amenhotep2000 の回答履歴

全504件中61~80件表示
  • 努力は、報われる

    こんばんは。 「努力は、報われる」という表現がありますが、 まあ、私のような者でも、そうだなあと思うことはありますが、 どうなのでしょう? 【訊きたいポイント】 「努力は、報われる」について、それは、どういうことなのか。 御自身のご経験でも、「逸話」や「説話」でも、構いません。 宜しくお願い致します。

    • kurinal
    • 回答数16
  • 現世に悪があるならば、神は悪か無能か存在しない

    悪や苦しみは神の部分ではなくて、善で幸福な部分だけが神の領域なのだとすると、神は全知全能ではないことになりますよね? 何故なら悪とか苦しみの領域には力が及ばなかったのだから。 もし、全知全能の神がいて悪や苦しみも存在するならば、それは神の責任だから神は悪者でイジメではないでしょうか。 というか、そもそも悪も苦しみも偶然の災難であり、神などいなく、ひたすら迷惑な大自然と霊(または肉体に随伴する精神)だけがあるのではないでしょうか。 キリスト教関係の考え方だと、現世の苦しみは魂を磨いてより天国的世界に行くことができる、そのチャンスを与えてくれるから、悪や苦しみも神の慈悲なのだ、というのがあるのではないでしょうか。 しかし、それは悪や苦しみを正当化する屁理屈に過ぎないのではないでしょうか。 悪や苦しみを乗り越えないと、幸せな魂になれないという世界のシステムそのものが、愛ではなくイジメなのではないでしょうか? こんな嗜虐的な神様は、悪か、力がないか、存在しないのではないでしょうか。 とすると、こんなものを崇める価値なんかないんじゃないでしょうか。 世界は、どこまでも迷惑な大自然と霊だけがあるのではないでしょうか。 この時、死後の世界があるのか、死んだら無になるか、という問題はあまり意味がなくなるのではないでしょうか。どっちだったとしても、どこまでも迷惑な大自然と霊だけがあり、神は無視してもいい存在になるから。

  • 生物の精密さは神の証明となるのか

    しばしば、生物の構造やメカニズムは極めて緻密かつ精密で、神が作ったとしか考えられない、と言った話を聞きます。 しかしそれを聞いて思ったのですが、むしろそれらは神の存在を否定してるような気もします。 生物は理にかなったとても精緻なメカニズムで動いている。 逆に言えば生物を動かすには非常に精緻なメカニズムが必要。 それを神が作ったとしたら、神と言えどもメカニズムに頼らなければ生物を作れない。 すなわち、神とは優秀な技術者にすぎず、なおかつその優秀さは人間の技術者の延長線上の優秀さにすぎない(そのレベルに人間がいずれ到達できるかは別として)、ということでしょうか。 もしもこの世に知能は高いけど凄く不器用な生き物がいたとしたら、人間が作った機械を見て「人間とは神だ!」と思うかもしれない。 それと同じレベルの話のような気がします。 生物の精密さ、緻密さは神の証明たりうるのでしょうか。

  • 黒楽茶碗が1000万円?

    仕事の関係で、ある社長宅を訪問しました。 その社長は骨董が趣味で、いろいろ見せてもらった中に、楽焼の茶碗がありました。 十三代目の作品だそうで、赤楽が500万円、黒楽はその倍(1000万円)くらいの値打ちが あるとのこと。 それくらいが相場なのでしょうか? 作者や種類だけでなく、芸術性や保存状態、来歴で値段がつくのだと思いますが、 有り得る話か、どう考えても骨董屋に騙されるのか、骨董に詳しい方の意見を伺いたいです。

  • 何故なお神を勘違いしたままでいるのか?

     人はなぜ 神を勘違いしつづけるのか?  A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜその《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?  D-2 特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。ただの心の表層の心理でありその共同化であるに過ぎない。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象してつくったニセの神しかないと断定するのか?

  • 何故なお神を勘違いしたままでいるのか?

     人はなぜ 神を勘違いしつづけるのか?  A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜその《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?  D-2 特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。ただの心の表層の心理でありその共同化であるに過ぎない。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象してつくったニセの神しかないと断定するのか?

  • 《信じる》を哲学として定義せよ

     たたき台として次を参照してください。参照無しでもかまいません。  ○ 《信じる》とは  ~~~~~~~      一般に《神》(*1)と呼ばれる《非経験の場 X 》(*2)を対象(*3)としつつ    神の名(*4)をシルシ(*5)として 心に受け容れる(*6)ことである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~     *1 神:    次に出てくる項目の《非経験の場 X 》が 経験的に認識され得るような《有る・無い》を超えているゆえ 神については それが《有る(有神論)》と仮りに言っても 《無い(無神論)》とやはり仮りに言っても 同じことである。   *1-1 また神は 世界の中で見れば いろんな名がつけられている。これらも 次の《非経験の場 X 》の定義から言って どの名であれ 《全体としてひとつ》なる神のことを言っていることになる。=普遍神。   *1-2 たとえば 次のごとく:    類   型:   神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・人    __________________________   ・ ブラフマニズム:ブラフマン・・・・・・・・・・・・・アートマン               (梵我一如)   ・ ゴータマ・ブディズム:無(ア‐ブラフマン)・・・無(アン‐アートマン)               (無梵無我一如)   ・ マハーヤーナ・ブディズム:ブッダ・・・・・・・・ブッダター(仏性)               (仏仏一如)   ・ ヘブルイズム:ヤハヱー・・・・・・・・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・ プラトン(?):プシュケー・コスムー・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・・・・・・・・・   *2       非経験の場 X : 前項(1-2)の《神》の項目のそれぞれが 非経験の場の具体的な事例である。   *2-1 《経験世界における因果関係から自由である場》 これを言う。したがって《有・無》からも自由である。   *2-2 人間にとってその能力によっては それが何であるか・またあるか無いかが 分かるか分からないかが分からないもの これが 非経験の場のことである。そういう想定になるものであり これを《非知》と言う。   *2-3 この神は 得たいの知れない・雲をつかむようなナゾであるゆえ 《霊》とも呼ぶ。   *2-4 《アートマン》は 神の霊がやどったその場のチカラを称して言っている。《霊我》と言われる。   *2-5 《ブッダター(仏性)》も 神の霊のことである。呼び名が違うだけである。   *2-6 この《非経験の場 X 》の意味において《イデア》と言っても それはかまわない。神の名は ただのシルシである。ただし・また従って イデアに概念内容や意味はない。(として扱うということになる)。   *3    対象: 何が何だか分からないナゾの霊であるゆえ これが信じるの対象であるということは 《非対象》ということである。   *3-1 それゆえまた この非対象を どんなシルシとしての名で呼んでも 基本としての違いはない。   *4    神の名: 前項の(1-2)などを参照。   *5   シルシ: (2-6)などを参照。   *6    心に受け容れる: たとえばアミターバ・ブッダなる神のシルシとしての名を介して 非経験の場 X を心に受け容れるとは どういうことか?   *6-1 雲をつかむがごとく心に受け留め 何の思考も疑問(=つまり思考)もなく 受け容れる。これは あたかも賭け事において賭けるようなものでもある。相手(対象)は 何もないものであるゆえ・つまり非対象であっても 心でその領収証を発行しておく。これで 《信じる》の完了である。   *6-2 《信じる》が完了すると わが心に《非思考の庭》が成る。非経験の場 X を受け容れたというそのかたちである。   *6-3 この非思考の庭で わが信仰はみづからの動態過程をたどる。具体的なかたちとしては わづかにヒラメキが生まれるといったことがある。あるいは 良心。ほとんどそれらのみである。   *6-4 信仰は おのれが日々あらたにされるごとくして 動態となってあゆむ。みづからの思考がもしあやまったなら これを捉えてワレをもとのワレに立ち帰るように仕向ける。良心のしわざ。それがヒラメキにおいて知らされる。   *6-5 そしてそれは 実際には むしろ感性においてその信号がおくられて来るようにして 作業がなされる。非思考の庭は 感性ともつながっているか。(直感と直観つまりヒラメキ)。つまり 良心がらみであるから ヤマシサ反応となって現われる。

  • 《信じる》を哲学として定義せよ

     たたき台として次を参照してください。参照無しでもかまいません。  ○ 《信じる》とは  ~~~~~~~      一般に《神》(*1)と呼ばれる《非経験の場 X 》(*2)を対象(*3)としつつ    神の名(*4)をシルシ(*5)として 心に受け容れる(*6)ことである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~     *1 神:    次に出てくる項目の《非経験の場 X 》が 経験的に認識され得るような《有る・無い》を超えているゆえ 神については それが《有る(有神論)》と仮りに言っても 《無い(無神論)》とやはり仮りに言っても 同じことである。   *1-1 また神は 世界の中で見れば いろんな名がつけられている。これらも 次の《非経験の場 X 》の定義から言って どの名であれ 《全体としてひとつ》なる神のことを言っていることになる。=普遍神。   *1-2 たとえば 次のごとく:    類   型:   神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・人    __________________________   ・ ブラフマニズム:ブラフマン・・・・・・・・・・・・・アートマン               (梵我一如)   ・ ゴータマ・ブディズム:無(ア‐ブラフマン)・・・無(アン‐アートマン)               (無梵無我一如)   ・ マハーヤーナ・ブディズム:ブッダ・・・・・・・・ブッダター(仏性)               (仏仏一如)   ・ ヘブルイズム:ヤハヱー・・・・・・・・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・ プラトン(?):プシュケー・コスムー・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・・・・・・・・・   *2       非経験の場 X : 前項(1-2)の《神》の項目のそれぞれが 非経験の場の具体的な事例である。   *2-1 《経験世界における因果関係から自由である場》 これを言う。したがって《有・無》からも自由である。   *2-2 人間にとってその能力によっては それが何であるか・またあるか無いかが 分かるか分からないかが分からないもの これが 非経験の場のことである。そういう想定になるものであり これを《非知》と言う。   *2-3 この神は 得たいの知れない・雲をつかむようなナゾであるゆえ 《霊》とも呼ぶ。   *2-4 《アートマン》は 神の霊がやどったその場のチカラを称して言っている。《霊我》と言われる。   *2-5 《ブッダター(仏性)》も 神の霊のことである。呼び名が違うだけである。   *2-6 この《非経験の場 X 》の意味において《イデア》と言っても それはかまわない。神の名は ただのシルシである。ただし・また従って イデアに概念内容や意味はない。(として扱うということになる)。   *3    対象: 何が何だか分からないナゾの霊であるゆえ これが信じるの対象であるということは 《非対象》ということである。   *3-1 それゆえまた この非対象を どんなシルシとしての名で呼んでも 基本としての違いはない。   *4    神の名: 前項の(1-2)などを参照。   *5   シルシ: (2-6)などを参照。   *6    心に受け容れる: たとえばアミターバ・ブッダなる神のシルシとしての名を介して 非経験の場 X を心に受け容れるとは どういうことか?   *6-1 雲をつかむがごとく心に受け留め 何の思考も疑問(=つまり思考)もなく 受け容れる。これは あたかも賭け事において賭けるようなものでもある。相手(対象)は 何もないものであるゆえ・つまり非対象であっても 心でその領収証を発行しておく。これで 《信じる》の完了である。   *6-2 《信じる》が完了すると わが心に《非思考の庭》が成る。非経験の場 X を受け容れたというそのかたちである。   *6-3 この非思考の庭で わが信仰はみづからの動態過程をたどる。具体的なかたちとしては わづかにヒラメキが生まれるといったことがある。あるいは 良心。ほとんどそれらのみである。   *6-4 信仰は おのれが日々あらたにされるごとくして 動態となってあゆむ。みづからの思考がもしあやまったなら これを捉えてワレをもとのワレに立ち帰るように仕向ける。良心のしわざ。それがヒラメキにおいて知らされる。   *6-5 そしてそれは 実際には むしろ感性においてその信号がおくられて来るようにして 作業がなされる。非思考の庭は 感性ともつながっているか。(直感と直観つまりヒラメキ)。つまり 良心がらみであるから ヤマシサ反応となって現われる。

  • 変えると繰り返すをどうすべき?

    変えるばかりと革新的な事柄が出てきます。 反対に、最初の新しいことばかりだと心理学か何かの二重過程理論やまたその経験がないため、失敗や間違えも多くなります。 また浅くなります。 繰り返すばかりだと、2回目以降は間違えも減り、だんだんよけいな情報など省いてとりくめます。反対にずっと単調に同じです。新しいことはありません。 世の中に経験が科学になってたりもします。 どちらも問題かと思いますが、2つをどうするべきなのでしょう?

    • noname#220336
    • 回答数4
  • 人間の”個性”なんてものは存在するのでしょうか?

    人間の”個性”なんてものは存在するのでしょうか?人間は生まれたときから今まで親や兄弟、友人、先生、親戚などから影響を受けてきてそれを模写して今の人格が存在すると思うんですよ。 ”個性”というとその個体特有なものだと思われガチですが他者からの人格コピーのミックスに過ぎないものが”個性”なら一番最初のオリジナル以外は”個性”と呼べないと思うんです。 人類の一人ひとりの人格は”個性”ではなく”派生”なだけで個体識別のために個性という言葉を使っているだけで実際はただの枝分かれかもしれません。 個性はその個体特有の何かとありますが、それもどこかのコピーの応用ではないでしょうか。 もしそうなら人類には必ず限界点が存在してそれ以上は進化することはないということになります。 新しい何かを生み出していると思われるのも全ては元から存在するものの応用、人類レベルでは個性なんてものは存在しないと思うと怖くなります。 今の考え方も誰かの影響かもしれませんし、人間は影響を受けて応用するだけで新しいものに見えても新しいものは生まれていないと思われます。 進化も遺伝子のデータベースとなるオリジナルが存在するわけで自分達はそのクローン的な応用の結果に過ぎないのではないでしょうか?

    • noname#248129
    • 回答数9
  • 動物の体の構成物質

    動物の体を構成するのは水、無機物、有機物が全てですか?

  • ★イスラム教は壊滅すべきでは?・・・

    イスラム教は世界一のカルト教ではありませんか?・・・ 神はアラーのみだなんて、詭弁ではありませんか?・・・ オウム真理教と瓜2つではありませんか?・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 直ちに壊滅すべきではありませんか?・・・・・・・・・・・・・・・・

    • gusinjp
    • 回答数8
  • 菌 ウイルス 大きさ

    例えば、菌の大きさ(乳酸菌とか)が人間と同じくらいの大きさとすると、ウイルスはどれくらいの大きさになるのでしょうか? ゴルフボールくらいでしょうか?それとも、米粒くらいでしょうか?それとも、もっと細かくて、砂粒くらいでしょうか? わかりやすい例えで教えてください。よろしくお願い致します。

    • moxafan
    • 回答数2
  • 桜の木の描き方を探しています。

    皆さん、こんばんは。 今年も、桜の季節が巡ってきました。 題名の通りなのですが、桜の木の絵を描いてみたいと思ったのですが、絵は超がつく初心者なので、桜どころか、「これは木だろうか?」ぐらい下手くそです。 そこで、桜の木(あるいは、樹木)の描き方が載っている本かウェブサイトをご存じありませんか。 私は基本アナログ人間なので、鉛筆とかシャーペンで描きたいと思っています。 (水彩はなしでお願いします) 皆さん、どうかお願いします。

  • 天気予報

    こんばんは。 「100%」というのは、有り得ないと思っております。 「100%、」という表現は、どうしたものかと思います。 【訊きたいポイント】 天気予報でも「100%」という表現は、用いるべきではないのではないか。 (「99%」とかに、しよう)

    • kurinal
    • 回答数7
  • iMuSCs細胞の読み方を教えて下さい

    iMuSCs細胞の読み方を教えて下さい

  • iMuSCs細胞の読み方を教えて下さい

    iMuSCs細胞の読み方を教えて下さい

  • iMuSCs細胞の読み方を教えて下さい

    iMuSCs細胞の読み方を教えて下さい

  • 天気予報

    こんばんは。 「100%」というのは、有り得ないと思っております。 「100%、」という表現は、どうしたものかと思います。 【訊きたいポイント】 天気予報でも「100%」という表現は、用いるべきではないのではないか。 (「99%」とかに、しよう)

    • kurinal
    • 回答数7
  • 天気予報

    こんばんは。 「100%」というのは、有り得ないと思っております。 「100%、」という表現は、どうしたものかと思います。 【訊きたいポイント】 天気予報でも「100%」という表現は、用いるべきではないのではないか。 (「99%」とかに、しよう)

    • kurinal
    • 回答数7