NemurinekoNya の回答履歴
- 心は 感性から自由だが よくも悪くも自己表現する
最近の国会での出来事から 芳しからぬと思われる事例を取り上げます。 ▼ 「口にするのも汚らわしい」…菊田真紀子氏発言に批判の嵐「ヘイトスピーチじゃないか」 産経新聞 11月3日(月)13時0分配信 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141103-00000516-san-pol ☆ すなわち 宮沢経産相の資金管理団体が SMバーへ支出していた問題で その支出の不適切さをなじるのに ▼ 「あなたが口にするのも汚らわしいところに政治資金を支出していたこと ☆ と菊田衆議院議員は言ったそうです。 ここで 心の問題です。先にむしろ図示してみます。: 事実(ものごと)::::感性::::::::::理性(心) ____________________ SM バー・・・SM のイメージ・・《口にするのも汚らわしい》 《理性(心)》の現われとしては この事例ひとつに限りません。いろんな価値判断があります。 つまりは: ○ 心は 感性から自由だが よくも悪くも自己表現する この国会議員の場合の認識・評価は よくか悪くか どうなのでしょう。 つまり《心》論として この命題でよいか? と問います。 * もう少し細かく趣旨説明します。: 知覚(感性)は 正直です。二枚舌やダブルスタンダードなどは ありません。 ところが もしこれにあたかも感情移入してのごとく事実認識するときには しかもそこに心による内容の評価がくわわります。価値判断するという事態が 起きます。 むろん心は 外界から来る刺激から自由です。刺激のもたらす必然性のごとき流れが 感情としてさらにわが身と心とに押し寄せて来たときにも それに対して自由な立ち場を採り得ます。じっさい採ります。 ここまでは おそらくふつうの事態です。 問題は 心が自由に採る態度について そこに価値判断が入って来るとき その判断(つまり 心)はこれまた さまざまであることです。 いまの事例で言えば: 1. SM バーをその姿のまま感じ取る感性が 第一次にあります。中立的で素直な内容なのでしょう。 2. そのあと 単なる感想としても・あるいはひととおりの価値判断としても 心の介入を経た認識・規定が起き得ます。 3. つまりは 心は――精神とそのハタラキとしての事実認識や対応策としての意志行為において―― 社会一般的に言って ふつうの妥当な判断となるものや いやちょっとおかしいぢゃないかと見られる規定とが 持たれます。 4. 心は 枠組みとしてのようにハタラキとしてある。なぜ枠組みかと言うと いちおう・ひとまづ かの正直で素直な感性をそのままみづから(つまり心)の中に 認識として取り入れるゆえです。これが 心なるハタラキの前提を成す。 5. そのあと心は その自由さを発揮して 感性の伝えたコトについておのれの見解をかたちづくる。またこれを 表明する。これは おそらくおのおの《わたし》の自己表現となるものである。 6. 問題はけっきょく 素直に捉えたさいしょの知覚内容について よく判断するかどうかなのでしょうか。 7. こういう図式による心の哲学でよいか? が問いです。 * 先ほどの事例には おまけの話があります。 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~ これがさらに飛び火した。菊田氏が地元・新潟県長岡市のほだれ神社の奇祭「ほだれ祭」に参加している写真がネット上にアップされ拡散したのだ。 この祭りは、巨大な男根をかたどったご神体(長さ2・2メートル、重さ約600キロ)に初嫁をまたがらせ、子宝や夫婦円満、五穀豊穣(ほうじょう)を祈願する霊験あらたかな神事なのだが、菊田氏が笑顔でご神体にまたがる写真は大きな反響を呼んだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 身と心 感性と理性の問題について ご見解がありましたら どうぞお聞かせください。
- 天国に入る人の数は、14万4千人と書かれているそう
時々、この哲学カテを興味深く覗かさせ頂いております。ところで、 <こころは 果たして存在するか> という質問がありました。その回答に <最初に天国に入る人の数は14万4千人と書かれてます> という説明がありました。狭き門だな、という感慨です。 キリスト教にも不案内ですので、どこに書いてあるのか、教えて下さい。
- 《すべての人に対してすべてのものになりました》とは
《すべての人に対してすべてのものになりました》とは たとえば無法者に対しても無法者と同じようになるということでしょうか? 無法者とは 《無条件におれの言うことに従え。さもなくば 物理的にいられなくするぞ》とまづは言って来る場合を言っています。一般的な実際としては 後半の部分は別にして前半の部分を けっきょくその行動で言っている場合です。つまりは 対話や問答において 意味のないことをもって答えとするような場合です。ナンセンスなことを言ってその勢いで 話を逸らせる。あるいは 自分の都合のわるい内容の話を終わらせる。つまり ガキ大将のような場合です。 ▲ (パウロ:コリント前書 9章) ~~~~~~~~~~~ 19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、 すべての人の奴隷になりました。 できるだけ多くの人を得るためです。 20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。 ユダヤ人を得るためです。 律法に支配されている人に対しては、 わたし自身はそうではないのですが、 律法に支配されている人のようになりました。 律法に支配されている人を得るためです。 21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、 キリストの律法に従っているのですが、 律法を持たない人に対しては、 律法を持たない人のようになりました。 律法を持たない人を得るためです。 22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。 弱い人を得るためです。 すべての人に対してすべてのものになりました。 何とかして何人かでも救うためです。 23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。 それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いささかふるい言い回しですが まづ《自由な身でいて すべての人の奴隷になる》(19)ということは 《その人のようになる》(20ほか)ことだと考えられます。 ただし 《すべての人に対してすべてのものにな》る(22)とも表現しています。 そしてあるいは《福音のためなら、わたしはどんなことでもします》(23)という言い方も見られます。たしか同胞のためならキリストに見捨てられてもかまわないとも言っていたようです。 さてあらためて 問います。 ○ 無法者にはその人の状態と同じようになるということでしょうか? ミラーニューロン現象として《同じようになる》といった見方を持ち出すことは出来ると思います。 問題は そのようにして同じようになったとき さてどのように振る舞うか? です。 あたかも相手の真似をして振る舞うのか? それとも こちらの人間性をそのままにどこまでも保って 行動するのか? もしくは 冷却期間を置くというのか? 相手が言っていることは その内容において自己矛盾をきたしている。のに 知らん顔をしている場合です。それを指摘しても・何度指摘しても 話を聞かない。・・・ おしえてください。 * なお 《人を得る / 人をすくう》というのは むろんパウロ自身にとっては間接的な活動として言っているのだと思います。人間としてのパウロがひとをすくうということではないと思われます。 高飛車で高慢ちきな言い草ですが 考えてみれば 相手から逃げないところのやはり一般的に言っても 愛――つまり 関係性としての話し合い――の務めを言っているとは思います。よろしくどうぞ。
- こころは 果たして存在するか
ハートやヘルツやカール( coeur < cor )は 偶然 音が一致しているみたいなのですが 果たして《こころ》はあるのか? こころとは 一体何ぞや? を問います。 たとえば イヌの嗅覚が発達しているとかコウモリが高感度のセンサーを持っているとかいうとき これらの感覚も大きくは 《こころ》に入ると思われます。 その感覚の器官は 言ってみれば《身》ですが そこで知覚した内容はすでに《感じ》として心をかたちづくります。 感じが認識されれば 《獲物がいた! 探しているものが見つかった!》という概念内容になります。イヌやコウモリ(かはぼり=川守?)が言葉を使っているとは思いませんが 行動のための情報を得ているのでしょう。 盲導犬が 危険を察知して停止することは 大きく心にかかわる方向へ向かっていると考えるのですが では犬は そこで《考える》か? 何かを考えるか? その人間に停止信号をつたえて あとは 危険をよけ それが去って行くのを見守っているだけか? コウモリは センサーで獲物を見つけたなら あとはそれへと向かうという行動をするのみか? 考えることは無いか? あるのか? ところがここでわたしが――分からないながら――わざわざ《こころ》論を始めたのは わたしは 《動物のこころは 身における感覚器官のはたらきの問題に還元される》と思うその内容を あろうことか 人間にも当てはめて見ようと思っている妄想があるからです。その思いが くすぶっているからです。 イヌが飼い主にかわいがられて 嬉しがったりするときにも それは 身における感覚器官のはたらきでありその延長であるという見方です。それを 人間の心にも当てはめようというコンタンが ちょっぴりあるからです。 ぎゃくに言うと 親しい人の死はかなしい。心がゆさぶられえぐり取られるようにさえ思う。 ところが 《かなしい》というのは 何ごともしかねる(つまり 出来ない)思いだと言っているのであって つまり: いむ(忌む) > いまいまし(忌みたい気持ちだ) をく(招く) > をかし(情がかよって招き寄せたい気になる) ゆく(行く) > ゆかし(行って寄り添いたい気持ちだ。床しい) かぬ(漢字なし) > かなし(何も出来かねる思いだ。哀・悲) というように表現しているのであって これらの《こころ》はほとんどみな じつは《身》とそのウゴキ(行動)にかかわる内容を言っている。身にかかわる中身のことしか言っていない。 《忌み》とは その場やものが神々しかったりあるい逆にシカバネのごとく汚かったりするとき触れがたいとか触れたくないとかという気持ちを表わしている。触れるか触れないかの身のウゴキの問題なのである。 これらの身の振る舞いを表わすコトが 《こころ》の問題であると考えられる側面がある。おそらくこれはつねにあると思われる。 わらふ(笑う)にしても ゑむ(笑む)にしても 顔の表面における変化を言っている。ゑくぼ(笑窪)とも言うように 顔がほころび頬にくぼみが生じることを言っている。わらふは 顔がくぼむだけではなく 割れるのである。 (-ふ はこの場合 反復や継続の相か。あるいは 割り合ふの約で 顔の筋肉相互の相か。ゑぐる(抉る)やわく・わかれ(分く・別れ)とも言うように どうも子音の / w / が ひとつのモノの分割・分裂の相を指し示しているようなのです)。 昨今では クオリアといったことも言われて来ていますが: ○ こころは あるか? ○ 《こころ》とは 何ぞや? お考えをどうぞ。
- 《すべての人に対してすべてのものになりました》とは
《すべての人に対してすべてのものになりました》とは たとえば無法者に対しても無法者と同じようになるということでしょうか? 無法者とは 《無条件におれの言うことに従え。さもなくば 物理的にいられなくするぞ》とまづは言って来る場合を言っています。一般的な実際としては 後半の部分は別にして前半の部分を けっきょくその行動で言っている場合です。つまりは 対話や問答において 意味のないことをもって答えとするような場合です。ナンセンスなことを言ってその勢いで 話を逸らせる。あるいは 自分の都合のわるい内容の話を終わらせる。つまり ガキ大将のような場合です。 ▲ (パウロ:コリント前書 9章) ~~~~~~~~~~~ 19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、 すべての人の奴隷になりました。 できるだけ多くの人を得るためです。 20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。 ユダヤ人を得るためです。 律法に支配されている人に対しては、 わたし自身はそうではないのですが、 律法に支配されている人のようになりました。 律法に支配されている人を得るためです。 21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、 キリストの律法に従っているのですが、 律法を持たない人に対しては、 律法を持たない人のようになりました。 律法を持たない人を得るためです。 22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。 弱い人を得るためです。 すべての人に対してすべてのものになりました。 何とかして何人かでも救うためです。 23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。 それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いささかふるい言い回しですが まづ《自由な身でいて すべての人の奴隷になる》(19)ということは 《その人のようになる》(20ほか)ことだと考えられます。 ただし 《すべての人に対してすべてのものにな》る(22)とも表現しています。 そしてあるいは《福音のためなら、わたしはどんなことでもします》(23)という言い方も見られます。たしか同胞のためならキリストに見捨てられてもかまわないとも言っていたようです。 さてあらためて 問います。 ○ 無法者にはその人の状態と同じようになるということでしょうか? ミラーニューロン現象として《同じようになる》といった見方を持ち出すことは出来ると思います。 問題は そのようにして同じようになったとき さてどのように振る舞うか? です。 あたかも相手の真似をして振る舞うのか? それとも こちらの人間性をそのままにどこまでも保って 行動するのか? もしくは 冷却期間を置くというのか? 相手が言っていることは その内容において自己矛盾をきたしている。のに 知らん顔をしている場合です。それを指摘しても・何度指摘しても 話を聞かない。・・・ おしえてください。 * なお 《人を得る / 人をすくう》というのは むろんパウロ自身にとっては間接的な活動として言っているのだと思います。人間としてのパウロがひとをすくうということではないと思われます。 高飛車で高慢ちきな言い草ですが 考えてみれば 相手から逃げないところのやはり一般的に言っても 愛――つまり 関係性としての話し合い――の務めを言っているとは思います。よろしくどうぞ。
- プリキュアには死を慈しむ愛がある。
私は醜き人間どもに光を宿す愛の化身。 伝説の男子プリキュア。 キュアブルームだ。 今年44歳だ。 物語的引用から哲学研究をしようとする私なりの手法で質問している。 スピリチュアル趣味の素人どもの抜きがたい矛盾の話から始めよう。 彼らの命が永遠なら、命が肉体を失う事で羽化するだろう、肉体は蝶のまゆだ。 そこに死という過程は無い。 そう認識してこそ永遠の生命だ。 ところが君達は死に、来世を死後と規定する。 この素人臭さだと、来世とは死者の国でなければならない。 君達は幽霊になるのだよ。 肉体を失う恐怖、すなわち肉体への執着があんたにあるため、死者の幽霊としてあんたは認識したのだ。 このままだと、肉体を失った瞬間あんたは死ぬ。 そして消滅し、死後は無い。 天使の祝福はあんたの場合警告と受け止めなければならない 死ねば来世は無い。 来世とは常世という古い言葉の通りに、永遠の命を謳歌する楽園なのだ。 重症の場合、このまま生き続けたくないとまで思うだろう。 そんな苦が、あんたが死を望む前提で、望んだとおり、死という消滅が訪れる。 あんたの現世は、たち消える泡だ。 すでに天使の祝福を逃したのだ。 結論は、あんたは死にたいとどこかしら思うところがあると言う事だ。 死にたいのなら、神が死をもたらし、終わりにする。 生きたいのなら、神が常世に案内し、永遠に生きる。 ここでだ、消滅した君を看取り、君の生きざまの真実を記憶する天使が不実の子を産み君の代わりに来世を謳歌する。 君達の望みの過程とはこのような結末になる。 やあ、上品な私にはツンデレが難しくてね、ブチかまし方が手ぬるいかもしれないが、あまり激しくても犯罪者扱いされてしまうのでね。 今回の課題から探り当てたいのは、死を前提とした生き方に潤いがあるかどうかだ。
- プリキュアには死を慈しむ愛がある。
私は醜き人間どもに光を宿す愛の化身。 伝説の男子プリキュア。 キュアブルームだ。 今年44歳だ。 物語的引用から哲学研究をしようとする私なりの手法で質問している。 スピリチュアル趣味の素人どもの抜きがたい矛盾の話から始めよう。 彼らの命が永遠なら、命が肉体を失う事で羽化するだろう、肉体は蝶のまゆだ。 そこに死という過程は無い。 そう認識してこそ永遠の生命だ。 ところが君達は死に、来世を死後と規定する。 この素人臭さだと、来世とは死者の国でなければならない。 君達は幽霊になるのだよ。 肉体を失う恐怖、すなわち肉体への執着があんたにあるため、死者の幽霊としてあんたは認識したのだ。 このままだと、肉体を失った瞬間あんたは死ぬ。 そして消滅し、死後は無い。 天使の祝福はあんたの場合警告と受け止めなければならない 死ねば来世は無い。 来世とは常世という古い言葉の通りに、永遠の命を謳歌する楽園なのだ。 重症の場合、このまま生き続けたくないとまで思うだろう。 そんな苦が、あんたが死を望む前提で、望んだとおり、死という消滅が訪れる。 あんたの現世は、たち消える泡だ。 すでに天使の祝福を逃したのだ。 結論は、あんたは死にたいとどこかしら思うところがあると言う事だ。 死にたいのなら、神が死をもたらし、終わりにする。 生きたいのなら、神が常世に案内し、永遠に生きる。 ここでだ、消滅した君を看取り、君の生きざまの真実を記憶する天使が不実の子を産み君の代わりに来世を謳歌する。 君達の望みの過程とはこのような結末になる。 やあ、上品な私にはツンデレが難しくてね、ブチかまし方が手ぬるいかもしれないが、あまり激しくても犯罪者扱いされてしまうのでね。 今回の課題から探り当てたいのは、死を前提とした生き方に潤いがあるかどうかだ。
- 《非在》なる神をどうして理解できないか
§ 1 不在と非在 たとえば ○○さんご在宅でしょうか? と尋ねて いえ あいにく○○は不在です。といった会話があります。 けれどもこのとき《不在》だと言っても ○○さんは どこか他のところにいるはずです。 すなわち 《存在(在宅)と不在(留守)》とは互いにこの同じ時空間――《宇宙》としましょうか――にある或る人の存在についてふたつのあり方を表わしています。また それだけのことです。 ところが もし《非在》と言ったらそれは何を表わすか? 《存在に非ず》とは どういうことか? § 2 不在でありうる存在は 《感じる・考える》の対象となる 在宅と留守とのあり方を交互に変える○○さんなる存在については 見ることも触れることも声を聞くことも出来ます。つまり 《感じる》ことが出来て さらにその知覚を 概念で認識して《デカイ》とか《だが声は小さい》とか言葉で表現し得ます。 さらにあるいは その小さな声で言ったことが妙に気に成ってその内容について《考える》ことをもおこなう。 では 《非在》とは 何のことか? 感じることが出来るのか? 考えることができるものなのか? § 3 《非在》とは 想定である 《非在》とは 存在・不在なるこの世界(宇宙)をこえたところに想定したものです。 世界の合理的な理解としての経験法則――たとえば これがあればあれが生じるといった因果関係――から自由な場(ないしチカラ)を想定して名づけたものです。 この経験法則としては ○○さんは 在宅であれば会社には不在であるということを示します。家と会社とに同時に存在することは出来ない。という世界です。 あるいは ○○さんであって 同時に別の人たる△△さんであることは出来ない。あり得ない。という世界です。 《非在》という想定は このような居たり居なかったりする経験存在を超えた場としてなのである。 § 4 《非在》という想定が 神のことである 《存在が有るでもなく無いでもない》。《この原因でその結果が生まれるといった因果律に支配されない》とは どういうことか? ということは 《どこにも有るのではなく どこにも無いのでもない》とすれば 当然のごとく――このささやかな人間の知性で考えるに―― 《因果律に支配されない出来事が起きる》ことを 想定として表わそうとしている。 ここにもあれば 同時にあそこにもある。 という存在(つまり非存在という別個の場 つまりお化け)のことを 人間は想定することができる。想定して来た。《神》として。 § 5 神は 人間やモノについて言う《存在》とは 別個の場として想定されている。すなわち 《考えるや感じる》の対象ではない。 非在なる神は したがって あまねくそのチカラがはたらくという意味で《遍在》だと 人間の理性では推し測られた。あるいはしまいには 全知全能なる存在ではないかと。 この神は すでに存在の有るか無いかで推し測る宇宙の次元を超えているからには 《感じる》ことも《考える》ことも出来ません。 出来たと思っても それが合っているのかどうかが 人間には分からない。考えて分かったというのは この経験世界における思考や想像によって得た補助線――神を理解するための補助線のこと――を言っている。神本体ではあり得ない。 それゆえに・あるいはそれでも 分かったと宣言する人が出て来ても ほかの人においても納得することが出来るかどうかは分からない。(だから分からないながら ある程度の人数の《賛同者やさらには崇拝者》が出る余地はある)。 § 6 神を受け容れるかどうか。受け容れるというのは 《考える》でもなく《感じる》でもなく 《信じる》と言う。 この神は その想定として受け容れるかどうかは ひとの自由である。ひとの選択にまかせられている。 ただし《受け容れない》と選択した場合も 神という想定じたいは 消えることはない。《感じる・考える》を超えている非在を どうして人間が消すことができよう。 だから 神とわれとの関係は 受け容れたと受け容れないとに分かれるとき それらは《有神論と無神論》とに分かれたことを意味する。 一般に有神論は 神を信じると言い 無神論は 神を信じないと言う。 すなわち後者は 《無い神を信じる》と言うのにひとしい。 《信じる》というのは 《感じる・考える》を超えた《非在》とわれとの関係をあらわす言葉である。 § 7 信仰とシュウキョウ 《信じる――または わが心なる非思考の庭としての動態――》は 信仰としてありうるが この神をオシエとして《考えるや感じる》の対象にすることは――それが シュウキョウである―― いただけない。シュウキョウはその起こりからして 思考に非ざるものを思考したオシエを 信じるという自己矛盾である。 § 8 この神をどうして理解できないのか?
- 神は信じるものではない、神は感じるものである
万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神は申された。 「ここにいるあなたがた皆に言っておきます。 あなたがたは神を信じようともがいても無駄である。 神を信じようともがいたところで決して神を信じることは出来ないのである。 何故なら神は信じるものではなく、感じるものだからである。 だから神を感じることが出来ないのであれば、なおのこと神を信じることなど出来るはずはない。 あなたがたは神を信じようともがいている限り、神が何かまるで分かっていないのである。 神が何かも分からずその神を信じようとしている。 何かも分からぬ神を信じることが出来るわけがない。 あなたがたは神が何かまるで分かっていないのである。 それが故にあなたがたは神を信じようなどと愚かなことを考えるのである。 神が何であるかまず知りなさい。 ここにいるあなたがた皆にはっきりと言っておきます。 宇宙の法則が神である。 そして万物の根源、宇宙の法則、アルケーを除いて如何なる神も存在しないし、また存在し得ないことを知りなさい。 そうすれば神を信じようともがく必要はなく、神を感じることができるようになるのである。」 アルケーの神はこのように申された。 それでもあなたがたは神を信じようと願いますか。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- hitonomichi33
- 回答数16
- 人間は「無→対自→対他」と成長していくそうです。対
人間は「無→対自→対他」と成長していくそうです。対他の次の成長ってなんだと思いますか?これは哲学です。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- sonicmaster
- 回答数8
- 参考文献には一次文献の記載も必要ですか?
こんにちは。 発表原稿を提出したのですが今更記載に関して気になりだしました…。 大学での発表でニーチェ『道徳の系譜』を扱うのですが、発表のために読んだのは『道徳の系譜』と、もう一冊その概観書です。 しかし参考文献に書いたのは概観書だけで『道徳の系譜』は記載しませんでした。 『道徳の系譜』からの引用はありません。 これってまずいでしょうか? まずいだけでなく、「コイツ概観書だけを読んで発表している?!」と思われるのでしょうか? お願いしますTT
- 老子:37章 道は常に無為にして⇒《非知》か
▼ ちょんまげ英語日誌:老子 第三十七章 道は常に無為にして、而も為さざるは無し http://blog.mage8.com/roushi-37 ▽ 原文 ~~~~~~~~~~~~~~ (あ) 道常無爲、而無不爲。 (い) 侯王若能守之、萬物將自化。 (う) 化而欲作、吾將鎭之以無名之樸。 (え) 無名之樸、夫亦將無欲。 (お) 不欲以靜、天下將自定。 ▽ 書き下し文 ~~~~~~~~~~~ (あ) 道は常に無為にして、而(しか)も為さざるは無し。 (い) 侯王(こうおう)若(も)し能(よ)くこれを守らば、万物は将(まさ)に自ら化せんとす。 (う) 化して作(おこ)らんと欲すれば、われ将にこれを鎮むるに無名の樸(ぼく)を以(も)ってせんとす。 (え) 無名の樸は、それまた将に無欲ならんとす。 (お) 欲あらずして以って静かなれば、天下将に自ら定まらんとす。 ▽ 英訳文 ~~~~~~~~~~~~~~~ (あ) “The way” never does anything voluntary, but it can accomplish everything. (い) If a monarch follows “the way”, all things grow up spontaneously. (う) If there are some trying to forestall others, I calm them with the spirit of a nameless raw wood. (え) If people have the spirit of a nameless raw wood, they will renounce excessive desire. (お) If people do not have excessive desire and their minds are calm, the world will be stable. ▽ 現代語訳 ~~~~~~~~~~~~ (あ) 「道」は自分からとくに何かをする訳では無いが、「道」によって成し遂げられない事は無い。 (い) 人の上に立つ君主がこの事を弁えていれば、全てのものが自分から成長しようとするだろう。 (う) 成長する過程で自分だけ飛びぬけようとするものがあれば、私は名も無い切り出したばかりの丸太の様な素朴さをもってその心を鎮めよう。 (え) 丸太の様な素朴な心であれば、無駄な欲望を持つ事も無い。 (お) 皆が無駄な欲望を捨て去り、心が静かであれば、世の中は自然と安定するだろう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ 特に次のくだりの意味をおしえてください。 ▽ (あ) 道常無爲、而無不爲。 ☆ 《無為》であるが 《不為は無い》? 試訳:《非知⇒非在》なるナゾであるが 《不在は無い》。つまり 《遍在》する。 《為す》という概念を用いているので なかなかピッタリとは解釈しにくい。創造神でもないものを。 (い) 侯王(こうおう)若(も)し能(よ)くこれを守らば、万物は将(まさ)に自ら化せんとす。 ☆ これ以下は よく分からない。つまり 《無為》と言っていたものがただちに《守る》という概念で捉えられている。人間が守るという捉え方である。分からんわい。 ・・・・
- 老子:37章 道は常に無為にして⇒《非知》か
▼ ちょんまげ英語日誌:老子 第三十七章 道は常に無為にして、而も為さざるは無し http://blog.mage8.com/roushi-37 ▽ 原文 ~~~~~~~~~~~~~~ (あ) 道常無爲、而無不爲。 (い) 侯王若能守之、萬物將自化。 (う) 化而欲作、吾將鎭之以無名之樸。 (え) 無名之樸、夫亦將無欲。 (お) 不欲以靜、天下將自定。 ▽ 書き下し文 ~~~~~~~~~~~ (あ) 道は常に無為にして、而(しか)も為さざるは無し。 (い) 侯王(こうおう)若(も)し能(よ)くこれを守らば、万物は将(まさ)に自ら化せんとす。 (う) 化して作(おこ)らんと欲すれば、われ将にこれを鎮むるに無名の樸(ぼく)を以(も)ってせんとす。 (え) 無名の樸は、それまた将に無欲ならんとす。 (お) 欲あらずして以って静かなれば、天下将に自ら定まらんとす。 ▽ 英訳文 ~~~~~~~~~~~~~~~ (あ) “The way” never does anything voluntary, but it can accomplish everything. (い) If a monarch follows “the way”, all things grow up spontaneously. (う) If there are some trying to forestall others, I calm them with the spirit of a nameless raw wood. (え) If people have the spirit of a nameless raw wood, they will renounce excessive desire. (お) If people do not have excessive desire and their minds are calm, the world will be stable. ▽ 現代語訳 ~~~~~~~~~~~~ (あ) 「道」は自分からとくに何かをする訳では無いが、「道」によって成し遂げられない事は無い。 (い) 人の上に立つ君主がこの事を弁えていれば、全てのものが自分から成長しようとするだろう。 (う) 成長する過程で自分だけ飛びぬけようとするものがあれば、私は名も無い切り出したばかりの丸太の様な素朴さをもってその心を鎮めよう。 (え) 丸太の様な素朴な心であれば、無駄な欲望を持つ事も無い。 (お) 皆が無駄な欲望を捨て去り、心が静かであれば、世の中は自然と安定するだろう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ 特に次のくだりの意味をおしえてください。 ▽ (あ) 道常無爲、而無不爲。 ☆ 《無為》であるが 《不為は無い》? 試訳:《非知⇒非在》なるナゾであるが 《不在は無い》。つまり 《遍在》する。 《為す》という概念を用いているので なかなかピッタリとは解釈しにくい。創造神でもないものを。 (い) 侯王(こうおう)若(も)し能(よ)くこれを守らば、万物は将(まさ)に自ら化せんとす。 ☆ これ以下は よく分からない。つまり 《無為》と言っていたものがただちに《守る》という概念で捉えられている。人間が守るという捉え方である。分からんわい。 ・・・・
- 老子:37章 道は常に無為にして⇒《非知》か
▼ ちょんまげ英語日誌:老子 第三十七章 道は常に無為にして、而も為さざるは無し http://blog.mage8.com/roushi-37 ▽ 原文 ~~~~~~~~~~~~~~ (あ) 道常無爲、而無不爲。 (い) 侯王若能守之、萬物將自化。 (う) 化而欲作、吾將鎭之以無名之樸。 (え) 無名之樸、夫亦將無欲。 (お) 不欲以靜、天下將自定。 ▽ 書き下し文 ~~~~~~~~~~~ (あ) 道は常に無為にして、而(しか)も為さざるは無し。 (い) 侯王(こうおう)若(も)し能(よ)くこれを守らば、万物は将(まさ)に自ら化せんとす。 (う) 化して作(おこ)らんと欲すれば、われ将にこれを鎮むるに無名の樸(ぼく)を以(も)ってせんとす。 (え) 無名の樸は、それまた将に無欲ならんとす。 (お) 欲あらずして以って静かなれば、天下将に自ら定まらんとす。 ▽ 英訳文 ~~~~~~~~~~~~~~~ (あ) “The way” never does anything voluntary, but it can accomplish everything. (い) If a monarch follows “the way”, all things grow up spontaneously. (う) If there are some trying to forestall others, I calm them with the spirit of a nameless raw wood. (え) If people have the spirit of a nameless raw wood, they will renounce excessive desire. (お) If people do not have excessive desire and their minds are calm, the world will be stable. ▽ 現代語訳 ~~~~~~~~~~~~ (あ) 「道」は自分からとくに何かをする訳では無いが、「道」によって成し遂げられない事は無い。 (い) 人の上に立つ君主がこの事を弁えていれば、全てのものが自分から成長しようとするだろう。 (う) 成長する過程で自分だけ飛びぬけようとするものがあれば、私は名も無い切り出したばかりの丸太の様な素朴さをもってその心を鎮めよう。 (え) 丸太の様な素朴な心であれば、無駄な欲望を持つ事も無い。 (お) 皆が無駄な欲望を捨て去り、心が静かであれば、世の中は自然と安定するだろう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ 特に次のくだりの意味をおしえてください。 ▽ (あ) 道常無爲、而無不爲。 ☆ 《無為》であるが 《不為は無い》? 試訳:《非知⇒非在》なるナゾであるが 《不在は無い》。つまり 《遍在》する。 《為す》という概念を用いているので なかなかピッタリとは解釈しにくい。創造神でもないものを。 (い) 侯王(こうおう)若(も)し能(よ)くこれを守らば、万物は将(まさ)に自ら化せんとす。 ☆ これ以下は よく分からない。つまり 《無為》と言っていたものがただちに《守る》という概念で捉えられている。人間が守るという捉え方である。分からんわい。 ・・・・
- 占い師の心得について助言してください。
この質問は占いカテゴリーで出した者ですが回答が1件もありませんでした。 このカテゴリーに質問を移すと、待ってましたとばかりに、日ごろ私がライダーキックを喰らわせている亡者どもが、仕返ししてくると思います。 それでもいいです。 今回特にお聞きしたいのは、役立たずは新興宗教に売り飛ばすと言ったとこがどのくらいおっかない印象を与えるかです。 > 私は占う側なのですが、その心がけについて考えをまとめてみました。 色々な方からご意見をお聞きしたいと思います。 占い全般について同じなのですが、占いを依頼する側は、占いじゃなくて神がかりなご宣託や予言を期待していることが多いのですが、預言者と言えばキリスト教のイエスキリスト、イスラム教のマホメットの事です。占いはそうした宗教じみた運命の支配と盲信を誘うものではなくて、霊感と神秘のおまじないを絡めた、現実とは異なる見解を助言することだと考えています。 預言じゃなくて助言です。 それからタロットの場合は、カードに問いかける内容を正確にしないと、答えも正確に出てこない特徴があります。 そのためには依頼者の本心の望みを聞き出す必要があります。 嫌われている「欲望」と言うやつは、友達はこうだ、テレビではこうだと、誰か他人の事をうらやんで、その誰かさんの望みが自分の望みだと勘違いする事です。 欲望は自分の本心の望みではない。 ですから問い求めの過程で、タロットを何度も使って行きながら、探り当てるのは預言的未来じゃなくて、依頼者が真の願う事を言い当てるのが占いだと考えています。 下手な助言は依頼者の欲望をさらに募らせるばかりですが、そうじゃなくて自分自身が望む願いに到達出来れば、希望となり自らで何とかしようとします。 そんな意思に到達できるようになるまでの助言をするのが占いだと考えています。 これらは会話術や心理分析もどきだけじゃなくて、霊感を備えた直感力と、タロットをうまく操る神秘との親和性で実力が決まってきます。 私は元々悪魔払いみたいなことに明け暮れていた霊感型で、肉弾戦みたいな悪霊バトルよりもタロットなどを効率よく使った方が効果的だからそうしています。 それはともかく、私が見るに、占ってもらう側の資質も重要で、欲望をかなえる事のみに執着して、欲望のために占い師を犠牲にしようと考える依頼者は、本来悪魔払いが必要な重症状態です。 楽しんで占えるのは、自分の本当の心をみつけようとするタイプで、これは楽に助言できます。 欲望の達成をもくろむ方は、私はもう物好きで徐霊しようとは思いません。 私はプロではないのでそのような依頼者は断るか無視します。 もし私がプロで、依頼を断れない立場なら、徐霊可能な重症患者からはひとケタ違う徐霊料金をきっちり請求するか、その必要もない低俗な欲望なら、さらに欲望を募らせるようにそそのかし、廃人にしてから「あなたにもっといい先生を紹介してあげる」こう言って、業務提携を結んだカルト宗教の教祖様に奴隷として転売します。 プロで仕事するならその位冷酷になります。 さて、占い師の心がけとしていかがなものでしょう。
- 老子は 無神論〔なる信仰〕か?
福永光司が まとめとして 書いています。 ▲ (福永:《道》をめぐる信仰? ただの宗教?) ~~~~ (あ) 中国において その宗教思想史の全体を一貫して思想的関心の中核をなしたものは (い) 自己の生命を天(《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》)から与えられたものと自覚し (う) この天から与えられた自己の生命をどのようにして保ち全うし補い輔(たす)けるかであり (え) また有限の存在である自己の生命をどのようにして《妙有》《常好》の《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》の無限性と結合し 一体化するかであった。 (福永光司:中国宗教思想史 『岩波講座 東洋思想 第13巻 中国思想 1』 1990 所収) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (1) 《無限》をあつかうのは 信仰――それは非思考である――しかない。宗教はその信仰論であつかった内容を オシエ――それは 思考である――としてこれを どこで間違ったか 信じる(絶対として受け容れる)ことを為す。 (2) 言いかえると もし《道》が 無限であり絶対であり真理であると想定したときには これがいわゆる神であり その神である道について人は そのまま――思考にあらずして――わが心に受け容れる。これが 信仰である。心には《非思考の庭》が成る。それは 生きる存在たる人にとって 動態である。 (3) すなわちここで 信仰の形態を類型的に捉えた《梵我一如》のかたちを確認したい。 ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~ A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論) 無梵:空・シューニャター・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ C. ブディズム:仏仏一如(=有神論) 仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来) / マハーワイローチャナ(大日如来) 仏:如来蔵・ブッダター(仏性) D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 E. (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 F. 《もののあはれを知る》 霊:かみ(自然および超自然) 霊:われ(自然本性) G. タオイズム:道人一如 / 無為人為一如 道:無限性:無為自然 人:有限性:人為不自然〔を超えて〕 (4) (う)の自己の生命の保全は いわば経験的な意志行為であり 経験思想である。しかるに(え)は まさに梵我一如なる信仰としての《道人一如》を指し示そうとしているかに見える。 (5) そのとき問題は ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか ☆ というふうに この場合にも《経験的な意志行為》を問うていることにある。けれども 信仰は 非思考である。ハカラヒから自由である。(それでも《受け容れる》という点で経験行為であるはずだ つまり ハカラヒがあるのではないかとの疑問が出るとすれば それは 或る種の《賭け》のごとき意志行為だと捉えるのがよい)。 (6) とすると もしタオイズムを宗教ではなく信仰だと言おうとすれば (3)項における B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論) 無梵:空・シューニャター・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ なる無神論の形態だと捉えるすべがある。すなわち 人は有限の生命だから 無限性を帯びる霊我=アートマンは無いと見て 道は無限だがその《無》つまり《無い神》という呼び方を選び取って当てる。 G. タオイズム:道(無い神)人(無い霊)一如 / 無為人為一如 道:無限性:無為自然 人:有限性:人為不自然〔を超えて〕 (7) 言いかえると あと一つ問題なのは ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか ☆ なる究極の問い求めに当たって 《道人一如》なる理念を掲げずそのような《一体性》の理念は 打ち棄てて顧みない。ととなえることをもって 信仰であることにとどまるかどうかである。 とどまらないとすれば ただの――非思考であるべき《信じる》を 思考の産物であるオシエに当てはめるという――自己矛盾に拠って立つ宗教である。 以上を問います。 (8) すなわち タオイズムがもしこの問題にかんしてどっちつかずの答えを出すようであるならば それは もう取り上げるに足りない。のではないか? おもしろおかしい話を二つ三つしているという程度の思想であると。 (9) なお福永説に拠らない場合があるかと思います。どしどしご提案なさってください。 (10) なお親鸞の場合には C. ブディズム:仏仏一如(=有神論) 仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来) 仏:如来蔵・ブッダター(仏性) を信仰の形態としては・つまりその理論としては掲げつつ けっきょくこの理論によって救われ浄土に行くのかどうかは分からないと言う。つまり理論では必ず往生できるし している。しかもそのことが論証・実証できるかどうかなどは分からないと言う立ち場をも明らかにしている。これは 端的に言って 日本的霊性である。ほかには 聖書にもとづくキリスト信仰のみだと思う。 ここまでを問います。
- 所有とは 何ぞや?――職務発明の所有にちなんで。
哲学としては 《私的所有》という概念および形態を揚棄しうるか? ここに焦点を当てようとしています。 奇をてらうものではありませんが 奇抜な事例をわが日本人の昔の民俗から持って来ます。極論をたたき台にしたほうが 互いの問い求めが進むと思います。 ▲ (谷川健一:タマスとカンダラ) ~~~~~~~~ 狩猟や漁撈の獲物の配分を南九州から奄美・沖縄にかけてタマスと呼んでいる。ひとタマスといえば 一人分の分け前のことである。 ここで興味があるのは タマスは当事者だけに与えられるものではないということである。狩や漁の現場にたまたま居合わせた者もタマスにあずかることができる。それを《見ダマス》という。見る者に与えられるタマスのことである。 ・・・ 狩人や漁師が獲物を 惜しみなく平等に分配するのは それが神から授かったものであり 独り占めする訳にはゆかないという考えが根底にある。 そこで 漁の現場で獲物をくすねることも大目に見られた。瀬戸内や九州に多く これをカンダラと呼んだ。 (谷川健一 →さらに詳細は 《QNo.3994017 :われわれ日本人は 互いに相手を神と思っているのでしょうか = http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3994017.html》のNo.29補足欄をどうぞ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 簡単には ただただ個人的な所有ではなく さりとて国有ではなく また必ずしも社会的所有でもなく 《個体的な所有》と呼んでみます。《個体》には 社会的な関係性(カカハリ)をその自然本性において帯びていると前提させます。 個人としての私有財産という概念 これを基礎として それに同時に《関係的な所有》という概念を 絡ませます。経済的な成果のたとえば半分は 関係的に・総合的にみんなの業績であるということ 社会の相互関係なる過程によって もたらされるという考え方です。 これは 非現実的な思想でしょうか? なお 聖書の中で 《ぶどう園の労働者》(マタイ20:1-16)というくだりがあります。よろしければ これも参照してください。→前掲《QNo.3994017 :われわれ日本人は・・・ 》のNo.34補足欄をどうぞ。 現状〔をしっかりとおさえることも大事ですが それでも現状〕を飛び出して 人間のあり方にもとづく《所有とは何ぞや?》をお考えください。どうでしょう?
- 《ファイル人間》は哲学屋であっても哲学していない
ファイルは 必要に応じて抽斗から(ポケットから)出してくるものであって いかに知識と情報がいっぱい詰まったものであっても《ファイルや抽斗やポケット》が街を歩いていてはおかしいぢゃないですか。 日本人はもともと そのような《理屈人間》を嫌っていて そこから基本的に(生活態度として)自由であった。 このところ その免疫性が弱まって来たのでしょうか? といった疑問を覚えるのですが みなさんはいかがでしょう?