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梅に鶯

梅林で。観賞している古木に、鶯が二羽飛来して、花から花へと。 その光景に「梅に鶯」ということばを思い出しました。「とりあわせのよい例え」と辞書にありますが、鳥のなかで鶯がとくに梅の蜜を好むとかいったようなことはないのでしょうか。

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  • ベストアンサー
  • syunpei
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回答No.2

特に、梅に鶯のたとえ通り、鶯が好んでいるわけではありません。たまたま偶然です。 一切、ありません。 梅に鶯(うめにうぐいす) 取り合わせが良い二つのもの。美しく調和するもの。また、仲が良い間柄。 ↑まったく取り合わせに、根拠なし。  まあ、ただ見てなんとなく美しく感じはしますよね。 ただ、基本的には鶯は、梅ノ木には用はないみたいですね。 多くの場合、よくにたメジロをみまちがえているようです。 とあるサイトにこのような話がかかれていました。 「花札や軸などで見る、濃い黄緑色、抹茶色(うぐいす色)の小鳥からイメージしていた”鶯”に、メジロはぴったりです。ですが本当の鶯は、うっすら緑がかった褐色で、ヤブや茂みの中が好きで虫を好んで食すので、メジロのように花の蜜をつつきに梅の枝にとまることはあまり無いそうです。 梅の木同様、もともと『梅に鶯』は中国から渡ってきた文様です。 その中国の『梅に鶯』のウグイスは、高麗鶯といって黄色い鶯だそう。鶯宿梅の故事もあるように、日本文化にすっかり馴染み親しまれてきた『梅に鶯』ですが、染付けの青一色で描かれた小鳥を眺めながら、いろんな色の鶯を想像し、大陸の文化、宗教が伝わった遠い昔に想いを馳せました。 」 まったくとまらぬわけではないでしょうが、ほとんどが、メジロの見間違え、 梅に鶯とは、梅は中国からの渡来植物、かつて遣唐使が、文化とともに日本へ伝えたもの、 平安京の紫寝殿前には 桓武天皇が平安京へ遷都したときは、内裏には左近の梅、右近の橘が植えられていました。 http://page.freett.com/saketosakura/history.htm ここに、そのあたりは、詳しく私のサイトに書いていますが。 (橘も第十一代垂仁天皇の御代、田道間守は勅命により、不老不死の霊果を求めて海外に渡り、ついに橘を得て帰ったが、すでに垂仁天皇は、なくなられていた・・田道間守から橘と名づけられたとか・・みかんのルーツ) 梅も梅干が中国から日本へはいった。 こういったところで、学ぶたとえを ・梅の木学問(うめのきがくもん)といい。  梅の木は生長が早いけれども結局大木にはならないということから、俄か仕込みの不確実な学問。 まあ、互い耳が痛い話です。

noname#118935
質問者

お礼

カメラを向けている人がおおく、つい隣の木でも大型レンズのセットに余念のない様子で、「梅に鶯」の構図に興奮したわたしが、おっちょこちょいなのも手伝って、「ほら、梅に鶯ですよ」と声をかけようかと。メジロだったんですか。声をかけなくてよかった。山への進入路にある梅林で、春には鶯の鳴き声も盛んですから、つい鶯と思い込んだのでした。 詳細にお教えいただきまして、ありがとうございました。

その他の回答 (1)

  • sophia35
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回答No.1

おはようございます。 特に鶯が梅を好きだから・・・と言う訳ではなく、「鶯宿梅(おうしゅくばい)」と言う故事に由来するものです。 村上天皇の治世の話。 ある時、天皇がとても愛でていた梅が、枯れてしまいました。とても残念に思った天皇は、他の梅を探して来るよう言いつけましたところ、家臣がある屋敷で非常に、非常に枝振りの良い梅木を見つけました。そこで、それを宮廷に献上させたところ、その屋敷の女主人が認めた歌が枝に結ばれており、そこには 「勅なれば いともかしこし鶯の 宿はと問はば いかが答えむ」(天皇の思し召しとあらば、謹んで献上いたします。 とは言うものの、毎年この梅の枝に宿る鶯に「私のお宿はどこでしょう」と尋ねられたら、私は何て答えたらよいのでしょうか。) と詠まれていたそうです。 それを見た村上天皇は、即、梅の木を返したそうです。 この故事と、どちらも「春告鳥」「春告草」として、春を告げる取り合わせが良いとされるわけです。 ご参考になれば幸いです。

noname#118935
質問者

お礼

こんな質問に回答は期待できないかと思っていたのでちょっと驚いています。 「春告鳥」に「春告草」。 たしかに良いとりあわせですね。来年は、村上天皇の故事を脳裏にうかべながらの観梅になりそうです。 ありがとうございました。