NemurinekoNya の回答履歴

全2595件中641~660件表示
  • 「祈願」を行う場所は、神社?寺?

    祈願というとはやり神社のような気がします。 賽銭は、神社では神様へのお願いの奉納だと思います。 また、寺では欲を捨てるという意味と理解しています。 祈願とは、神社。つまり、神前で己の行いから事を成就させる誓いを立てることと理解しています。 寺では、欲を捨て自らを見つめ直し、悟りを開いて仏陀を目指すのが目的だと思います。 もちろん、渾沌や極楽浄土への救いの意味もあることは知っています。 ですから、寺では祈願という概念は存在しないと思うのです。 神仏習合で寺でも神社を持っている場合や、その逆もあるかと思います。 稲荷と言われていても、じつは寺だったりしますよね。 と、いうわけで「祈願」ですが、やはり神社で行う物という認識で間違いないでしょうか。 最近、○○寺で××祈願をした。と、いうものを目にしたので違うのではと思った次第です。

    • tax_sos
    • 回答数12
  • 耳なし芳一

    大学の哲学の授業で耳なし芳一について幽霊はいないという立場にたって説明せよ。という課題なのですがどうやって書いたらいいか検討がつきません。アドバイスお願いいたします。

  • 波動方程式とシュレディンガー方程式について

    ∂^2u/∂t^2=(ω^2/k^2)(∂^2u/∂t^2) と ih(∂/∂t)ψ=-(h^2/2m)(∂^2/∂x^2)ψ これらの式は何故同じなんですか?

  • 助けてください

    3kgの空気を0℃から200℃まで加熱するのに必要な熱量と、内部エネルギーおよびエンタルピーの変化を.圧力一定の場合、容積一定の場合ついて求めよ 15℃、1013hpaの空気1m3を6000hpaまで圧縮したとき、圧縮後の体積、外部に放出した熱量および圧縮に要する仕事を断熱変化の場合について求めなさい。

    • kanel4
    • 回答数1
  • 気体の体積について

    気体の体積についてですが、「体積は○m³」といっても、瞬間に衝突する分子の数も、瞬間に衝突する分子の運動エネルギーの合計も変化するわけですから、(体積は)肉眼では捉えられない範囲で常に変化していると考えていいでしょうか?

  • 「光」は飽和することはありますか?

    「光」は飽和することはありますか? ※生物学の意味でなく。 例えば真空のミラーの箱の中にライトを入れて光らせ、この光は減衰しないものと仮定した場合、いつか「この箱の中にこれ以上光が入らない」という状態は訪れるのでしょうか。 100%反射できるミラーがない、箱の中のライト自体の素材など、減衰要因は多々ありますが、もしそういう環境があればという想定でお願いします。 光を閉じ込めることができるかどうかではなく、RGBでいう0,0,0が黒、255,255,255が白という、このこれ以上ない「白」の状態が光りにはあるのだろうかという疑問です。 もし光が隙間なく埋め尽くされた場合、それぞれが衝突・干渉し合って、光の動きをとめることになるのでしょうか。 どうぞよろしくお願いします。

  • 助けて

    ある気体は6Mpaの圧力で温度100℃の場合に10m3の容積を占めている。圧力が10MPaで温度が60℃となった場合の容積変化を求めよ。よろしくお願いします

    • kanel4
    • 回答数1
  • これが さとりだ。

     みっつのことを挙げます。  まづ さとりのついての前提として 情報公開が大事だという点が来ます。  情報が不足していたり間違っていたりすれば さとりの知恵も出にくいというものです。  確かにさとりは 存在の全体としての――既知と未知とをあるいは無知をもふくめての――境地です。全体を隅々までひとつ残らず知っているということではないはずです。  けれども そのときそのつど知恵を発揮するには 関連することがらについての必要で十分なただしい資料や情報がなくてはならないと思われます。  生活日常でのこともフクシマなどの社会一般のこととしても 情報公開が前提になると考えます。  次には ひとりの人の主観内面にかかわったことがらとしての情報の獲得になると思います。  あのとき A さんはわたしにひどいことを言った なぜかを聞きそびれてしまって時も経った。と思っていたとき ふとヒラメキが得られる。ということがあると思います。--あぁ なるほどあれは しかじかかくかくの事情があってのことだったか。という心の問題としての情報の獲得です。  つまりは そういった過去のことがらだけではなく いま現在の人間関係におけるわだかまりや諍いなどなどについても あの人の心はこれこれこういうふうであるのかと知り得れば ずいぶんと互いのコミュニケーションは なめらかに行くのではないか。  日本ではよく《無私》ということを聞きます。それは こういう場合に当てはめるとよいのではないでしょうか? すなわち 劣等感や優越感 あるいは孤独とその不安といった《わたくしごと》よりも まづそのいまの情況に就きその内容を知る。そしていまの問題としては殊に 相手や当事者の心を知る。  これは さとりの問題だと思います。三人よれば文殊の知恵と言いますが 互いに自由な自己表現が出来るようにお互いが心を開きつつ臨む。  特に心の問題を互いに解決しておくこと。あの人この人などなど世間との和解を得ておくこと。なかんづくわたし自身との和解を得ること。心がやわらがしめられてあること。こころのまどが明けられていれば よいのではないでしょうか。  三つ目は 聖書から引きます。長いです。  ◆ 悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす ~~~~~~~  ――ルカによる福音書8:26-39 ――  26 一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。  27 イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。  28 イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。    ――「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。      頼むから苦しめないでほしい。」  29 イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。  30 イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。  31 そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。  32 ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。  33 悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。  34 この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。  35 そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。  36 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。  37 そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。  38 悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。  39 ――「自分の家に帰りなさい。      そして、神があなたになさったことを      ことごとく話して聞かせなさい。」  その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわちイエスなる男は このゲラサの人の心の中の状態が分かった。それは この人がイエスを見て 自分の心を――無言のうちに――開いたからである。イエスは その心のさまを無言のうちに知った。に過ぎない。  たとえばこのようにして 世間との・そしておのれみづからとの和解を得るということ。  それは 必ずしもほかの人に依存するのではなく 自分自身を自分自身のこととしてたもちつづける。おのれにとって固有のおのれみづからのとき(時)をまもる。そうすれば より高い境地の人に出会ったなら おのづとわが心が開かれる。窓は全開。すでに 日本晴れとなり わが心はやわらぎとやすらぎを得る。    これが 《さとり》――という動態――だと考えます。    この《さとり革命》をとおして おのおの内発的にわれらが社会の――ひいては世界の――衣替えが成るのではないでしょうか? ご見解をお寄せください。

  • 助けて

    容積0.6m3の変化しない容器に温度140℃,圧力1.4Mpaの空気が入っている。これを冷却して空気圧力を0.8Mpaにしたい。空気の物性値を一定として空気の質量m、減圧後の温度t2 、冷却熱量Qを求めよ。よろしくお願いします

    • kanel4
    • 回答数1
  • デューロン プティの法則の証明

    1つの基準モードに着目するとエネルギーEは E=p^2/(2M)+M(ωq)^2 p運動量 q変位 このエネルギーの温度Tnにおけるエネルギー平均値は <E>=(∮∮Eexp(-E/(kBT))dpdq)/(∮∮exp(-E/kBT)dpdq) ∮→普通のインテグラルで!! kB ボルツマン定数 が計算できません。 お願いいたします。

    • bangoo
    • 回答数1
  • 神は人間を何であると思っていると思うか?

     神は人間を何であると思っているとあなたは思いますか?  質問者のこたえは わたしにとって神は 信じているのであって・つまりは わが心なる《非思考の庭》に受け容れているのであって 何とも分からないというものです。   ○ わが心(身と心)の成り立ち    信仰:非思考の庭:ヒラメキ    -----------    哲学:思考の緑野:思考・想像    知覚:感性の原野:直感   ・ なお 《哲学》には シュウキョウのオシエが入ります。それは 信じるものではなく 考えるものです。

  • 同時に投げ上げた2物体の運動につきまして

    同時に投げ上げた2物体の運動についての御質問です。 物体Aを初速V0で鉛直に投げ上げると同時に 水平方向にL離れた地点から、物体Bを、 水平方向との角度αの向きに、初速v0で投げ上げます。 このとき Aの鉛直方向の座標は Y = V0*t - (1/2)gt^2 Bの鉛直方向の座標は y = v0sinα*t - (1/2)gt^2 t = t1で2つが衝突したとき、 V0*t - (1/2)gt1^2 = v0sinα*t - (1/2)gt1^2 であるから、両辺とも2項目が同じで消え、 V0 = v0sinα よって、同時に投げ上げた2物体が空中でぶつかるためには、 初速の鉛直成分が等しくなければならない。 ***** なぜ、Aが一度最高点に達したあと落ちてくる途中に Bと衝突する、ということが起こりえないのでしょうか。 いまいち腑に落ちず困っています。 (Lを考えなくてよい理由、 t1で高さが同じであってもBは水平方向にL進んでいるのか・・・) よろしくお願い致します。

    • stztoa
    • 回答数7
  • 同時に投げ上げた2物体の運動につきまして

    同時に投げ上げた2物体の運動についての御質問です。 物体Aを初速V0で鉛直に投げ上げると同時に 水平方向にL離れた地点から、物体Bを、 水平方向との角度αの向きに、初速v0で投げ上げます。 このとき Aの鉛直方向の座標は Y = V0*t - (1/2)gt^2 Bの鉛直方向の座標は y = v0sinα*t - (1/2)gt^2 t = t1で2つが衝突したとき、 V0*t - (1/2)gt1^2 = v0sinα*t - (1/2)gt1^2 であるから、両辺とも2項目が同じで消え、 V0 = v0sinα よって、同時に投げ上げた2物体が空中でぶつかるためには、 初速の鉛直成分が等しくなければならない。 ***** なぜ、Aが一度最高点に達したあと落ちてくる途中に Bと衝突する、ということが起こりえないのでしょうか。 いまいち腑に落ちず困っています。 (Lを考えなくてよい理由、 t1で高さが同じであってもBは水平方向にL進んでいるのか・・・) よろしくお願い致します。

    • stztoa
    • 回答数7
  • 量子論について

    調和振動子のシュレディンガー方程式の基底状態と第一励起状態のエネルギー準位と波動関数を求めなさい。 この問題の趣旨と答えがわかりません。 教えてください。

  • 牛乳セールスマンとしてのキリスト

    牛乳歴史クイズの質問第2弾です。 http://www.zennyuren.or.jp/chisiki/kentei/rekisi_01.htm 上記サイトに、 「救世主キリストが、『滋養に富んだ大事な飲みものである』と、説いた飲みものとは? 」 といふクイズがあります。私は聖書が好きでよく読むのですが、さつぱり答がわかりません。解説には 「新約聖書では、救世主キリストが、乳について『滋養に富んだ大事な飲みものである』と、説いて歩いたと書かれています。 」 新約聖書には、5回「乳」についての言及がありますが、どこにもそんな記述はありません。 いつたいどこからこんな、とんでもない情報が入つてきたのでせうか。

    • noname#214841
    • 回答数1
  • 神は人間を何であると思っていると思うか?

     神は人間を何であると思っているとあなたは思いますか?  質問者のこたえは わたしにとって神は 信じているのであって・つまりは わが心なる《非思考の庭》に受け容れているのであって 何とも分からないというものです。   ○ わが心(身と心)の成り立ち    信仰:非思考の庭:ヒラメキ    -----------    哲学:思考の緑野:思考・想像    知覚:感性の原野:直感   ・ なお 《哲学》には シュウキョウのオシエが入ります。それは 信じるものではなく 考えるものです。

  • 日本語が論理表現にふさわしくないわけがない。

     日本語は 論理表現にふさわしくないか?  ( α ) もし日本語が論理表現にふさわしくないというのであれば その根拠をしめして欲しい。  ( β ) 考えられることは おそらく言語じたいの問題ではなく    (β-1) 論理的に述べない主体の問題である。あるいは   (β-2) 論理的に述べようとしても 人間関係における社会的な力関係からかえって はばかられるという社会力学の問題である。  といった要因があるのか。  ( γ ) 言いかえるとそれは 論理〔つまりいわゆる主格(S)や述格(V)や対格(O)など格どうしの連絡関係〕を省略しても差し支えない文の成り立ちを保っているからであろう。  それは 主題を次から次へポンポンと提示して言い進めるかたち〔――《 A-ハ B-ガ C-ナリ( C-スル)。》なる文型――〕を取っている。ただしそのかたちの中にも 英文などのS-V-O.の論理連絡は むろん 表わされるように成っている。  ゆえに 根拠にはならないと思われるが どうか?  ( δ )=( β-3 ) その上でさらに考えられるとすれば 言語外の要因から自由になっても 主体じしんが あたかも曖昧の美学を信奉してのごとく あいまいに表現しようとする。言ってみれば神道関連にしても仏教にしても 人びとの漠然とした思想(生活態度)ないし言語慣習がそういう傾向を持つ。ゆえか?  すなわち 言語じたいに責任はないけれども 主体じしん( β-1)と社会環境( β-2 )が歴史的に言語の表現形式をあいまいなかたちにすでに固定してしまった。つまりそういう定めなのか?  ☆ どうお考えになりますか?  上のような考えに沿ってにしろ独自のお考えによるにしろ どうすればよいか? ご見解はありますか?

  • 神は人間を何であると思っていると思うか?

     神は人間を何であると思っているとあなたは思いますか?  質問者のこたえは わたしにとって神は 信じているのであって・つまりは わが心なる《非思考の庭》に受け容れているのであって 何とも分からないというものです。   ○ わが心(身と心)の成り立ち    信仰:非思考の庭:ヒラメキ    -----------    哲学:思考の緑野:思考・想像    知覚:感性の原野:直感   ・ なお 《哲学》には シュウキョウのオシエが入ります。それは 信じるものではなく 考えるものです。

  • 私は文科系なので判りませんと毅然と言い訳する人は?

    どうなのでしょうかね? 解らないことを自慢でもしたいのでしょうかね?あるいは自虐ネタなのでしょうかね。 いかがなものでしょうかね? まあ何れにしてもガキの言い訳のようで、非常に見苦しいと思いますけどね。 理科系の人は、私は理科系なんで判りませんとは絶対言いませんよね。 案の定、理科系出身の人たちの方が、文章作成能力も語学力や漢字の読み書きも論理的解釈や説明そしてプレゼンにいたっても、圧倒的に文科系出身者よりも優秀ですよね。

    • bicyn
    • 回答数7
  • 日本語が論理表現にふさわしくないわけがない。

     日本語は 論理表現にふさわしくないか?  ( α ) もし日本語が論理表現にふさわしくないというのであれば その根拠をしめして欲しい。  ( β ) 考えられることは おそらく言語じたいの問題ではなく    (β-1) 論理的に述べない主体の問題である。あるいは   (β-2) 論理的に述べようとしても 人間関係における社会的な力関係からかえって はばかられるという社会力学の問題である。  といった要因があるのか。  ( γ ) 言いかえるとそれは 論理〔つまりいわゆる主格(S)や述格(V)や対格(O)など格どうしの連絡関係〕を省略しても差し支えない文の成り立ちを保っているからであろう。  それは 主題を次から次へポンポンと提示して言い進めるかたち〔――《 A-ハ B-ガ C-ナリ( C-スル)。》なる文型――〕を取っている。ただしそのかたちの中にも 英文などのS-V-O.の論理連絡は むろん 表わされるように成っている。  ゆえに 根拠にはならないと思われるが どうか?  ( δ )=( β-3 ) その上でさらに考えられるとすれば 言語外の要因から自由になっても 主体じしんが あたかも曖昧の美学を信奉してのごとく あいまいに表現しようとする。言ってみれば神道関連にしても仏教にしても 人びとの漠然とした思想(生活態度)ないし言語慣習がそういう傾向を持つ。ゆえか?  すなわち 言語じたいに責任はないけれども 主体じしん( β-1)と社会環境( β-2 )が歴史的に言語の表現形式をあいまいなかたちにすでに固定してしまった。つまりそういう定めなのか?  ☆ どうお考えになりますか?  上のような考えに沿ってにしろ独自のお考えによるにしろ どうすればよいか? ご見解はありますか?