俳句の閉鎖性について。
俳句の季語を歳時記などで共有するのは仲間意識によるものですよね。
歳時記がどういうものか見当つかない門外漢ですが歳時記を手に入れる過程でお金を払うなど代償を要求されるのが味噌でしょうか。
季語を歳時記で指定する俳句の閉鎖性についてご教示ください。
短歌には季語がないが、昔の和歌に季語はあったという事ですか。和歌がカジュアル化する方向で俳句が誕生したと思うのですがその俳句が和歌よりも開放的でないのはイメージに反します。
閉鎖性については季語に留まるものではありません。それは和歌にも共通しますが、たった17文字で豊かな表現や描写を達成すると宣伝されている俳句はそうあってはならないと思うのです。
例えば芭蕉の句であるらしい「この槌のむかし椿か梅の木か」(杵折賛)は、解説文を読めばなるほど印象深い名句に感じますが、この句の解説文を読まなければ、貴人の活け花を挿す筒になっている事まで想像できません。その解説などの諸情報が内輪ネタであるならば575で勝負している作品にならないと思います。教科書その他で575だけ見せて良いと通ぶって勧めるやり方はおかしくないですか。
また、槌と詠い、杵と題していますが、当時の用語として、槌=杵でいいのでしょうか。俳句は言葉を大切にし、言葉に五月蝿いはずですが。素人が同じ事をしたらピシャリではありませんか。
以上、宜しくお願いします。
お礼
こんにちは。 早速のご回答、ありがとうございました。 ついつい、なるほどとPCに言ってしまいました^^ さらに、勉強していきたいと思いますので、今後とも暖かく見守ってください。