amenhotep2000 の回答履歴
- 音楽って何のためにあるの?
っていう問いは成り立ちますか? わたしが音楽を聞くのは 心地よいからですが ほかに目的や効能などがありますか? あるいは理屈を言えば 音楽も絵画美術などとともに芸術として いわゆる真善美の体験にかかわる――それによって わたしは我れに還る――ものだと考えるのですが 美としては 心地よい感覚の問題だと言ってはいけませんか? 音楽についての哲学ってありますか?
- 音楽って何のためにあるの?
っていう問いは成り立ちますか? わたしが音楽を聞くのは 心地よいからですが ほかに目的や効能などがありますか? あるいは理屈を言えば 音楽も絵画美術などとともに芸術として いわゆる真善美の体験にかかわる――それによって わたしは我れに還る――ものだと考えるのですが 美としては 心地よい感覚の問題だと言ってはいけませんか? 音楽についての哲学ってありますか?
- 正午(12時)は、午前、午後、どちらに属する?
お昼の12時(正午)は、午前でしょうか、午後でしょうか。 どちらに属するのでしょうか? あるいは、 どちらにも属さないのか? http://www.nao.ac.jp/faq/a0401.html を見ますと、 午前12時なら午前であり、午後0時ならば午後ということになりそうですが、 ───午前12時と午後0時は同じものなのか、違うものなのか。「明けの明星と宵の明星は同じか、別物か」という哲学問題が発生する─── 同時に、 午前12時は存在するようですが、午後0時というのは存在しないとなる。 しかし、 午前は正午の前であり、午後は正午のあとと考えますと、午前12時、午後0時という表現はおかしいとなるのでしょう。 正午は午前午後を分ける境界点であり、午前・午後のどちらにも属さない、と考えるのが、最も妥当的なのでしょうか。 では、 0時という時刻は、昨日、今日、あるいは、今日、明日のどちらに属するのでしょうか。 0時は、正午と同じように、昨日今日、今日明日を分割する境界点であり、どちらにも属さないのでしょうか。 であるとすると、一日の長さが24時間であるということに疑義が浮かびます。一日は、数学的な表現をしますと、 0時 < t < 24時 あるいは、 (0,24) の区間のことをいい、一日の長さは24時間よりホンのちょっぴり短い? いやいや、一日の長さは、素朴な方法では定義できず、 数学の極限などの考え方を取り入れないと、定義できない? そして、 これは、アキレスと亀のパラドクスになる??? このパラドキシカル(?)な状況の解決はあるのでしょうか。 そして、 これは何に由来しているのでしょう。 言葉や概念の曖昧さがこの原因なのでしょうか。 それとも、時(の流れ)は、時間や時刻が存在しない? 時そのものが存在しない??? 教えてください。 よろしくお願いします(ペコリ)。 数学には、《デデキント切断》というものがありますが…。 デデキント切断 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%87%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%83%88%E5%88%87%E6%96%AD PS 日付変更線という、よくわからないものもあります。 この日付変更線を右足でまたいだとき、 私(の体)は、今日・明日、あるいは、昨日・今日、どちらに属しているのであろか。 (境界の)内と外でもいいのですが…。
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- 哲学・倫理・宗教学
- NemurinekoNya
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- なぜ空爆をやめないのか?
卑劣なテロには屈しないと言いながら 安倍首相もオバマ大統領も空爆を止めようとは言いません 後藤さんのイスラム国入の一つの理由は空爆で市民が被害を受けてないか それを伝えたいと言う事もあったと思います。 腐ったミカンの方程式ではありませんが イスラム国を叩き潰して解決したと パワー・イズ・ライトを主張するなら、戦後レジームからの脱却はどういう事でしょうか? イスラム国への空爆は太平洋戦争時の日本への絨毯爆撃と原爆と同じ様です。 日本はここでどう主張するべきなのでしょうか? アメリカの空爆を止めさせると言う選択肢はないのでしょうか? テロが起きるにはそれなりの不条理があったのではないでしょうか? 空爆で皆殺しにするのが民主主義なのでしょうか?? 本当にこの世の中はパワー・イズ・ライトなのでしょうか? アメリカ国内でも人種差別が問題になっています。 米英が正しいのでしょうか?アメリカに敵対する国の国民がゴミのように犠牲になって良いのでしょうか? 端的にお願いします。私は病弱で長文は読めませんのでm(_ _)m
- Lord in your Mercyの訳について
初めまして。 現在英語圏に在住なのですが、娘が今度カトリック教会のインターナショナルマスで急遽日本語と英語のプレイヤーをすることになりました。 英語で言った後に、同じものを日本語で言います。 英語のカテとこちらのカテと迷ったのですが、まずはカトリックの背景を持っている方たちがいるこちらのカテに質問させていただこうと思います。 娘が書いた「祈り」の最後に、Load in your Mercy,,,hear our prayr. と書いているのですが、これを日本語に訳すと何となるのでしょうか? 娘は6歳の為、もし簡単な言葉でも代用が出来るようでしたら、併せて教えてくださいますと助かります。 (*娘と主人はカトリックですが、私は違う為、どう訳して良いのか分かりませんでした)
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- 哲学・倫理・宗教学
- hanatomcli
- 回答数6
- Lord in your Mercyの訳について
初めまして。 現在英語圏に在住なのですが、娘が今度カトリック教会のインターナショナルマスで急遽日本語と英語のプレイヤーをすることになりました。 英語で言った後に、同じものを日本語で言います。 英語のカテとこちらのカテと迷ったのですが、まずはカトリックの背景を持っている方たちがいるこちらのカテに質問させていただこうと思います。 娘が書いた「祈り」の最後に、Load in your Mercy,,,hear our prayr. と書いているのですが、これを日本語に訳すと何となるのでしょうか? 娘は6歳の為、もし簡単な言葉でも代用が出来るようでしたら、併せて教えてくださいますと助かります。 (*娘と主人はカトリックですが、私は違う為、どう訳して良いのか分かりませんでした)
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- hanatomcli
- 回答数6
- 正午(12時)は、午前、午後、どちらに属する?
お昼の12時(正午)は、午前でしょうか、午後でしょうか。 どちらに属するのでしょうか? あるいは、 どちらにも属さないのか? http://www.nao.ac.jp/faq/a0401.html を見ますと、 午前12時なら午前であり、午後0時ならば午後ということになりそうですが、 ───午前12時と午後0時は同じものなのか、違うものなのか。「明けの明星と宵の明星は同じか、別物か」という哲学問題が発生する─── 同時に、 午前12時は存在するようですが、午後0時というのは存在しないとなる。 しかし、 午前は正午の前であり、午後は正午のあとと考えますと、午前12時、午後0時という表現はおかしいとなるのでしょう。 正午は午前午後を分ける境界点であり、午前・午後のどちらにも属さない、と考えるのが、最も妥当的なのでしょうか。 では、 0時という時刻は、昨日、今日、あるいは、今日、明日のどちらに属するのでしょうか。 0時は、正午と同じように、昨日今日、今日明日を分割する境界点であり、どちらにも属さないのでしょうか。 であるとすると、一日の長さが24時間であるということに疑義が浮かびます。一日は、数学的な表現をしますと、 0時 < t < 24時 あるいは、 (0,24) の区間のことをいい、一日の長さは24時間よりホンのちょっぴり短い? いやいや、一日の長さは、素朴な方法では定義できず、 数学の極限などの考え方を取り入れないと、定義できない? そして、 これは、アキレスと亀のパラドクスになる??? このパラドキシカル(?)な状況の解決はあるのでしょうか。 そして、 これは何に由来しているのでしょう。 言葉や概念の曖昧さがこの原因なのでしょうか。 それとも、時(の流れ)は、時間や時刻が存在しない? 時そのものが存在しない??? 教えてください。 よろしくお願いします(ペコリ)。 数学には、《デデキント切断》というものがありますが…。 デデキント切断 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%87%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%83%88%E5%88%87%E6%96%AD PS 日付変更線という、よくわからないものもあります。 この日付変更線を右足でまたいだとき、 私(の体)は、今日・明日、あるいは、昨日・今日、どちらに属しているのであろか。 (境界の)内と外でもいいのですが…。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- NemurinekoNya
- 回答数9
- 記者から攻撃されたら?
仮の話です。 たとえばこのカテゴリーに書き込み、粘着され なにか書くたびに、当てつけの内容を紙面にコラムとして それとなく書かれているようなことがあるとしたら どうしたらいいでしょうか? 微妙なのは直接名指しで批判されていないので、 確証がないということです。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- noname#207067
- 回答数4
- 神様は存在しますか?
まず、私の考えをいいますと・・・ 神様は存在しないだろうと思っています。 これに対して、いや、違うというお考えがあれば教えてください。 神様が存在するという証拠も、存在しないという証拠もない。 だから厳密にはどちらとも言うことはできない。 でも、存在しそうか、しなそうかということは考えることができる。 存在しなそうという根拠は 1)宗教で考えられている神様は、民族によって内容がバラバラである。これを統一的に考えるのは困難。これらの宗教のうちどれか1つの神様が正しいということを考えることも難しい。どちらかと言うと宗教は衰退しているようにみえる。ヨーロッパやアメリカでのキリスト教信者の減少など。 2)神様が存在するなら、その神様をつくったのは誰か?どうやってつくったのか?という問題が発生する。それに対し、神様はもともと存在したのだという意見も聞くけど、私は納得できない。やはり、最初に誰か(何か)がつくらないと存在できない気がする。 神様説に対する反論として・・・ 神様が存在する根拠として世界があまりにもすばらしくできていて神様なしには考えられないというのがあります。インテリジェント・デザインとか。 1)たしかに生物の体はほんとうによくできていると思います。でも誰かがデザインしたにしては無駄が多い。痕跡器官など。これらは生物進化の結果だと思います。 2)地球は人間が住みやすい環境です。これは偶然で説明できるのか?という意見があります。それに対しては人間原理で考えることができます。つまり地球の環境がうまくできているのは、もしうまくできていなかったら人間が存在できない。つまり、「当たり」の環境にしか人間は存在できないので、なんで「当たり」しかないのだろうね、不思議だね。という話になるということ。 「神様を信じるとしあわせになる。だから神様を信じる」というのは、ありだと思います。 ただ、「信じるとしあわせになるから、神様は存在する」というのは論理的につながっていないと思います。 念のために申しますと信仰は各人が選択するもので、そこに立ち入るつもりはありません。神様の存在について客観的なお話を聞きたいだけです。 論理的に神様が存在しそうという考えがありましたら教えてください。 以下、余談になります。 神様の存在を信じている人と議論して不満に思うのは、神様はいないだろうというと、「君は神様が存在しないということを信仰しているのだ」と言われてしまうことです。つまり「君も自分も信仰の方向が違うだけで信仰しているのは同じなのだ」という相対的なあつかいに持ち込まれてしまうのです。 私としては神様が存在する証拠や根拠が納得できれば、神様が存在するほうに考えを変えるつもりなのですが、やはりこれも信仰なのかな?と。 私が「妖精は存在しない」と言ったら誰も「君は妖精が存在しないという信仰を持っているのだ」とは言わないですよね。もし、神様と妖精はどこが違うのでしょうね。もしよかったらこの点もお教えください。
- 神のめぐみが 何ものにも先立つということ
を問います。 △ (詩編/ 59編 15-16節) ~~~~~~ 15: 夕べになると彼らは戻って来て 犬のようにほえ、町を巡ります。 16: 彼らは餌食を求めてさまよい 食べ飽きるまでは眠ろうとしません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ という世の中にあって 《神のめぐみが 何ものにも先立つということ》 がいちばん大事である。と考えます。すなわち: △ (詩編/ 59編 11-12節) ~~~~~~~~~ 11: 神はわたしに慈しみ深く、先立って進まれます。 わたしを陥れようとする者を 神はわたしに支配させてくださいます。 12: 彼らを殺してしまわないでください 御力が彼らを動揺させ屈服させることを わたしの民が忘れることのないように。 わたしたちの盾、主よ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 言ってみれば 《何もしないたたかい》。 人間の知恵や知識 判断力や意志 度胸や度量や境地その他その他よりも何よりも それが何であるかナゾであるめぐみ(只・無料)が先に来るという議論です。 世界の理論として これしかないという見方です。これを問います。どうでしょう? 意味が分かりにくいときには ツッコミを入れてください。
- イラストについてご指導お願いいたします
絵のアドバイスをお願いいたします。 顔だけで申し訳ないのですが、 よく顎が長いと言われます。 過去にもその指摘が多くて、絵を描く時は 輪郭が長くならない様に反転して確認したり なるべく丸く描く様に努力はしているのですが.. 恥ずかしいことに自分では顎が長い様には 感じません。 顎が長いと感じられる場所や原因が わかる方は是非教えて頂きたいです。 よろしくお願いします。
- 締切済み
- 絵画・イラスト・デザイン
- noname#204595
- 回答数9
- 神様は存在しますか?
まず、私の考えをいいますと・・・ 神様は存在しないだろうと思っています。 これに対して、いや、違うというお考えがあれば教えてください。 神様が存在するという証拠も、存在しないという証拠もない。 だから厳密にはどちらとも言うことはできない。 でも、存在しそうか、しなそうかということは考えることができる。 存在しなそうという根拠は 1)宗教で考えられている神様は、民族によって内容がバラバラである。これを統一的に考えるのは困難。これらの宗教のうちどれか1つの神様が正しいということを考えることも難しい。どちらかと言うと宗教は衰退しているようにみえる。ヨーロッパやアメリカでのキリスト教信者の減少など。 2)神様が存在するなら、その神様をつくったのは誰か?どうやってつくったのか?という問題が発生する。それに対し、神様はもともと存在したのだという意見も聞くけど、私は納得できない。やはり、最初に誰か(何か)がつくらないと存在できない気がする。 神様説に対する反論として・・・ 神様が存在する根拠として世界があまりにもすばらしくできていて神様なしには考えられないというのがあります。インテリジェント・デザインとか。 1)たしかに生物の体はほんとうによくできていると思います。でも誰かがデザインしたにしては無駄が多い。痕跡器官など。これらは生物進化の結果だと思います。 2)地球は人間が住みやすい環境です。これは偶然で説明できるのか?という意見があります。それに対しては人間原理で考えることができます。つまり地球の環境がうまくできているのは、もしうまくできていなかったら人間が存在できない。つまり、「当たり」の環境にしか人間は存在できないので、なんで「当たり」しかないのだろうね、不思議だね。という話になるということ。 「神様を信じるとしあわせになる。だから神様を信じる」というのは、ありだと思います。 ただ、「信じるとしあわせになるから、神様は存在する」というのは論理的につながっていないと思います。 念のために申しますと信仰は各人が選択するもので、そこに立ち入るつもりはありません。神様の存在について客観的なお話を聞きたいだけです。 論理的に神様が存在しそうという考えがありましたら教えてください。 以下、余談になります。 神様の存在を信じている人と議論して不満に思うのは、神様はいないだろうというと、「君は神様が存在しないということを信仰しているのだ」と言われてしまうことです。つまり「君も自分も信仰の方向が違うだけで信仰しているのは同じなのだ」という相対的なあつかいに持ち込まれてしまうのです。 私としては神様が存在する証拠や根拠が納得できれば、神様が存在するほうに考えを変えるつもりなのですが、やはりこれも信仰なのかな?と。 私が「妖精は存在しない」と言ったら誰も「君は妖精が存在しないという信仰を持っているのだ」とは言わないですよね。もし、神様と妖精はどこが違うのでしょうね。もしよかったらこの点もお教えください。
- 神様は存在しますか?
まず、私の考えをいいますと・・・ 神様は存在しないだろうと思っています。 これに対して、いや、違うというお考えがあれば教えてください。 神様が存在するという証拠も、存在しないという証拠もない。 だから厳密にはどちらとも言うことはできない。 でも、存在しそうか、しなそうかということは考えることができる。 存在しなそうという根拠は 1)宗教で考えられている神様は、民族によって内容がバラバラである。これを統一的に考えるのは困難。これらの宗教のうちどれか1つの神様が正しいということを考えることも難しい。どちらかと言うと宗教は衰退しているようにみえる。ヨーロッパやアメリカでのキリスト教信者の減少など。 2)神様が存在するなら、その神様をつくったのは誰か?どうやってつくったのか?という問題が発生する。それに対し、神様はもともと存在したのだという意見も聞くけど、私は納得できない。やはり、最初に誰か(何か)がつくらないと存在できない気がする。 神様説に対する反論として・・・ 神様が存在する根拠として世界があまりにもすばらしくできていて神様なしには考えられないというのがあります。インテリジェント・デザインとか。 1)たしかに生物の体はほんとうによくできていると思います。でも誰かがデザインしたにしては無駄が多い。痕跡器官など。これらは生物進化の結果だと思います。 2)地球は人間が住みやすい環境です。これは偶然で説明できるのか?という意見があります。それに対しては人間原理で考えることができます。つまり地球の環境がうまくできているのは、もしうまくできていなかったら人間が存在できない。つまり、「当たり」の環境にしか人間は存在できないので、なんで「当たり」しかないのだろうね、不思議だね。という話になるということ。 「神様を信じるとしあわせになる。だから神様を信じる」というのは、ありだと思います。 ただ、「信じるとしあわせになるから、神様は存在する」というのは論理的につながっていないと思います。 念のために申しますと信仰は各人が選択するもので、そこに立ち入るつもりはありません。神様の存在について客観的なお話を聞きたいだけです。 論理的に神様が存在しそうという考えがありましたら教えてください。 以下、余談になります。 神様の存在を信じている人と議論して不満に思うのは、神様はいないだろうというと、「君は神様が存在しないということを信仰しているのだ」と言われてしまうことです。つまり「君も自分も信仰の方向が違うだけで信仰しているのは同じなのだ」という相対的なあつかいに持ち込まれてしまうのです。 私としては神様が存在する証拠や根拠が納得できれば、神様が存在するほうに考えを変えるつもりなのですが、やはりこれも信仰なのかな?と。 私が「妖精は存在しない」と言ったら誰も「君は妖精が存在しないという信仰を持っているのだ」とは言わないですよね。もし、神様と妖精はどこが違うのでしょうね。もしよかったらこの点もお教えください。
- ルソーの市民的自由と道徳的自由について。
倫理学の勉強をしていて疑問に思ったので質問します。 ルソーの社会契約論で、市民的自由と道徳的自由はほぼ同じものでしょうか? また市民的自由の中に道徳的自由が含まれているのでしょうか?
- ベストアンサー
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- audiomania1964
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