amenhotep2000 の回答履歴

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  • 浮世絵の魅力

    浮世絵の魅力はどういうところでしょうか。また、創始者はだれなのですか

    • ryugenn
    • 回答数4
  • 浮世絵の魅力

    浮世絵の魅力はどういうところでしょうか。また、創始者はだれなのですか

    • ryugenn
    • 回答数4
  • 美術に関する本でおすすめのもの

    こんにちは、質問させていただきます。 最近、美術に関して勉強しようと思って ギャラリーや美術館をめぐる以外に、美術の本を 読もうと思っています。 これだけおさえておけ!とか、これは読んでおくべき みたいな、みなさまのおすすめの本がありましたら 教えてください。 よろしくお願いいたします。

    • ochi_
    • 回答数4
  • 目に見えないもの(情,気,神仏)を信じない

    私は、”目に見えないもの”  例えば、神仏、霊、気、愛、魂などの類は信じていません。 ※重力などといったものは目に見えませんがこういう類は関係なしです。 地獄や天国、輪廻転生も一切信じていません。古くからこれからのことは大衆の間では信じられていますよね。現在も宗教を信じている人も方もいらっしゃいますし、修行をつまれる方もいますよね。 親戚の集まりなどで、よく「不思議な体験をしたんだよ」「亡くなったおじいさんに命を救われた」などといった話になるのですが、僕はいつも否定します。 いつも1対10くらいで責められてコテンパンに言われるわけですが、私は間違っていますか。 また、私は「友情、愛情」そういうものは感じた事がない。故に「愛している、好きだよ」などというのは僕の心には響かないわけです。 私は感性が鈍いのかもしれませんね。

  • さあ、、

    >「それを知るにはドブネズミじゃない人間とはどういう物であるといいたいのかを読み解く必要があります。 ドブネズミじゃないということは、利己のための行動を優先するものであり、恋愛も相手を思ってのことではなく自分がよりよく生きるためであり、それを得るために賢く相手が喜ぶことをする。この場合相手が喜ぶことをするのは、自分が得たいものを得るための手段であり本当の愛ではない。 きれいに生きるということは他人から眉をひそめられるようなことは、本質的に必要なことであっても避けることです。 別にそれがいけないわけではありません。報われない行動は積み重なれば破滅に結びつくからです。 ドブネズミは、見た目やイメージは良くないけど懸命に生きています。 目的のためなら、汚い場所に入って蔑まれる事を躊躇しない。 以上からすると、『自分の愛は利他であり、その愛のためなら周りからどう見られるかなんて気にしない本当の愛だと知ってほしい。』と訴えているんじゃないでしょうか。 同時にこの歌はキレイに生きる事への問題提起も暗喩しているかもしれません」

    • kurinal
    • 回答数4
  • 日本人の考え方は何から来ているのか?

    私は、西欧人とアジア人、両方との付き合いがありますが、西欧人と日本人に共通の価値観があるのか西欧人には基本的に違和感を感じません。アジア人、つまり東南アジア人やインド人、中東アフリカのイスラム教徒等との付き合いでむしろ大いなる違和感を感じる事がしばしばです。 我々日本人は、人は親切であるべきだとか、思いやりを持つべきだとか、理解のある人間であるべきだとか、責任感を持つべきだとか、そのような考えを無意識に持っています。そういうのは西欧人と共通するようで、会話もスムーズになります。 我々日本人の大半は無宗教ですが、日本人のこのような考えはどこから来ているのでしょうか? かつて、山本七平氏が「日本教」という著書を著し、その中で日本人は誰でも日本教の信者であると書いてました。日本人のクリスチャンは日本教徒キリシト派であって、決して日本教徒からは脱することは出来ないと・・・なかなか説得力のある論述でした。 彼の指摘が正しいとしても、それにしても、その日本教がどこから来たのか、どういう経緯で成立し、日本人の精神を支配するようになったのか、私の記憶ではそのようなことは書いてなかったように思います。 日本人が考え、行動する時、何かの考えに支配され、従っているはずです。早い話、親が子供に「優しい子になって欲しい」という話はよく聞きます。「優しい子になって欲しい」という考えはどこから来ているのでしょう? 日本には仏教や儒教が入って来ましたが、それらに影響を受けたせいでしょうか? インド人やフィリピン人よりも、西欧人との共通項があるというのが不思議です。 宜しくお願いします。

  • 仏教についての疑問

    仏教の目的は輪廻転生の輪から逃れて苦から解放されることだといいます。 それでは50億年後に地球が飲み込まれたら、人間もすべての生物も消滅して少なくとも人間道と畜生道は消えるでしょう。さらに時間が経過すれば宇宙は熱的平衡状態に到達し、すべては絶対零度の極低温に冷え切ってしまいすべての生物は存在できなくなるでしょう。 このような状態は仏教的には良い状態なのでしょうか? そこには苦しみはないです。何もないのだから。 私はそのような状態がよいとは思いません。苦しみや思い通りにならないことがあっても(いずれも仏教的には苦だそうです)、その一方でよろこび、感激、感動がある生き物が生き生きと生きている世界がいいと思います。 仏教的には煩悩だらけということになるのかもしれませんが、喜怒哀楽あって生き生きと生きている状態の方が何もない無のじょうたいより、よっぽどよいと思います。 仏教の考え方は消極的というかネガティブに思えるのです。苦から逃れることばかり考えている。苦も楽も両方あっていいのじゃないですか? 私は仏教に疑問を感じるのです。 それとも私が仏教を誤解しているのでしょうか?

    • stmim
    • 回答数15
  • ♪「ボインよ~」

    捕まえて、ご覧? 【訊きたいポイント】・・・巨乳が良しか、貧乳が良しか よろしくお願い致します。

    • kurinal
    • 回答数14
  • ♪「ボインよ~」

    捕まえて、ご覧? 【訊きたいポイント】・・・巨乳が良しか、貧乳が良しか よろしくお願い致します。

    • kurinal
    • 回答数14
  • 皆さんにとって人生のゴール(幸福 幸せ)とは?

    皆さんにとって人生のゴール(幸福 幸せ)とは? 皆さんにとって、 心、仕事、家庭、趣味、健康、 お金、生きがい、地域活動のゴールとは? 人生、ゴール 幸せ、幸福とは? 哲学カテゴリー皆さんの ご回答のほど、 お待ちしております。

    • 加藤
    • 回答数7
  • 【仏教の教えの核心部に気付いた】仏教は「何事も盗む

    【仏教の教えの核心部に気付いた】仏教は「何事も盗む前には手を合わせなさい。手を合わせれば何事も全ては許される」という教えではないでしょうか? だから、御飯を盗む前には手を合わせて食べると許される。 命を殺して肉を食べる。殺す前に手を合わせれば許される。食べる前に手を合わせれば許される。 「手を合わせて」の文化が日本から消えて、「頂きます」と言えば許されると思っている。 けど、ブッダは頂きますと言えば許されるとは言っていないはず。 ブッダは手を合わせることが許されることだと説いた。 だから、私は御飯を食べるときに頂きますとは言わずに手を合わせて、盗む前に手を合わせれば許されると説いたブッダの教えに従い、万引きをする前には不良に手を合わせると許されると説きたい。 暴力団構成員も人を殺す前に手を合わせると全ては許されると説きたい。 よって、「殺すぞコラァ!!」と言われたら、ああ、これは殺されたら、あなたの代は滅亡しますよと助言してあげたい。 手を合わせて、これからあなたを殺しますと言われたらもう全てを受け入れるしかない。 だから、電車に乗っていて、老人が前に立って、手を合わせ出したら、席を譲る。 ときどき手を合わせ出す老人は私と同じ悟りを開いたというかブッダの本当の教えに気付いたんだと思う。 ブッダは物乞いなので神にお供えされている食べ物を盗む際に、手を合わせて盗めば罪は逃れられると都合が良い解釈を思い付いて罪人から多くの指示を得た。 侍も人を殺すので本能として罪悪感が残る。その罪悪感を全て取り払ってくれるのが手を合わせてから、首を跳ねれば全ては許されるという一種の儀式にしたから人間は平気で他人を殺せるようになった。 言葉が分からない人に取って、手を合わせるだけで罪が無くなるという教えは大変分かりやすいもので儀式化しやすかった。 イエスキリストも手を合わせている。 手を合わせてからなら何をやっても許される。 これが仏教の究極の教えだったのでは?

  • キリスト史観は 終えられて あたらしい世界へと。

     1. イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。   ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~    はじめに ことばがあった。   ことばは かみとともにあった。   ことばは かみであった。   このことばは はじめにかみとともにあった。   すべてのものは ことばによって成った。   成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。   ことばの内に いのちがあった。   いのちは 人を照らすひかりであった。   ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。   くらやみは ひかりをとらえ得なかった。   ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~   16:しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。    あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。   17:はっきり言っておく。    多くの預言者や正しい人たちは、    あなたがたが見ているものを見たかったが、    見ることができず、    あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、    聞けなかったのである。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    2. つまり ヨハネ福音のほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。  3. これにしたがうと イエスは キリストなる神として モーセやアブラハム(=《預言者や正しい人たち》)よりも前にいたことになります。    4. その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちでここでは扱います。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たと見るひとつの主題です。  5. すなわち キリスト・イエスを俟ちのぞみつづけた歴史。これをメシアを待望するという恰好のキリスト史観と名づけます。    6. さて そのアブラハムからの二千年ほどの歴史は 別の質問で取り上げていますので措いておきますが たとえばイエスの時代において ペテロを初めとする弟子たちも イエスがメシアだとは分からなかった。という問題があります。  7. イエスが十字架上に去って行ったあと初めて かれがキリスト・イエスだと分かった。イエスが捕らえられたときには 自分たちは逃げ去ったほどでした。  8. 生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。口では言っていたが 《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。この問題です。  9. それは 次の聖句を引き合いに出して説明されるようです。   ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~   21: 更に、主は言われた。     「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。     あなたはその岩のそばに立ちなさい。   22: わが栄光が通り過ぎるとき、     わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、     わたしが通り過ぎるまで、     わたしの手であなたを覆う。   23: わたしが手を離すとき、     あなたはわたしの後ろを見るが、     わたしの顔は見えない。」   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  10. つまり 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――神なる真理そのもの――》は 見えない。と。      11. でも キリスト史観は 成就した。と――言うなれば《ことばの民》なる民族にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移するというかのように――捉えられているものと考えられます。    12. この虚構が なかなか捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのかを別としても。  13. ことばを《こと(事・言)の端》として捉える民にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか?   13-1. たぶん 辻褄は合っている。か。   13-2. 二千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとな        まれたと言われても こたえようがない。か。  14. といった問題もさることながら――つまり 一応そう触れておいた上で―― ここでは このキリスト史観について それが成就した途端にもうその使命を終えたという見方を持ちます。  15. そうして そのことによって 世界のすべての人びとにとって あたらしい世界を用意した。と考えます。キリスト史観がです。  16. あたらしい世界とは 何か?   17. あえてこの質問ではたたき台を必ずしも用意せず みなさんからいろんな見解をお聞きしたい。否定的な見解もありましょうが どうでしょう?  18. 質問者のひとつの焦点は キリストの背面を人間は見ることが出来たとするのならば そのような《神のうしろ姿》とは どういうことか? です。  19. 神の正面の姿を見ることができる(出来た)と説くシュウキョウの問題もあるかと思いますが・そして質問者としてはそういうふざけた自己表現はもう論外としたいと考えていますが いづれにしましても どうでしょうか?

  • キリスト史観は 終えられて あたらしい世界へと。

     1. イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。   ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~    はじめに ことばがあった。   ことばは かみとともにあった。   ことばは かみであった。   このことばは はじめにかみとともにあった。   すべてのものは ことばによって成った。   成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。   ことばの内に いのちがあった。   いのちは 人を照らすひかりであった。   ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。   くらやみは ひかりをとらえ得なかった。   ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~   16:しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。    あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。   17:はっきり言っておく。    多くの預言者や正しい人たちは、    あなたがたが見ているものを見たかったが、    見ることができず、    あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、    聞けなかったのである。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    2. つまり ヨハネ福音のほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。  3. これにしたがうと イエスは キリストなる神として モーセやアブラハム(=《預言者や正しい人たち》)よりも前にいたことになります。    4. その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちでここでは扱います。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たと見るひとつの主題です。  5. すなわち キリスト・イエスを俟ちのぞみつづけた歴史。これをメシアを待望するという恰好のキリスト史観と名づけます。    6. さて そのアブラハムからの二千年ほどの歴史は 別の質問で取り上げていますので措いておきますが たとえばイエスの時代において ペテロを初めとする弟子たちも イエスがメシアだとは分からなかった。という問題があります。  7. イエスが十字架上に去って行ったあと初めて かれがキリスト・イエスだと分かった。イエスが捕らえられたときには 自分たちは逃げ去ったほどでした。  8. 生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。口では言っていたが 《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。この問題です。  9. それは 次の聖句を引き合いに出して説明されるようです。   ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~   21: 更に、主は言われた。     「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。     あなたはその岩のそばに立ちなさい。   22: わが栄光が通り過ぎるとき、     わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、     わたしが通り過ぎるまで、     わたしの手であなたを覆う。   23: わたしが手を離すとき、     あなたはわたしの後ろを見るが、     わたしの顔は見えない。」   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  10. つまり 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――神なる真理そのもの――》は 見えない。と。      11. でも キリスト史観は 成就した。と――言うなれば《ことばの民》なる民族にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移するというかのように――捉えられているものと考えられます。    12. この虚構が なかなか捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのかを別としても。  13. ことばを《こと(事・言)の端》として捉える民にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか?   13-1. たぶん 辻褄は合っている。か。   13-2. 二千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとな        まれたと言われても こたえようがない。か。  14. といった問題もさることながら――つまり 一応そう触れておいた上で―― ここでは このキリスト史観について それが成就した途端にもうその使命を終えたという見方を持ちます。  15. そうして そのことによって 世界のすべての人びとにとって あたらしい世界を用意した。と考えます。キリスト史観がです。  16. あたらしい世界とは 何か?   17. あえてこの質問ではたたき台を必ずしも用意せず みなさんからいろんな見解をお聞きしたい。否定的な見解もありましょうが どうでしょう?  18. 質問者のひとつの焦点は キリストの背面を人間は見ることが出来たとするのならば そのような《神のうしろ姿》とは どういうことか? です。  19. 神の正面の姿を見ることができる(出来た)と説くシュウキョウの問題もあるかと思いますが・そして質問者としてはそういうふざけた自己表現はもう論外としたいと考えていますが いづれにしましても どうでしょうか?

  • 萬葉集の原本はどこにありますか。

    萬葉集は一度に成立した物ではなく、一人の選者により編集された物ではないのは 承知しております。従って萬葉集の原本といっても意味が曖昧でしょうが、 後世の人が書き写したのではなく、なるべく古い萬葉集を見たいのです。 歴史的資料は 1.どのように発見され、、 2.どのように整理され、 3.どのように保管されているのでしょう。 最近は、著作権の切れた書物はインターネットで、無料ダウンロード出来るようになってきました。 【萬葉集の原本】を自宅でダウンロード出来ればと、願っております。

  • イエスの哲学は 《存在》論である。宗教を卒業しよう

     1. アブラム(のちのアブラハム)という人は 或る日 すでに七十歳をすぎているのに 神から――あたかもお告げがあるかのように――      故郷の地を去って 行きなさい。  と言われ そのようにしました。行き先も告げられずに。  2. その子孫としてモーセという男は その神に名を尋ねたとき      《わたしはある》 それが わたしである。     (エフィエー アシェル エフィエー.)  という答えを得たと言います。    3. 伝えによると ダヰデという人は      きょう わたしは おまえを生んだ。  という言葉を その神から聞いたそうです。すでに父母からは生まれているんですけれどねぇ。    4. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に発展しました。     これは主がわたしに油を注いで      貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね      わたしを遣わして心の傷める者をいやし      捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。                  (『イザヤ書』61:1-3)  5. その後 さらに時は飛んで イエスという人が出たと言うわけです。  6. イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。         すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ     る箇所が目に留まった。       主の霊がわたしに臨み 油をわたしに塗った。       主がわたしを遣わしたのは 貧しい人に福音を伝え        捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。》                   (つまり『イザヤ書』61:1-2)     イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと     は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは        ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに        実現した。     と話し始めた。         (ルカ福音4:17-21)  7. 《神と人間――おのおの我れ――とのカカハリ》が――人間の言葉による表現上―― ここまで 及んだのだと捉えます。  8. ひと言で言って 《存在》――《わたしは ある》――をめぐる理論の問題である。そしてこれで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  9. さらにその後 イエスは この存在論の実証をしたと伝えにはあるようです。  10. 十字架上において はりつけになるというコトを みづから欲して そのとおりになったことにおいてだと言います。  11. 生前には かれがユダヤ当局に捕らわれたとき かれを見捨てて逃げた弟子たちも その死後においては かれは 神であったと言い始めたそうです。じっさいイエスは 自分が神だと言っていた。  12. もしかれが 神ではなくただ人間であるだけであったとすれば そのような存在論の実証は もし信念の強い殊勝な人がいれば その限りで誰でも出来ると思われたでしょう。ようやったな 弱い人びとにとって必要があれば また誰かあとに続くだろうとうわさして おしまいである。  13. 存在論は 実証が《完成》していないことになります。アブラハムやモーセらは 自分たちからイザヤらにつらなった存在論の系譜とその言わば悲願は さらに 別の人によって実現するのを待つということになります。  14. もしイエスが 人間ではなく仮りに神であるだけだったとすれば そのままそれは 《うそ》ですから 張り付けの十字架から降りて行って 奇蹟を起こしたということに話は成るのかも分かりません。神のやることはおれたち人間には関係ねえよで おしまいとなります。  15. 父ヨハネと母マリアから生まれた人間であると同時に 聖霊によって身ごもった子つまりキリストと呼ばれる神の子でありみづからも神であると言うというところに その歴史的な一大事件としての《虚構》があり どうもそこで存在論を実証したのではないか。とうわさされているのかも分かりません。  16. アブラハムから始まった神の信仰は 一たんキリストの登場を俟つというかたちのキリスト史観として承け継がれた。そしてそのキリストが出たからにはこの《時を俟つ》キリスト史観は もう要らない。  17. われらが《存在》の成就である。さまざまな《貧困》の解消が 宗教抜きで成されるという課題が残った。  18. 言いかえると このキリスト・イエスをも 宗教の種にして おのれの支配欲を満たそうというヤカラがいつづけているということだ。  ご批判をどうぞ。

  • ゴッホとゴーギャン展に行きました。

    東京都美術館でゴッホとゴーギャン展を見に行きました。友人から前売り券を無料で 頂いたので見てきました。 ゴッホの名前は知っていましたが作品を見るのは初めてです。 70点くらいの作品がありました。 自画像や本人が利用した椅子、そのいろいろ。 館内は結構混んでいて作品が見えず楽流れで巡回しました。 60才以上にお金持ち見えるおばさんたちが多数でした。 絵の感想ですがなぜかつまらない作品ばかりで全く感動する作品がなかった。 何でゴッホとゴーギャンが画家として有名なのか理解できません。 私は日本の浮世絵などはすばらしい作品が多く北斎や広重が海外でも高い評価があるのは 理解できます。 今日、多くに人がゴッホとゴーギャン展に来ていますがどんだけ作品に感動しているのか 疑問でしかたありません。 自画像nや椅子なんかどうでもよいと思うのですが・・・。 みなさんはどうおもわれますか? ちなみに前売り券で1300円です。

  • 信教の自由の侵害は不可能だ。

    廃墟となった古代遺跡などを研究する場合、最も注目されるのは神殿だ。 なぜならその遺跡に住んだ人の精神を理解するには信仰心を研究するのが一番だからだ。 信仰心は社会的風土を決定する宗教の役目のほか、そこに住む個人個人の精神と知性的資質ににも影響を与える。 これは昔話だけじゃない。 例えば何かとほほえましい奇行の多い中国人旅行客をおもてなしするため、彼ら特有の精神的根底を理解するため道教を研究するとかだ。 別に自分が道教に入信したいとかなんとかじゃなくてもだ。 明晰にこのような目的で、他者を理解するため他者の神を学ぶのはとてもいいことだ。 器用にこれができる人は頭のいいお坊さんとされるみたいだね。 どこか遠くの土地の人と会い、その人が私は神を信じるといえば、いかなる神かと問い詰めることもなく兄弟として抱き合えるくらいだといいだろう。 さて哲学の質問だから、他の神を否定するという行いが今まで具体的にどのように行われ、、いかなる弊害があったかお聞かせください。 それから日本の多神教風土ではこのような考えは全く自然にできる発想です。 外国だとそうでもないのか教えてください。 さてタイトルの問題についてですが、誰かが他者に広く自分自身の心を明かそうと信仰について話したとして、それで聞いた人の信仰心が揺らぐとしたら相当な意志薄弱による錯乱で、それを信教の自由の侵害と喚くなら、それはないだろうという話です。

  • 信教の自由の侵害は不可能だ。

    廃墟となった古代遺跡などを研究する場合、最も注目されるのは神殿だ。 なぜならその遺跡に住んだ人の精神を理解するには信仰心を研究するのが一番だからだ。 信仰心は社会的風土を決定する宗教の役目のほか、そこに住む個人個人の精神と知性的資質ににも影響を与える。 これは昔話だけじゃない。 例えば何かとほほえましい奇行の多い中国人旅行客をおもてなしするため、彼ら特有の精神的根底を理解するため道教を研究するとかだ。 別に自分が道教に入信したいとかなんとかじゃなくてもだ。 明晰にこのような目的で、他者を理解するため他者の神を学ぶのはとてもいいことだ。 器用にこれができる人は頭のいいお坊さんとされるみたいだね。 どこか遠くの土地の人と会い、その人が私は神を信じるといえば、いかなる神かと問い詰めることもなく兄弟として抱き合えるくらいだといいだろう。 さて哲学の質問だから、他の神を否定するという行いが今まで具体的にどのように行われ、、いかなる弊害があったかお聞かせください。 それから日本の多神教風土ではこのような考えは全く自然にできる発想です。 外国だとそうでもないのか教えてください。 さてタイトルの問題についてですが、誰かが他者に広く自分自身の心を明かそうと信仰について話したとして、それで聞いた人の信仰心が揺らぐとしたら相当な意志薄弱による錯乱で、それを信教の自由の侵害と喚くなら、それはないだろうという話です。

  • 絶対主義ってなんでしょうか。イメージ的には臣民は王

    絶対主義ってなんでしょうか。イメージ的には臣民は王様のもの、ザッツ王様みたいな感じ。教科書的には、官僚制と常備軍に支えられた、王様が支配する政治体制。という理解なのですが、いまいちしっくりきていません。お詳しい方よろしくお願い申し上げます。

  • 知性や知識を象徴するものは?

    知性や知識を象徴するものを、いくつか教えてください。 なんでもいいです。アイテム的な物でもいいですし、 形のないものでも結構です。 自分が思いつくのは例えば、 書物、チェス、フクロウ、・・などです。 回答お待ちしております。