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個性について

日本人ほど、個性のない人種はいないと思います。若い人のほとんどは個性を主張しながら皆、同じカッコウや髪型、しゃべり方じゃないですか。茶髪にするのも、人がやってないからでしょ。もし、茶髪をなくしたいなら、大人も子供も皆、茶髪にすればいいと思います。そうしたら茶髪もなくなり、逆に黒髪の方が多くなるかもしれません。それに、何か行動を起こすときも、いつも誰かといっしょじゃないですか。一人じゃ何もできないのに個性だといいながら、やっぱり、皆いっしょがいいんだと思ってしまいます。音楽の歌詞一つにとってみても、男性歌手が、私はといったり、女性歌手が僕たちはなんていったりしています。今や、男らしさ女らしさというものが、ないような気がします。ひどいのになると、男女関係なく自分らしさが大切だという人もいますが、男らしさ女らしさがあってこそ、自分らしさがあるものだと思いますが。皆さんは、これらの意見どう思いますか?

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  • chimney
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回答No.5

個性がないということは必要とされていなかった、ということです。 なぜなら少なくとも今までは組織に必要なのは個性ではなく能力と従順さであったからです。 ですから必要のなかったものを「持とう!」と声高らかに叫んでも誰も耳を貸さなかったのではないかと。 今では個性の必要性が問題視されてきましたが、多くの日本人はに問題意識はないでしょう。 もちろんそれが本当に問題なのかは私にはわかりませんが。 その上であえて言うのであれば私も「自分らしさ」というものに疑問を感じます。 「男らしさ」「女らしさ」「大人らしさ」など他の「~らしさ」というものには、それがいいのか悪いのかは別であり、流動的でもありますが目指すべき指針が現れています。 「自分らしさ」にはそれがありません。 自分が指針、だから自分は何をしようとそれが「自分らしい」ということ。 そう考えている人もいることでしょう。 以前に時間にルーズな友人に注意をしたら 「俺らしくていいじゃん」 といわれ頭に来たことがありました。 ありのままの自分でいることと向上心の欠如は紙一重です。 みなさんお気をつけて。

その他の回答 (4)

回答No.4

>じゃないですか ここ十数年で生まれてきた言い回しじゃないですか。 >茶髪にするのも、人がやってないからでしょ。 石を投げると茶髪に当たるじゃないですか。人はやってるじゃないですか。

  • First_Noel
  • ベストアンサー率31% (508/1597)
回答No.3

以下の疑問がわきます. ・どの国とどのくらい比較してそう思われるのか不明です.  例えばモンゴルやアンチグアパーブーダの人達はどうか. ・質問者さまが何がしかの手段で知ることの出来る日本人の数と,  日本人以外の数に大幅な開きがある場合には,  一概にこの結論に達することは危険です.  サンプル数が少ないほどバラツキが大きく出ます. ・平均像が異なる対象の比較も危険です.  全員が日本人と異なる国の人を見れば,きっと「みんなが個性的だなぁ」と  感じてしまうのでは? ・仮にこれが正しいとして,個性が無いことはいけないことなのか? ・集団主義と個人主義のどちらにあるべきかは,  その土地,その時代に影響されます. ・私は30代ですが,10代の若者が結構一塊に見えます.  また,50代以上の人達が結構一塊に見えます.  つまり,世代が異なると,細かい点を見る目が曇りがちになります. ・私が思う「その人らしさ」とは,その人の外面と内面の全ての内,  大部分は日本人として一致していても,ほんの1%,  いやそれ以下でも他と異なるものがある場合,その人らしさがあると思います. ・ぱっと見で「個性があるなぁ」と思われるのも,なんだかシャクです. ・「日本人はだめだな」と言う見方は,それ自体が「自虐の好きな日本人」の典型です. など.意地悪でごめんなさい. でも私,結論として,「日本人ほど、個性のない人種はいないと思います。」とは まるで思っていませんので,疑問点を提示しました.

  • osayo
  • ベストアンサー率20% (1/5)
回答No.2

「個性」とはkousyuさんの言葉を拝借するならば一つに「その人らしさ」という言葉で考えると分かりやすい気がします。それでは曖昧なので、「その人」というだけで充分な気もします。私の独断と偏見で述べるならば、個性が一番発揮されるのは「ありのままの自分でいられている状態」だと考えます。ありのままでいる為に、本当は如何なる強烈な自己主張も、逆に他人の目を意識する必要もない様に思われます。しかし社会…というよりも世間という他人の物差しを極度に気にする文化(いわゆる村社会)がかつて長く続いてきた日本人にとってそれはなかなかに難しいことのようです。 【個性と性別について】 自分が女性である。自分が男性である。自分がゲイである。なんていうことは、もしかすると「らしさ」ということを意識する以前の問題であるかもしれません。その性を授かって生まれているからです。従って性別に関しても「男らしい」「女らしい」というのは自然に出てこそのものなのだと私は思います。kousyuさんのおっしゃられていたとおり、自分の性を肯定せず、ねじ曲げるというのには私も疑問を感じます。 しかしもし、「その性別らしさ」という名の世間のステレオタイプに最初から固執してしまったのでは結局は個性からかけ離れてしまう可能性もあるように思います。例えば私は女性ですが、そんな私の人格の中にも「これは男性性っぽい要素だわ。」と思われる部分も沢山あります。一方男性の中にも、一般には女性性の象徴とされる受容性を生まれながらに多く備えている方がいたりと。その最たるものが「男なんだから泣くな!」とか「女なんだからおしとやかにしなさい!」なんていうお説教です。これはステレオタイプに基づく個性を無視したおせっかいの様に私は常々思っています。 【日本における個性?】 日本人だけか分かりませんが「個性」と聞くと「なにか変ったことをして自己主張せねば。世間の他の人と私はちょっと違うぜ!という一面をアピールしとこう。」という心理がどうも働いているように思うのです。それが例えば「茶髪」であったと思います。茶髪なんて30分もあれば完成するのですからかなり簡単です。無理せず自分の好きなスタイルでいるのも個性の一端ではあるかもしれません。なのでそれを利用しない手もありません。しかし、最初に申し上げたとおり、私は一般に日本人にとって他人の目を意識しないことはかなり難しいと思います。まず「他人様から変人扱いされるのはごめんだ。」とか「どう見られてる?私浮いてない?」と思っていたりするからです。そこで矛盾が生じます。気がついてみると「個性発揮」のつもりが「個性発揮したい軍団」の一員になってしまっている、という現象はこんなところから起こるのではないでしょうか? 【皆いっしょ。】 皆と一緒というのはなんだか心地良いものです。なにより、安全な気がします。それに皆と同じ意見だと、あたかも味方や応援団がついたようで心強いものです。それに個人的意見ですけど「人とちょっと違う」ことを日本では個性として認めるほど成熟していないように思います。学校なんかの子供社会ではその傾向は顕著です。自分は自分、他人は他人で切り離せないので虐めなんて起こるのではないでしょうか?ちょっと違うことをする、出立ちでいる人にとって、日本の世間(って「世間」って意識は幻想だと思っていますが。だって誰から誰までが世間様なのでしょう?)はとても冷たいように思います。出る杭も打たれてしまったり。 こんな背景で、私はkousyuさんのおっしゃられているようなことが日本で起こっているように思います。ちなみに私はダークブラウンの茶髪です。市場に踊らされているのも承知なのですが、流行のなにかに自分を合わせるのも時には楽しいです。というのは、私は自己主張してやろう!という気が、外見に関して言えばあまりないからだったりします。好きならやればよろしい、と思います。以上、個人的意見ですが参考になれば嬉しいです。

回答No.1

交際範囲を広げたら  貴方の周囲の人は皆そのような個性のない人ばかりなのですか?かわいそうですね。少し交際範囲を広げたらどうですか?

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