corpus の回答履歴
- 物質は実在するのでしょうか?
「物質」というものが、本当に「実在」するのか疑問に思っています。 そもそも「物質」とは何かがよくわかりません。例えば、目の前のリンゴは、常識的には「物質」だろうと思います。そして、科学的知見によれば、その物質であるリンゴは、分子の集合であり、分子は素粒子の集合だということになります。しかし、その素粒子は、リンゴのように色が付いてないし、輪郭もはっきりしないし、正確にどこの位置に存在しているかすら確定できないし、波の性質と粒子の性質を併せ持つものと言います。そんな得体の知れないものは、常識的な感覚では想像できません。常識的な感覚では想像できないにも関わらず、何故、それが「実在」すると考えるのでしょうか? それは、「素粒子」の振る舞いについて数学的モデルが考えられ、その数学的モデルに基づいて計算した結果が「実験事実」と一致するからではないでしょうか? もし、「素粒子」についての「計算結果」が「実験事実」と一致しなければ、「素粒子」が実在するなどとは考えないのではないでしょうか? ところで、「実験事実」とは何でしょうか? それは、「観測された現象に関する事実」ではないでしょうか? このように考えると、以下のような結論になると思います。 この物質世界は「現象の集合」として認知され、その「現象の集合」は「数学的モデル」により説明ができる。 すなわち、この物質世界は現象であって、その現象の背後に現象の原因となる何か、多分一般には「物質」と呼ばれている何か、を想定する必要は全くないのではないでしょうか? 「物質」が実在しているわけではなく、「現象」と「数学モデル」が存在しているだけではないでしょうか? 言い換えれば、「物質」とは「数学モデル」のことではないでしょうか?
- 物質は実在するのでしょうか?
「物質」というものが、本当に「実在」するのか疑問に思っています。 そもそも「物質」とは何かがよくわかりません。例えば、目の前のリンゴは、常識的には「物質」だろうと思います。そして、科学的知見によれば、その物質であるリンゴは、分子の集合であり、分子は素粒子の集合だということになります。しかし、その素粒子は、リンゴのように色が付いてないし、輪郭もはっきりしないし、正確にどこの位置に存在しているかすら確定できないし、波の性質と粒子の性質を併せ持つものと言います。そんな得体の知れないものは、常識的な感覚では想像できません。常識的な感覚では想像できないにも関わらず、何故、それが「実在」すると考えるのでしょうか? それは、「素粒子」の振る舞いについて数学的モデルが考えられ、その数学的モデルに基づいて計算した結果が「実験事実」と一致するからではないでしょうか? もし、「素粒子」についての「計算結果」が「実験事実」と一致しなければ、「素粒子」が実在するなどとは考えないのではないでしょうか? ところで、「実験事実」とは何でしょうか? それは、「観測された現象に関する事実」ではないでしょうか? このように考えると、以下のような結論になると思います。 この物質世界は「現象の集合」として認知され、その「現象の集合」は「数学的モデル」により説明ができる。 すなわち、この物質世界は現象であって、その現象の背後に現象の原因となる何か、多分一般には「物質」と呼ばれている何か、を想定する必要は全くないのではないでしょうか? 「物質」が実在しているわけではなく、「現象」と「数学モデル」が存在しているだけではないでしょうか? 言い換えれば、「物質」とは「数学モデル」のことではないでしょうか?
- 物質は実在するのでしょうか?
「物質」というものが、本当に「実在」するのか疑問に思っています。 そもそも「物質」とは何かがよくわかりません。例えば、目の前のリンゴは、常識的には「物質」だろうと思います。そして、科学的知見によれば、その物質であるリンゴは、分子の集合であり、分子は素粒子の集合だということになります。しかし、その素粒子は、リンゴのように色が付いてないし、輪郭もはっきりしないし、正確にどこの位置に存在しているかすら確定できないし、波の性質と粒子の性質を併せ持つものと言います。そんな得体の知れないものは、常識的な感覚では想像できません。常識的な感覚では想像できないにも関わらず、何故、それが「実在」すると考えるのでしょうか? それは、「素粒子」の振る舞いについて数学的モデルが考えられ、その数学的モデルに基づいて計算した結果が「実験事実」と一致するからではないでしょうか? もし、「素粒子」についての「計算結果」が「実験事実」と一致しなければ、「素粒子」が実在するなどとは考えないのではないでしょうか? ところで、「実験事実」とは何でしょうか? それは、「観測された現象に関する事実」ではないでしょうか? このように考えると、以下のような結論になると思います。 この物質世界は「現象の集合」として認知され、その「現象の集合」は「数学的モデル」により説明ができる。 すなわち、この物質世界は現象であって、その現象の背後に現象の原因となる何か、多分一般には「物質」と呼ばれている何か、を想定する必要は全くないのではないでしょうか? 「物質」が実在しているわけではなく、「現象」と「数学モデル」が存在しているだけではないでしょうか? 言い換えれば、「物質」とは「数学モデル」のことではないでしょうか?
- 芸術や美について扱っている哲学者
タイトルのまんまですが、芸術や美(学?)について扱っている哲学者や本を教えて欲しいです。 また、この哲学者のこれが面白い!!といったお勧めもあれば書いていただけると嬉しいです。 宜しくお願いします。
- スタートレックに出てくる転送について
スタートレックで人間や物を別の場所に転送するというのがありました。そういう装置をどうやって作るかを昔考えたことがあるんですが、いくつか分からないことがあります。 まず、転送に使う送受信装置は次のようなものだと思います。 (1)送信装置は、送り出す物質の分子や原子の状態を読み取り、デジタルデータとして、受信装置に送信する。 (2)受信装置には必要となる可能性のあるすべての元素の必要な量を用意しておく。データを受け取ったらそのとおりに分子を合成する。 (3)送信が成功したら、送り出し側の人間や物は元素に分解し、受信装置で使えるようにしておく。 ・まず、こういう事は原理的に可能でしょうか? ・可能としたばあい、意識の連続性は保たれるでしょうか? ・これがいちばん分からないのですが、(3)がうまく動かず、送り出し側での分解が出来なかった場合、意識は2重になってしまうのでしょうか? また、たとえば、「もうしわけありません、手違いがあって、送信側の分解ができませんでした。これより、あなたを分解するので転送室に戻ってもらえませんか?」と言われたらどうなるのでしょうか? タイムマシンのパラドックスは、時間を逆行するタイムマシンは不可能、ということで解決できると思いますが、このような転送装置が不可能である理由がわかりません。
- 超文系ですが、ゲーデルを理解したいのです
数学は中学あたりから苦手になりました。 国語はまあまあ得意な文系です。 ゲーデル、エッシャー、バッハという本を見て 中に何が書いてあるのか知りたくてたまらなくなりました。 そこで、何から手をつければこの本を理解できるようになるか教えてください。 必要な数学レベルと、前提になってる知識を補充できる本などありましたら教えてください。よろしくお願いします。
- 超文系ですが、ゲーデルを理解したいのです
数学は中学あたりから苦手になりました。 国語はまあまあ得意な文系です。 ゲーデル、エッシャー、バッハという本を見て 中に何が書いてあるのか知りたくてたまらなくなりました。 そこで、何から手をつければこの本を理解できるようになるか教えてください。 必要な数学レベルと、前提になってる知識を補充できる本などありましたら教えてください。よろしくお願いします。
- texで積分記号の入力
みなさんこんにちは、 xの頭上に○(或は2重積分で◯が2個)という簡易積分記号を、 texではどうやって書くのでしょうか?
- ベストアンサー
- 数学・算数
- tournesol_33
- 回答数2
- 究極の合理化社会とは・・・
先ほどふと考えたのですが、人間社会の合理化を極限まで推し進めていったら、どのような世界になるのでしょうか? 私は究極の合理化とは"人類の滅亡"だと考えていますが、それではあまりにあっさりしているので(←わがまま)人類の滅亡の一歩手前の合理化社会について考えを教えてください。 以上を踏まえて出した私の考えは、人間の野生化です。ライオンやゾウと同じように100パーセント食物連鎖の中で生きていく社会です。最も合理的、かつ維持可能な社会になると思います。 ぜひとも皆さんのご意見をお聞かせください!!
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- 哲学・倫理・宗教学
- ttt_background
- 回答数6
- 利己心と社会問題について
倫理の授業の時にふと思ったのですが、合理主義者にとって社会問題を解決することは自分自身の利益にもつながるため、本当に利己的な人は、自分の利益のために社会問題を解決すべきだと考えると思います。 けれど、自分だけの利益優先のため、解決しようとしない、社会全体の利益よりも個人の利益を優先する心理が人間のどこかにあり、それが出来ないことが多いと思います。 このような問題はどうしたらよいと思いますか。 また、このような考えについて書かれた本、参考になるHPなども教えて頂けると幸いです。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- nanjyamonjya
- 回答数6
- ほにゃらか形而左右学 記憶
「『心』とは生物が進化してくる道筋の、どこかある時点で生まれてきたに違いないと思えてくる。それならば、どこで? 生物に「記憶」が誕生したときからというのが、これから話そうとしている仮説である。これははなはだ奇妙に聞こえる。心の起源というからには、もっと堂々としたものが出てきそうなものなのに、何の変哲もない『記憶』とは。」心の起源 木下清一郎 何の変哲もない『記憶』と表現されていますが、記憶はなかなか一筋縄では理解できません。 今回は、「記憶とは何か」と言った大層な質問は致しません。皆さんが持っている、記憶の内容自体に関する事です。 言葉や図形の様に、再現できる記憶と、再現できないが、知覚すれば同じであると同定できる記憶の違いに関する事です。 例えば具体的に説明すると、他人の顔は、以前、逢ったかどうか比較的に正確に記憶しています。しかし、記憶しているからといって、その人の顔を、絵に描いたり出来る為には、長い付き合いが必要です、さらに、その人の顔の映像を思い描いたりして再現する事はほとんど不可能な気がします(なかには出来る方が居るかもしれませんが)。 それに対して、私たちは日本語を記憶している表現は少し変なのですが、詩とか歌とかは通常、概ね再現できます。 再現できる記憶と再現できない記憶を、同じ記憶という言葉で定義しては、そもそも「記憶とは何か」と問う資格も無いのではなかろうかと、考え込んでいる次第です。 この違いは、短期記憶・長期記憶やエピソード記憶・運動記憶といった、記憶の形式的区分と違った存在論的な区分があるような気もするのですが、どうなんでしょう? 記憶の内容に関するこの二つの記憶の違い、という考え方に、思い込みや勘違いが無いか、教えて頂けませんでしょうか。 PS この質問は、ノンビリ一ヶ月ほど受け付けて居ますので、宜しくお願いします。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- fishbowl66
- 回答数5
- 善い悪い判断する過程も善い悪い判断?
刺激を感じて、その刺激を過去の記憶などから善い悪いと判断するに至る過程も刺激だからそれも善いか悪いか生物は判断しているのでしょうか?