amenhotep2000 の回答履歴
- 神 信仰ならびに宗教についての一般理論
哲学カテが 劣化して来ていませんか。 神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。 神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。 人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。 あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。 1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。 2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。 (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~ 経験事象 可知 既知 未知 不可知(知り得ないと知ったものごと) 非経験の場(因果関係から自由な場を想定する) 非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。 (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~ 信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観 -------------------------- 考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教 感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 3-1. 《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。 3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。 3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。 4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。 《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。 (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~ =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。 A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論) 無梵:空(シューニャター)・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ C. ブディズム:仏仏一如(=有神論) 仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来) / マハーワイローチャナ(大日如来) 仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性) D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 E. (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 F. 《もののあはれを知る》 霊:かみ(自然および超自然) 霊:われ(自然本性) G. ユダヤイズム:霊霊一如 霊:ヤハヱ―;(エローホ=神) 霊:われ H. イスラーム:霊霊一如 霊:アッラーフ(イラーハ=神) 霊:われ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。 4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。 よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。 4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。 有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。 4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。 4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。 4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。 4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。 4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。
- 神 信仰ならびに宗教についての一般理論
哲学カテが 劣化して来ていませんか。 神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。 神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。 人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。 あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。 1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。 2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。 (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~ 経験事象 可知 既知 未知 不可知(知り得ないと知ったものごと) 非経験の場(因果関係から自由な場を想定する) 非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。 (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~ 信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観 -------------------------- 考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教 感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 3-1. 《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。 3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。 3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。 4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。 《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。 (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~ =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。 A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論) 無梵:空(シューニャター)・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ C. ブディズム:仏仏一如(=有神論) 仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来) / マハーワイローチャナ(大日如来) 仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性) D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 E. (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 F. 《もののあはれを知る》 霊:かみ(自然および超自然) 霊:われ(自然本性) G. ユダヤイズム:霊霊一如 霊:ヤハヱ―;(エローホ=神) 霊:われ H. イスラーム:霊霊一如 霊:アッラーフ(イラーハ=神) 霊:われ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。 4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。 よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。 4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。 有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。 4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。 4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。 4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。 4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。 4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。
- イラストについてご指導お願いいたします
絵のアドバイスをお願いいたします。 顔だけで申し訳ないのですが、 よく顎が長いと言われます。 過去にもその指摘が多くて、絵を描く時は 輪郭が長くならない様に反転して確認したり なるべく丸く描く様に努力はしているのですが.. 恥ずかしいことに自分では顎が長い様には 感じません。 顎が長いと感じられる場所や原因が わかる方は是非教えて頂きたいです。 よろしくお願いします。
- 締切済み
- 絵画・イラスト・デザイン
- noname#204595
- 回答数9
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哲学カテが 劣化して来ていませんか。 神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。 神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。 人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。 あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。 1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。 2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。 (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~ 経験事象 可知 既知 未知 不可知(知り得ないと知ったものごと) 非経験の場(因果関係から自由な場を想定する) 非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。 (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~ 信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観 -------------------------- 考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教 感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 3-1. 《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。 3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。 3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。 4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。 《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。 (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~ =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。 A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論) 無梵:空(シューニャター)・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ C. ブディズム:仏仏一如(=有神論) 仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来) / マハーワイローチャナ(大日如来) 仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性) D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 E. (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 F. 《もののあはれを知る》 霊:かみ(自然および超自然) 霊:われ(自然本性) G. ユダヤイズム:霊霊一如 霊:ヤハヱ―;(エローホ=神) 霊:われ H. イスラーム:霊霊一如 霊:アッラーフ(イラーハ=神) 霊:われ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。 4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。 よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。 4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。 有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。 4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。 4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。 4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。 4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。 4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。
- 信仰について
宗教を学問として学んでいる方は、 神様の正体の一部をご存知かと思うのですが、 日ごろ、神の存在をどのように捉えているの でしょうか。 私は比較的、神や霊の存在を信じている方 なのですが、最近、神道も作られた部分が かなり多いと知りました。乱暴な言い方ですが、 神様はいないと思ったわけです。しかし、 やはり年始には神社へ参拝したくなりましたし、 自宅の神棚に手を合わせる日もあるのです。 この神様の存在を信じる気持ちは、 どこから来るのでしょうか。 人の潜在的な死への恐怖からでしょうか。 以前、ダ・ヴィンチ・コードが話題になったとき、 アメリカ人の知人が、『キリストが誰であっても、 彼の教えが素晴らしいことには変わりない』と 言っていました。確かに、キリストは殺人や強盗が 当たり前だった時代に、人としての在り方を説き、 宗教が絡んだ人間同士の争いなどを除けば、 人々を平和な世界へ導いた優れた人物です。 彼が人間であれ、神の子であれ、彼の教えは 否定されるものではありません。 一方、神道に教義は存在しません。 かつて日本人は、木や岩などの自然に神秘的な 力が宿っていると信じていましたが、現代では、 天災や自然破壊による影響などの特別な場合を 除いては、自然が人の生死に直接影響を及ぼす 例は少ないことは誰もが分かっています。また、 例えば、樹木の多い神社に行き、すがすがしい 気持ちになる理由は、ある種の樹木には 精神を安定させる作用のある物質(香り)が 出ているからだと、私は考えているのですが、 そのように、信仰が人に与える影響も 科学的に証明できることが多いはずです。 それでも、合格祈願、厄払い、えんむすび、 ありとあらゆるお願いをしに、神社に行きます。 日本人は、神道からどのように安心感を得ている のでしょうか。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- noname#205094
- 回答数17
- 信仰について
宗教を学問として学んでいる方は、 神様の正体の一部をご存知かと思うのですが、 日ごろ、神の存在をどのように捉えているの でしょうか。 私は比較的、神や霊の存在を信じている方 なのですが、最近、神道も作られた部分が かなり多いと知りました。乱暴な言い方ですが、 神様はいないと思ったわけです。しかし、 やはり年始には神社へ参拝したくなりましたし、 自宅の神棚に手を合わせる日もあるのです。 この神様の存在を信じる気持ちは、 どこから来るのでしょうか。 人の潜在的な死への恐怖からでしょうか。 以前、ダ・ヴィンチ・コードが話題になったとき、 アメリカ人の知人が、『キリストが誰であっても、 彼の教えが素晴らしいことには変わりない』と 言っていました。確かに、キリストは殺人や強盗が 当たり前だった時代に、人としての在り方を説き、 宗教が絡んだ人間同士の争いなどを除けば、 人々を平和な世界へ導いた優れた人物です。 彼が人間であれ、神の子であれ、彼の教えは 否定されるものではありません。 一方、神道に教義は存在しません。 かつて日本人は、木や岩などの自然に神秘的な 力が宿っていると信じていましたが、現代では、 天災や自然破壊による影響などの特別な場合を 除いては、自然が人の生死に直接影響を及ぼす 例は少ないことは誰もが分かっています。また、 例えば、樹木の多い神社に行き、すがすがしい 気持ちになる理由は、ある種の樹木には 精神を安定させる作用のある物質(香り)が 出ているからだと、私は考えているのですが、 そのように、信仰が人に与える影響も 科学的に証明できることが多いはずです。 それでも、合格祈願、厄払い、えんむすび、 ありとあらゆるお願いをしに、神社に行きます。 日本人は、神道からどのように安心感を得ている のでしょうか。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- noname#205094
- 回答数17
- この絵の題名を教えてください!
中央にカウンターに手をついてこちらを見ているような女の人がいて、右側に彼女の後ろ姿が見えます。皆ドレスを着ています。19世紀終わりか20世紀の初めの絵だと思います。 題名も作者も思い出せずに困っています>_< 思い当たることがあれば教えてください!
- ベストアンサー
- 絵画・イラスト・デザイン
- tssksk
- 回答数3
- この絵の題名を教えてください!
中央にカウンターに手をついてこちらを見ているような女の人がいて、右側に彼女の後ろ姿が見えます。皆ドレスを着ています。19世紀終わりか20世紀の初めの絵だと思います。 題名も作者も思い出せずに困っています>_< 思い当たることがあれば教えてください!
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- tssksk
- 回答数3
- 思い出せない画家の名前を教えてください!
全く思い出せない画家の方がいます。ほとんど覚えてないのでハッキリとした絵の特徴が言えません。 ・女の人の絵が多かった気がします。 ・グロテスクな感じ(生々しい)でした。 ・繊細な感じではなく激しい感じでした。 ・古い画家ではないと思います。(ネットでその画家のサイトがあった) ・なにかと一体化しているような絵があったような無かったような…… 今はこのぐらいしか出てきません。 最近ずっと探しているのですが全く見つかりません…。気になって仕方ありません。 参考にならないと思うのですが、私はフランシス・ベーコンがすきです。最近はマーク・ライデンなどを見てます。 エロとグロが混ざった生々しいものからグロテスクだけど美しさがあるものが好きです。シュールだったりするものも好きです。 写真家ですがジョエル=ピーター・ ウィトキン、マギー・テイラーも好きです。 私が探している画家の名前ではなくてもおすすめの画家がいて教えていただけたら嬉しいです。
- 締切済み
- 絵画・イラスト・デザイン
- A01rain
- 回答数2
- 信仰について
宗教を学問として学んでいる方は、 神様の正体の一部をご存知かと思うのですが、 日ごろ、神の存在をどのように捉えているの でしょうか。 私は比較的、神や霊の存在を信じている方 なのですが、最近、神道も作られた部分が かなり多いと知りました。乱暴な言い方ですが、 神様はいないと思ったわけです。しかし、 やはり年始には神社へ参拝したくなりましたし、 自宅の神棚に手を合わせる日もあるのです。 この神様の存在を信じる気持ちは、 どこから来るのでしょうか。 人の潜在的な死への恐怖からでしょうか。 以前、ダ・ヴィンチ・コードが話題になったとき、 アメリカ人の知人が、『キリストが誰であっても、 彼の教えが素晴らしいことには変わりない』と 言っていました。確かに、キリストは殺人や強盗が 当たり前だった時代に、人としての在り方を説き、 宗教が絡んだ人間同士の争いなどを除けば、 人々を平和な世界へ導いた優れた人物です。 彼が人間であれ、神の子であれ、彼の教えは 否定されるものではありません。 一方、神道に教義は存在しません。 かつて日本人は、木や岩などの自然に神秘的な 力が宿っていると信じていましたが、現代では、 天災や自然破壊による影響などの特別な場合を 除いては、自然が人の生死に直接影響を及ぼす 例は少ないことは誰もが分かっています。また、 例えば、樹木の多い神社に行き、すがすがしい 気持ちになる理由は、ある種の樹木には 精神を安定させる作用のある物質(香り)が 出ているからだと、私は考えているのですが、 そのように、信仰が人に与える影響も 科学的に証明できることが多いはずです。 それでも、合格祈願、厄払い、えんむすび、 ありとあらゆるお願いをしに、神社に行きます。 日本人は、神道からどのように安心感を得ている のでしょうか。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- noname#205094
- 回答数17
- 信仰について
宗教を学問として学んでいる方は、 神様の正体の一部をご存知かと思うのですが、 日ごろ、神の存在をどのように捉えているの でしょうか。 私は比較的、神や霊の存在を信じている方 なのですが、最近、神道も作られた部分が かなり多いと知りました。乱暴な言い方ですが、 神様はいないと思ったわけです。しかし、 やはり年始には神社へ参拝したくなりましたし、 自宅の神棚に手を合わせる日もあるのです。 この神様の存在を信じる気持ちは、 どこから来るのでしょうか。 人の潜在的な死への恐怖からでしょうか。 以前、ダ・ヴィンチ・コードが話題になったとき、 アメリカ人の知人が、『キリストが誰であっても、 彼の教えが素晴らしいことには変わりない』と 言っていました。確かに、キリストは殺人や強盗が 当たり前だった時代に、人としての在り方を説き、 宗教が絡んだ人間同士の争いなどを除けば、 人々を平和な世界へ導いた優れた人物です。 彼が人間であれ、神の子であれ、彼の教えは 否定されるものではありません。 一方、神道に教義は存在しません。 かつて日本人は、木や岩などの自然に神秘的な 力が宿っていると信じていましたが、現代では、 天災や自然破壊による影響などの特別な場合を 除いては、自然が人の生死に直接影響を及ぼす 例は少ないことは誰もが分かっています。また、 例えば、樹木の多い神社に行き、すがすがしい 気持ちになる理由は、ある種の樹木には 精神を安定させる作用のある物質(香り)が 出ているからだと、私は考えているのですが、 そのように、信仰が人に与える影響も 科学的に証明できることが多いはずです。 それでも、合格祈願、厄払い、えんむすび、 ありとあらゆるお願いをしに、神社に行きます。 日本人は、神道からどのように安心感を得ている のでしょうか。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- noname#205094
- 回答数17
- 優れた牧師/神父
こんにちは。 宗教の質問は比較的このコーナーに多いか?と思いこちらに書き込みさせて頂きます。 色々なタイプはありますが、こういう質問サイトなので詳細に書くのも不毛かと考え、ここにかんしては読み手側の知力に委ねてあえて「職業牧師/職業神父にしか会った事が無い」と言わせて頂いた上で質問をさせて頂きます。 教会を運営しなければならず、それには「数」という要素を無視するのが難しい事は分るので職業牧師や神父を責めるつもりはありません。褒めるつもりもありませんが。 私は慰めて欲しいのではなく、不毛な叱咤をして欲しいのではなく、ただ求道の過程で迷った時に智慧ある意見が聞きたいと思う時があります。 教会に行っても核心に迫るような話し合いは一切無く、どこにでもあるような世間話や腫れ物にさわるような態度、かえって人をダメにしてしまうのではないかと思える様な種類の傷の舐め合い等等、教会以外でも見飽きているものが教会にもあるだけで、あまりにつまらないのでもう何年も通っていません。 あえて「評判の良い牧師/神父」とは聞きません。 有象無象の心をとらえるのに聡くても智慧から離れている人はいくらでも居ると思っているからです。 求道者が迷った時に智慧ある言葉を出せる牧師さん/神父さんをご存知の方、いらっしゃいましたらお教え頂けないでしょうか。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- noname#207138
- 回答数9
- 精神の充足量の最大化とはいったいどういう精神か
ひとの一生における精神の充足量の総和を最大化するということを目的とするのは いったいどういう精神であり どんな神経をしていたら そう考えるようになるのか? ただの功利主義のたわごとであると質問者には思われるのですが 果たしてどのようにみなさんはお考えでしょうか? 《お金と出世》をこよなく愛していながら ついぞその境遇にめぐまれず そのやぶれし夢をB面のぼやき節にしただけだと見るのですが 自由なご批判をお寄せください。
- 優れた牧師/神父
こんにちは。 宗教の質問は比較的このコーナーに多いか?と思いこちらに書き込みさせて頂きます。 色々なタイプはありますが、こういう質問サイトなので詳細に書くのも不毛かと考え、ここにかんしては読み手側の知力に委ねてあえて「職業牧師/職業神父にしか会った事が無い」と言わせて頂いた上で質問をさせて頂きます。 教会を運営しなければならず、それには「数」という要素を無視するのが難しい事は分るので職業牧師や神父を責めるつもりはありません。褒めるつもりもありませんが。 私は慰めて欲しいのではなく、不毛な叱咤をして欲しいのではなく、ただ求道の過程で迷った時に智慧ある意見が聞きたいと思う時があります。 教会に行っても核心に迫るような話し合いは一切無く、どこにでもあるような世間話や腫れ物にさわるような態度、かえって人をダメにしてしまうのではないかと思える様な種類の傷の舐め合い等等、教会以外でも見飽きているものが教会にもあるだけで、あまりにつまらないのでもう何年も通っていません。 あえて「評判の良い牧師/神父」とは聞きません。 有象無象の心をとらえるのに聡くても智慧から離れている人はいくらでも居ると思っているからです。 求道者が迷った時に智慧ある言葉を出せる牧師さん/神父さんをご存知の方、いらっしゃいましたらお教え頂けないでしょうか。
- ベストアンサー
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- noname#207138
- 回答数9