しかし自らが属する共同体とは、そもそも家族であり、社会であり、国家であり、ひいてはその考え方の延長上に世界の一部たる自分という考え方が有るのが本来の愛国心だと考えます。自分の親や子供、兄弟が何らかの形で道を外す時、これを窘め、共に悩み、解決するように努力する事こそが国家に対しての愛国心と同義だと思います。国民は飽く迄も国家の僕ではなく、国家、社会と共に発展、進歩すべき物では無いでしょうか。愛国心とは、国家と国民の主従関係を形作る物では無く、国家を発展させる為には時には間違いを正し、苦しみは共に分かち合うと言った(某首相の痛みを伴う云々は笑止ですが)形、その基盤を為す考えだと思います。また、大和魂がそのまま愛国心では無い様に、仰るように愛国心の為に押し付けられた価値観に盲目的に、無思考で従う物では無いとのお考えの通り、しかし愛国心は有るとのお言葉が即ち愛国心は適正に捉える限り必要だと言う事ではないでしょうか?その意味では天皇を中心とした神の国という想いも、常に民族間を隔てる障壁とならない様に注意していれば、自分達が優位であると言う誤解、傲慢を抱かない様に常に注意を払っていればそれはそれで素敵な思想だと思います。こんな事を書いてますが、正直私自身はと言うと皇居のお堀で立小便をした事が有ったりして…(それはそれで大問題ですね、反省)。
- kopangoo
- ベストアンサー率28% (8/28)
No.1です。「尊敬する心」→「尊重する心」の間違いでした。「尊敬(重)すべきだ」「感謝すべきだ」と、「~すべき」ということもないと思いますよ。「~すべき」とすると出来なかった自分を追い詰めてしまうことになりそうなので。忘れてしまったとしてもそのときは確かに感謝の心があるわけですし、そのような気持ちを心掛けるということが大切かな、と私は思うわけです。そして自分の考えも持ちつつ、人を受容れる気持ちをずっと持ち続けていられるよう、日々茶道の修練にあたっているのです。 >何時になれば人は人として大人に成れるのでしょう 私もいくつになっても「まだまだ未熟者」と思う自分がいると思います。死ぬまでそう思うかもしれません。完璧な人も存在しないと思っています。初心を忘れず、おごることなく一生勉強のような気がします。
お礼
お礼が遅くなってしまいました。尊敬する心は尊重する心からも生まれますよね。それから~すべき…ですが、私も本当はそんな考え方は良くは無いと思います。ただ、心が無くとも、上辺だけでも『~すべき』に縛られての事であっても先ずは正しいと思えるように振舞う『べき』だとも考えます。その内に意味や実が伴ってくる事もあるのでは無いかと。何て事を書いた所で実際の私がそのように生きているかと言うと笑っちゃいますが…。出来る事ならば一生勉強の過程で成るべく人に迷惑をかけないで生きていけたらとも思いますが、…無理でしょうね。茶道の心は日本の紛れも無い心を表しているようですが、国の民全てがこれを心がける事も難しいでしょう。では全ての人が、少なくとも大多数がもっと考えて、面倒臭がらずに正しいと思える物を応援し、間違いに対して否と声を上げられるようになるにはどうすればよいのでしょう?理想的に過ぎるお話かも知れませんが、今の世の中は多くの若者が社会を人事とし、自らの享楽しか考えず、そうした指針を教える大人も居ない状態に過ぎるのでは無いかとも思いますが。 再度のお答え、有難う御座います。また、お礼をするのが遅くなりました事をお詫び致します。
- cuba2004
- ベストアンサー率33% (40/120)
申し訳ないのですが愛国心とか国に対する忠誠心は持っているのかいないのか、試されるような局面に立たされた事が無いのでわかりません。ただ、日々、落ち込むような状況下であっても、ひたむきに生きている、と、そんな自分をイメージしています。あくまでもかっこいい生き方としてですが。 質問者さんが反語のように列挙されている問題の数々、私自身はマジでコミットしています。日常的に。愛国心の有無ではなくて、自分自身の越し方を省みて!なんです。 念のため申し上げますが私は右でも左でもありませんし、宗教団体にも属していない団塊世代で、大学進学をせずに高卒で就職しましたから学生運動とも無縁の人間です。数年前、ハタと自覚したのですが、世の中、あまりに酷い状況で、とても若い人たちに差し出せるような日本ではないと。なんとかしなくては。でも、人と群れて運動するには、私自身忙しすぎるし、かったるい。私は一人を選びました。一人でもできることはあります。電話やらメールやら、或いは直接、自分の考えを誰かに伝えること。それまで黙っていて何も動かなかった自分をリセットしたのです。 あっ、でも、これってそんなに大袈裟なことではないんですよ。働きながら家庭も有り、介護もありという普通の生活の中でのことですから。 団塊の世代の前の世代の学生運動経験者の女性を見て感じたことですが、ヒロイックに当時を振り返り語る現在の彼女は、今やどっぷりと体制側に属し社会的にステータスの高い夫のお金で自由な生活をしています。勿論、人もうらやむ生活は私だってしてみたいですよね。でも、なんですか、薄っぺらにも感じるのですね。まあ、そんなんじゃ、いかんよ!とは、誰もいえませんよね。 一人一人が自分を例外とせず、考え抜いてできる事をやる。もしも、何とか今の状況を変えたいと考えるのならば、シンプルですが、「考え抜く」「働きかける」、これです。「個人」の思いで働きかけ、結果、小さな事ですが変化をもたらせ得た経験もありますから、少なくともやらないよりはましでしょう? でも、頭を思いっきり殴られる時も有るかも、と一応の覚悟はしています。それも含めて、なんですか自分では潔く生きられ楽しいんです。
お礼
御意見有難う御座います。ですが「日常的にコミット」?…一体どうやって…? きっと寄せていただいた御回答にも有るように『一人一人が自分を例外とせず…』と言う事の実践なのでしょうけれども実際にどのようになさっているのでしょう?ってここまでお聞きすると自分が何も考えられない他力本願の腑抜けに見えてしまいました(泣)。ただ仰りたい事は理解出来ますが、cuba2004様の様に考え抜き、働きかけると言う事自体が今の私達日本人全体に欠けている事だと思います。では原因は…?私が質問したような、愛国心云々とは関係ない所にあるのでしょうか。この様な質問を立てて置きながら、私自身は人に発露を促すような働きかけが出来ない部類の人間だと思います。例えば込み合っている電車の車内で無法な行為を目にした時、それを注意する為にはその行為によって私自身が迷惑、損害を蒙るといったプロセスが必要なのです。それなくしては「関係ないだろ!」の反撃に対して弱気になってしまうのです。それこそが間違っているとは思うのですが。この様な場所でお聞きできる事では無いでしょうが、リセットの方法が是非知りたいです。
お礼
きっと日本人としてと言うよりも人間として当たり前の事なんでしょうね。しかし実際には難しいことの様に思われます。私自身、例え相手がそのように生きている方であってもそれに気付けなければその方を尊敬出来るかどうか判りません。この時点でお互いに尊敬する心が欠けています。実際には仕事でも何でも他者を軽蔑する事が多いような気がします(自分を棚に上げて)。これに気付いたからと言って自分で治せる物とも思えません。また、感謝は良く心に留めるほうだとは思いますが、すぐに忘れますし、その気持ちを返す事も上手ではありません。きっと心の其処からの感謝に至っていないと言う事なのでしょう。全てをひっくるめて思いやりなのでしょうが、もう中年に差し掛かっている癖にそういった事を何一つ実戦出来ていない自分があります。自分を弁護する為だけに思うのではありませんが(多分)、多くの人が同じなのだと考えています。何時になれば人は人として大人に成れるのでしょう。あ、また感謝を忘れていました(笑)。回答頂きまして有難う御座います!